第一章 突然の意識消失と入院手術
第1話 起こしてくれた猫
あれ?
ここはどこ?
——フンフン。フンフン。
何か耳元で鼻息が聞こえるなぁ。
ああ、ミルチーか。あたしの飼い猫。生まれてすぐに母猫とはぐれた、というより落とされたのだろう。へその緒をつけたまま梅雨入り間近の、強く照り付ける陽射しの中、アスファルトの上に寝そべって、砂漠の中で水を求める旅人のように片手を伸ばして助けを求めていた真っ黒な赤ちゃん猫。
仔猫用粉ミルクを溶かして哺乳瓶で与え、せっせと世話して、引越しても結婚して子どもが生まれてもずっと一緒だった可愛いあたしの子。
寂しがりでツンデレな彼は、よく布団を踏み踏みしながら、寝ようとするあたしの耳たぶをチューチュー吸って甘えてた。でも、いざ抱こうとするとサッと逃げて捕まらない。やがて息子が生まれると、彼のスリーパー(子どもが寝巻きの上に羽織って布団から飛び出ても寒くないようにするもの)の中に二人羽織で拘束され、遠い目をしながらも息子が深く寝入るまではと耐えてくれた。息子にとっては兄ちゃんのような存在。その頃には、恐いあたしより優しいダンさんに首ったけで、ダンさんが昼寝でもしようと床に転がろうものなら、その胸の上にどっすりと箱座りして、洗濯物を片付けようと部屋を覗きに行ったあたしに、
「ナニ見とん?オレらの至福の時間を邪魔すんなや」
と睨みをきかすくらいにふてぶてしく、あたしには可愛げがなくなっていた。
——でも、もしや昔を思い出して、たまにはあたしに甘えてみたくなったのかな。よしよし、おいで。
と手を伸ばしかけて気付く。
ミルチーは2年前に亡くなった筈。18歳と少しだった。二十歳まで、いやそれ以上生きてくれると信じてたから家族中で悲しんで、数日だけ遺体と共に泣き暮らしたけど、やがて諦めてペット火葬してくれる所を探して葬って貰った。彼の遺影も、うちの仏壇に飾ってある。
そう、もう彼は居ない。なのに、そのミルチーが何故あたしの布団の上にいるの?
あ、なんだ。夢か。
そう思った瞬間に、しっかりと目が覚めた。
あたしは白い柵に囲われたベッドの上に横になっていて、その向こうの方には白い上下で慌ただしく動く女性の姿が複数。
そう、病院に担ぎ込まれていたのだった。
ちなみに、あたしは在宅秘書の個人事業主。兼業主婦しながらウエブ制作とかライターみたいなことをやったり、顧客サポートとかお問い合わせ対応とか、パートタイム仕事をしたりして、家計を支えようと頑張っていた。
うん。へっぽこながら、それなりに。
その日は息子が昼に学校から帰ってくるから、それまでに仕事を終えなくてはと朝から焦っていた、筈。
が、なんだか記憶が足りない。
ホワーイ?
確か、まだ仕事中だったんだけど。社長に業務報告してないんだけど。
その時、愛猫ミルチーだと思った黒い塊が動いた。
「お母さん、大丈夫?」
その声に反射的に答える。
「あ、お帰りー。テストどうだった?」
どうやら目の端に映っていた黒い塊は息子の髪の毛だったらしい。でもおかしいなぁ、ジトリとあたしを睨む薄い黄金色のミルチーの視線をひしひしと感じたんだけど。踏み踏みもすごくリアルだったし。さすがに息子はそんなことはしないだろう。
そうボーッと考えていたら、大きなため息らしきものが聞こえた。
「良かった」
続いて柵の向こうに、見覚えのある顔が現れる。
ダンさんだった。
「大丈夫?意識不明で救急搬送されたんだよ」
「へ、意識不明?」
そう言われても、あたしはまだどこか他人事のような気分でいた。
「ダンさん、今日会社でしょ?会社どうしたの?」
「早退したよ」
「それは申し訳ない。でもあたし、もう大丈夫だから会社戻っていいよ。息子くんも明日テスト2日目だし、家に早く帰らなきゃね」
笑ってそう言うが、二人とも神妙な顔のまま笑わない。
「あ、そうだ。社長に連絡しなきゃだった」
そう言って、いつも手元にある筈のケータイを探す。
が、ない。
社長への連絡より大切なことは他にいっぱいあった筈だけど、確かにそう言ってワタワタしていた。そんな記憶が残っている。
へっぽこは、あらゆる面においてへっぽこな秘書だったが、気持ちだけはどこまでも真面目で、いわゆる社畜向きの性分だった。
いや、もしかしたら、その時のへっぽこは、自分の置かれた状況を正確に把握するより、この異常な状況から逃れたくて、何とか日常に戻そうと無意識のうちにあがいていたのかもしれない。
やがて、ダンさんが重そうに口を開く。
「社長は連絡しとくよ。それよりあのね、今日はここに泊まるように言われてるんだ」
「え、ここって病院に?」
コクリと頷くダンさんと息子。
「いや、帰るよ。あたし平気だから」
そう。倒れたにしても、もう意識は戻ったんだし帰らないと。だってまだ仕事やりかけで放ってきちゃったし、息子は明日もテストだし、ダンさんも会社だし、早起きしてお弁当作らなきゃ。
だけど帰して貰えなかった。そこの総合病院は自宅から自転車なら20分くらい。中に入ったのは初めてだったけど、何度もその前を通っていた、ある意味では馴染みの大病院だった。
勿論、こんな風に入るつもりなんか、これっぽっちもなかったけど。
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