第38話 退院騒動
そんなこんなで、少し余裕の出たへっぽこの目に、やっと院内の壁に貼られている掲示板とか色々な告知の文字が入ってきた。
それまでも目にはしていた筈なのに、目を逸らしてたのか読みたくなかったのか。
それまでにも、よく見てたのは転倒注意のポスター
「早朝は転倒の危険が多いので注意しましょう」
お手洗いのドアにデカデカと貼ってあって、最初はふーん、と思ったものだが、やがて分かる。寝起きで、起動したばかりの頭は昔のPCと同じで、処理能力がひどく落ちてる。そこに負荷をかけないように、というのが、昔のPCのお約束だった。だからスタートアップには重いプログラムを入れなかった。スラムダンクの流川くんは、ひどいねぼすけで、眠ったまま自転車を漕いで、自動車に激突してたけど、普通は車でなく身体が壊れる。特に高齢者は骨折イコール寝たきりになるリスクを負っている。だから細心の注意を払わないといけないのだ。へっぽこは退院後、油断してのんびりしてたら筋力が衰えてしまった。すると確かに転ぶのだ。何もない所で。特に朝の目覚めたばかりの時が一番ヤバイ。それに気付いてから、慌てて色々やり始めたけど、継続が大切だったのだ。そこでマダムの助言は正しかったと後から悔やむのだが、物事は体験して初めて識る。でもあらかじめ聞いていたから、すんなり頭に入ってきたという面もあったりする。
それはともかく、気になったのは、もう一つの告知だ。
「◯◯年◯◯月より、医療技術発展の為、患者様の病気に関する情報を◯◯に提供、共有します」
細かな文言は忘れたけど、そんな感じの告知チラシ。
それはつまり、患者の病気に関する情報をどこかの研究機関と共有して使うから宜しくね、ってこと。
それが比較的目立たない場所にひっそりと貼ってあった。
そう
「ひっそり」
それこそが大事な情報なのだ。一般人には隠しておきたいけど、告知しないと罰則とか法的に違反になりそうなものは、目立たないようそっと小さく置いておいて、後から追求されたら、「え、警告はしましたよね」と言い訳に使うのだ。気付かない方が悪いと。
その告知を読んだ瞬間は、ままある話だと思った。それからジワジワと思う。ここは病院だから治療する場所だと思ってたけど、研究のネタにもなるのだいうこと。ある意味、実験場と言えなくもない。で、つい妄想してしまった。
「ああ、君のデータはなかなか面白いからね。子細を追いかけさせて貰って、いずれ、えびでんすってヤツにさせて貰うよ。だから君には全面的に協力して貰うよ、フフフ」
と、エヴァの碇司令官みたいな黒メガネの悪役が机に肘をついて、指を組ませてほくそ笑んでる光景。
そうだ。最初に主治医となってくれたK田先生はどうして途中から姿を見せなくなってしまったのか。一番偉いっぽいEらい先生がへっぽこなんぞの主治を担当することになったのか。もしや、へっぽこのケースってレア?面白いデータが取れそうだった?
それってこちらとしては全く面白くない状況なんだけど、そんな気がしてくる。それで逃げられないように奥の部屋なのか。ナースステーションの近くなのか。元気なのに退院をすすめられないのか。いや、もしかして逃さないように退院させないつもり?
なんてのは考え過ぎだとわかってはいたけど、とにかく居づらいってことは変わらない。それにモルモットになどなりたくない。そりゃあ、医療技術の発展は大切だと思いますよ。でもね、悪いけど、へっぽこは自らの身を捧げるような、そんな博愛精神に満ちたデキタ人間じゃないんすよ。
励ましてくれた男性看護士さんの優しさは心に残りつつも、すっかりダークサイドに落ちてしまったへっぽこは強硬手段に出た。
まず、ダンさんに訴える。
「やっぱり退院したい。私の死亡生命保険を解約して」
予想通りだけど渋い顔をされる。へっぽこの死亡保険は、受取人はダンさんだけど、基本は自身の葬儀関係と、あとは息子の教育資金にと考えていた。少額だけど。
「あと、ほら。余命半年とかだと、死亡時の生命保険の何割かを先に支給するって特約なかった?」
へっぽこのは余命じゃなくて余意識だけど。
ダンさんに生命保険の約定を見て貰う。でも、やはりどうも該当しないらしい。ちぇっ。
そうしてる間にもベッドは次々空いては次々埋まっていく。シーツを替えに来てくれるおばさんと看護士さんさんの目が気になって気になって、へっぽこはもう半分くらいノイローゼになりかけてた、と思う。
食事を残すようになった。いわゆるハンスト。子どもだ。そんなことしても何にもならない。それは分かっちゃいるけど、食べない内に食べないことに慣れてしまった。水だけ飲んでればいいということに気付いてしまった。
ハンスト開始から数日、今までちゃんと綺麗に完食してたのに、と看護士さんたちが不審な顔をする。でも、その時には本当、全く食べたくなかった。最初はハンストしてたことすら忘れてたくらい。U村先生が様子を見にやってきたけど、へっぽこは「食欲がなくて」と答えた。嘘ではなかったし。人間、食べなくても平気なんだと最初にわかった時だったかもしれない。それまで、ほぼ三食を時間きっかりに食べるのが当たり前だったけど、食べないって気持ちいいかも、とそう思った。
でも病院側からしたら迷惑な患者だ。いいからもうとっとと退院してくれと心から思ったことだろう。申し訳ない。
実はへっぽこの母は、へっぽこが高校生の時に手術をした。母の入院中、長女であるへっぽこが頑張った。家事に学校に病院へのお見舞い。無事手術が終わって暫くして、そろそろ退院かな、と笑顔でお見舞いに行ったら、
「早く帰りなさい!」と怖い顔の母に病室から追い出された。
何が起きたのかわからずにびっくりしつつ、洗濯物だけ交換して慌てて帰った。
後から事情を聞いたら、病院側から退院をすすめられていたらしい。でも、父は家で面倒見られないと退院を延していたんだとか。母は仕方なく、
「子どもたちがまだ小さくて退院の迎えもお願い出来ないから」
と言って誤魔化していたのだろう。そこへ高2の長女登場。そりゃ、母は立場をなくして困ったろう。
へっぽこは父に噛みついた。
「今だってあたしが家事全部やってるんだよ!学校だってちゃんと行ってるしお見舞いにも行けてる!なのに何で退院させてあげないのさ!」
父の事情は知らない。聞いたかもしれんが流した。忘れた。でも、へっぽこは父に対して、深い恨みを持った。いや、それ以前にも色々思う所はあったからだけど。いや、それはさておき。まさか、自分が母と同じような道を進むとは、と因縁を感じたへっぽこだった。
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