第39話 ダースへっぽこ一歩手前で退院
だけど、へっぽこは母よりも変な所で根性があった。
放射線治療の残り回数と月の医療費と入院費用とを考えられるパターンで計算して、そのメモをダンさんに見せて迫る。
「ほら、◇日までここで放射線治療受ければ、今月の医療費は高額医療費に該当するし、来月の残り回数は4回で、平日って言っても毎日は行かなくていいんだから、週一通院を4週間くらい続けたら終わるから、お願い、もう退院させて!私のゆうちょ銀行解約していいから」
つくづくダメなへっぽこ秘書だ。
その努力と根性を、もう少し前に自分の身体管理と家計管理に使っていれば、こんな事態にならなかったのにと思うが、追い詰められないと動かない悪い癖がすっかり沁み付いていた。
そんなへっぽこに、さすがのダンさんも怒った。
「貯金を崩さなくたって、幾ら何でもそのくらい出せるよ。わかった。そこまで言うんなら退院しよう」
へっぽこ、我儘を通す。
ごめん、と心の中では謝りつつ、心底ホッとする。ハンストは全然辛くなかったけど、落ち込んで下を向いてると、もっともっと、とどんどん落ち込んで、シス(スターウォーズのダークサイド)の世界に引きずり込まれるのだ。ダースへっぽこになる所だった。
それで看護士さんとEらい先生にダンさんが話してくれて退院の日が決まった。長らく使わせて貰ったベッドと机、椅子にテレビ台を可能な限り綺麗に拭いて掃除して、給湯室にも行って、お礼を言って、それから談話室の猫ちゃんにさよならを言った。
「有難うね、助けてくれて」
三途の川を渡りかけたへっぽこを追って、絵の中の扉を開け、ダンさんに異変を知らせてくれたのだ。ダンさんは、それを感じてへっぽこを呼び戻してくれた。それで、へっぽこはとりあえずまだ生きてる。
「これからも誰かを助けてあげてね」
手術の間、黙って祈りながら時を過ごす家族を見守る猫。彼はここに居るべくして居るんだなと思った。
そうして病院に礼を言って、へっぽこは意気揚々と出口を出る。
病院の出口付近にはタクシーが行列を作って待っている。
入退院時のタクシー代は確定申告の時の医療費に含まれる。タクシーに荷物を詰め込み、杖を片手に、へっぽこは数ヶ月ぶりの外界に興奮した。近所のパン屋さんの交差点に停めて貰ってタクシーを降りる。
ああ、お家が近い、とウキウキしつつ、フラフラヨタヨタとタクシーを降りたら、すぐ脇を自転車がシヤーッと通り過ぎていった。
ヒィィ。
へっぽこはバランスを崩して転びかけ、慌てて杖をついて何とか踏み止まる。
久々の外界に体と頭が対応出来ないのか。いや、そもそもO阪は自転車マナーが非常に悪いのだ。それは東京から越して来た時にしみじみ感じていた。でも数年もするとすっかりそれに馴染んで、自分もその荒くれ運転でブイブイ言わせてたのだが。
だが、フラフラの身になって知る。
ホント、怖いったらない。
自転車に乗ってる側は、自分の運転はスレスレでも相手には当たらないと思ってるし、相手がよけてくれる筈だと思ってるから容赦なく突っ込んでくる。
いやね、フラフラしてなかったら避けられるんでしょうよ。でも、このフラフラ状態ではとても避けられる自信がない。かなりヤバイ。これは外を歩けないぞ。
退院後、数十分で知った事実だった。病院内はフラフラしてても、皆同じようなものだし、病院内で走ろうとする人なんていない。でも公道ではそうはいかない。そして、一見へっぽこは普通の人に見える。若くないが年寄りでもない。杖は持ってるけど、自転車に乗る人がそんなのちゃんと見てるかって、あんまり見えてないだろう。へっぽこだって元気だった時はあんまり見てなかった。いかにも危なそうなおじいちゃんちゃんおばあちゃんや、子連れ、また松葉杖の人なんかは、発見した時点で、あらかじめ遠く避けて走ってた。
家に帰りたい、と強く願った退院だったが、病院内では守られてたのだということに今更気付く。でも、戻るわけにはいかないし、戻りたくない。へっぽこは杖を握りしめて誓った。
ヤバイと思ったら、避けて貰えるように止まろう。またはあらかじめ避けて貰えるようにヨロヨロ歩こう。「あたしに近付くなよ」オーラを出して歩くぞ、と。昔は自転車と人の賠償保険ってあんまり浸透してなかった気がするけど、今はほぼ義務ではないだろうか。学生がお年寄りに自転車をぶつけてしまって、とても払いきれないような高額の賠償請求をされたって話も聞いたから、我が家は真っ先に自転車保険に入った。加害者になったら嫌だから。でも、まさか被害者になりそうだとは。
そんなこんなで、何とか我が家に辿り着いたのだった。
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