第37話 針のむしろ
退院出来ない何が辛かったかって、病院スタッフさんたちからの
「早く退院してよ」という無言の圧力である。
実際、へっぽこの隣のベッドの人は看護士さんに声をかけられていた。
「◯◯さん、▽日の週で退院のご希望の曜日はありますか?」
「え、退院ですか?」
「はい。◯◯さんは状態も良いですし、婦長から、そろそろ退院のお声がけをするように、と」
「そうなんですか。でも帰っても誰も居ないし、急いで帰らなくても。それに迎えに来て貰えるかどうか」
「迎えに来て下さるのは息子さんでしたっけ?」
「はい」
「では、病院からも息子さんにご連絡差し上げてみますね」
「あ、はい。では、宜しくお願いします」
えー、お隣さんは、へっぽこより大分年かさの人。へっぽこの2回目の手術入院よりは先に入院してたけど、やりとりだけ聞いてると、退院をよしとはしてないのに、退院させられちゃうんだ。勿論それぞれの患者さんの病状によるのだろうとはわかるんだけど、彼女が退院なのに、それより若くて、元気そうに見えるだろうへっぽこが退院しないのは変な気がする。へっぽこは左右バランスが悪くてフラフラヨタヨタはしつつも、給湯室まで行けたし、リハビリでもジムによくあるような自転車を、おりゃーと漕ぐ元気があった。どう見てもへっぽこが先に退院すべきなんじゃない?
とにかく、看護士さんたちは忙しい。
患者さんがいればいるほど忙しい上に、ベッドはほぼほぼ空きなし。お手洗いに行く時など、ナースセンターに電話がかかってくる。
「はい、はい。いいえ、無理です。ベッドに空きがないから受け入れられません!」
ガチャン!
乱暴に置かれた受話器と、ひっきりなしに鳴るナースコール。
ナースステーションから出て行った看護士さんが、へっぽこの方をチラと見た気がしてしまう。
ヒイイィ。へっぽこは縮こまった。
いや、気にし過ぎかもしれないんだけど、でも邪魔者を自認してる身としては痛いんすよ。
あたしだってね、早く退院したいんですよ。早くこのベッドをあけて差し上げたいんですよ。でもね、でもね。
そして、週に一回、ベッドのシーツを交換に来るおばさんや入院着を交換にくるおばさん。毎朝、ゴミ箱の中のゴミを回収に来るおばさん。彼女たちは看護士さんの指示で、ベッドを動かしたり掃除をしたり。バタバタといつも忙しそうに動き回っている。そんな中、そんな高齢じゃないのにベッドに腰掛けて、のんべんだらりと読書に勤しんだり、スクワットをしてるへっぽこ。そりゃ、スタッフのおばさま方から見たら、
「元気なら早く退院すりゃいいのに」と思って無理はない。
それもへっぽこがいるのは、六人部屋ながら、奥まった部屋の窓際のとても良い場所。へっぽこは確かにずっとここにいる。最初に救急車で運び込まれた時にここに入ったのは、単に丁度タイミング良くこの場所が空いたのだろう。だけど、その後に手術して一時退院した後に、また同じ場所に戻って来たのは、勿論患者さんが増えてベッドが埋まる事態にならなかったことと、またへっぽこは大きな手術が控えていたから、わざとそう配慮してくれた為かもしれなかった。というのも、すっかり居心地が悪くなって怯えてたへっぽこが、夕方にオドオドコソコソと水筒を抱えてお湯を貰いに給湯室に向かっていたら、最近放射線治療に行く時に車椅子で連れて行ってくれることの多かった男性看護士さんが、そんなへっぽこを見咎めて、どうかしましたか、と声をかけてくれたので、
つい
「入院用のベッドが空いてないのに元気な私が退院しないのが申し訳なくて」
と零してしまったのだ。そうしたら、男性看護士さんは、ああ、とわかった風に頷いた後に
「いいんですよ。だって、へのさんはあんな大変な大手術を受けたんですから」
そう言ってくれた。それから
「だから自信をもって堂々と踏ん反り返ってていいんですよ」
と足してくれた。
いや、踏ん反り返るのはさすがに、と思いつつ、でもその言葉にすごく救われた。男性の看護士さんは増えてると聞くけど、そこの病棟ではまだ圧倒的に女性の看護士さんばかりだった。婦長さんも女性だったし。だから男性ならではの大変さもあっただろうし、力仕事は遠慮なくバンバン回ってくるだろうことも予想出来たのだけれど、そんな中でイキイキとお仕事しながら、男性らしい鷹揚さというか、ゆとりや余裕を感じさせて貰えたのは、とても有り難かった。
それでホッとしてお湯を汲み、病室のベッドに戻りかけながら、言われた言葉をふと思い返す。
「あんな大変な大手術を受けたんですから」
「あんな大変な大手術」って?え、そうなの?
へっぽこは結局、自分の正確な病名を知らぬまま手術を受け、治療を受けていた。だから呑気なもんだった。だって病名を聞いちゃってたら、やっぱり気になって検索したくなっただろうし、検索しちゃったら、きっとネガテイブな情報を見ちゃってた。そりゃどうやったって気分も落ち込んだろう。それに耐えられるような強い人間ではない自覚が多分にあったへっぽこは、病気に関しては終始一貫、見猿聞か猿言わ猿を貫き、そして何とか耐えられたのだと思う。
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