第四章 退院騒動

第36話 退院出来ない理由

 放射線治療も抗がん剤も、入院でなく通院外来でも受けられる。何やかんやと過ごしている内に、その放射線治療は残り10回を切っていた。病院側からは、そろそろ、と退院を促されている気配を感じ始めていた。当然、へっぽこも退院して自宅に帰り、自分の布団で眠りたい。病院食に文句はないけど、家で家族とご飯を食べたい。何より、家でゆっくり湯船に浸かりたい。前回お風呂に入ってから、もう2ヶ月が過ぎていた。病院にはお世話になって感謝しているが、それでもいい加減、入院生活とはサヨナラしたかった。


 だけど、へっぽこはまだ退院が出来なかった。


 Eらい先生にとめられたわけではない。ダンさんが待ったをかけたのだ。


その理由は二つ。一つ目は平日に仕事を休んで放射線治療を受けに来るのが難しいこと。代わりに連れて来てくれる人を頼むアテもなかった。

二つ目は、早目に退院してしまうと月々の高額医療費に達せずに出費が嵩むかも知れないこと。


一つ目については、よく承知している。へっぽこが最初に意識を失って入院してから換算すると、もう四ヶ月になっていた。ダンさんは介護休業を取った上に有給休暇も使ってくれていた。一日に数十分の放射線治療の為にこれ以上休みを取るのは、周りにも申し訳が立たないだろう。


そして二つ目も切実だ。高額医療費が適用されないと家計が破綻する。ただでさえ、へっぽこが倒れてからというもの、食費やら雑費やら、様々な出費が激増しているのだ。そこに外来での放射線治療がかかるのは痛い。


 へっぽこは放射線治療が一回につき幾らかかるのかを、単刀直入に事務の人に尋ねてみた。すると、保険適用で約一万円だそうだ。(これは病院によって、また部位などによって値段設定はきっと違うのだろうが)。へっぽこはダンさんの扶養家族に入ってるから三割負担。それで一万って、実際は約三万ってことだろう。



それを残り10回弱、外来で払っていくとすると計十万。入院はもっと高い。でも入院していれば、ほぼ自動的に高額医療費の対象になって、手続きも簡単で済むのだけれど、退院して外来となると手続きが煩雑になる上に、高額医療費対象外になると更に医療費が嵩むのだ。それでU村先生は最初に入院治療を強くお薦めしてくれていたのかと納得する。まだ研修医なのに、色々気配りが出来てすごいなぁと今更ながら感心する。そして、自分は運が良かったなぁとも。他の先生はよくわからないけど、当たる先生によっては、余りに忙し過ぎて、そこまで教えてくれない可能性もある。料理も仕事も、また育児や財テクも全てそうだと思うが、知らないと損をすることのなんて多いこと。情報過多と言われるし、実際にそう思うけど、賢い人は上手くそれらを利用している。効率よく短時間で必要な情報だけを厳選して。

 でもへっぽこはそういうのが苦手だった。興味のあるものだけにガーッとのめり込み、あとはテキトー。そんなでよく秘書なんやってられたもんだなと思う。だからへっぽこ秘書。


 元々へっぽこは一般に言われる、会社の重役につくような秘書業務に従事していたわけではない。ただの事務員。個人事業主として秘書業を請け負うようになったのは、息子を出産して、その後復帰した会社も辞めて、さてどうしようかと思った時に在宅秘書の募集を見かけて、OAには自信があったので面接を受けて採用されたのだ。その頃はまだ企業サイトもHTML言語で打ち込んでサーバに接続して、なんてのが多いweb黎明期。でもへっぽこはHTMLが好きで画像加工も出来てロゴも作れたし、タイピングも当時の他の人に比べたらかなり速かった。それで無事採用が決まり、育児をしながら当時流行っていたSEO対策の会社の社長の秘書業務を在宅で請け負うことになった。ダイレクトマーケティングという言葉も流行りかけの頃。その時の社長は今はスピリチュアルな分野で講演をしたりするようになっているようだけど、その頃は細かな数値に拘るタイプだった。人は変わるものなのか、ブームに上手く乗れる人なのか。


とにかくそういうわけで、社長や重役のお仕事やスケジュール管理、文書作成などのサポートをするのを単純に秘書の役割とするなら、仕事相手が個人社長でも仕事内容が多岐に渡るという意味では、在宅秘書も秘書だし、家庭の主婦も秘書だと思う。夫のサポート、家計管理、学校行事参加に子育て、近所付き合いに親戚付き合い。家の中のあれこれを整理、メンテナンス。手の抜き次第もあるけど、多岐に渡って待ったなし。結構大変。出来る人はそれを難なくこなすが、へっぽこはあくまでへっぽこ。家計管理が不十分でこういう事態になった。贅沢するようなお金は必要ないと今でも思うが、最低限の緊急費、またはへそくりは、他の何を割いても確保しておくべきだった。よく「お金はエネルギーと同じ」と言われる。上手く流せる人は潤沢に回せて困ることがない。でも下手にケチったり、無理をし続けるとエネルギーの流れが堰き止められて首が回らなくなる。その時のへっぽこはそうだった。へっぽこ秘書でなく、上出来秘書ならば、僅かな余剰金でも、コツコツへそくって、前田利家の妻・まつのように、ここぞのタイミングで、バーンと出せたのだろうが、へっぽこはどこまでもへっぽこ秘書だった。そして首が回らなくなって自分の首を絞めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る