第3話
山を下り、舟で朱貴の営む居酒屋に赴くと、兄の扈成が座していた。
久しぶりに見た兄の顔は少し痩せた様であるが、懐かしさと安堵で扈三娘の眼に再び涙が滲む。
「妹よ、元気そうで良かった。」
「兄様こそ、ご無事で安心致しました。」
同席した宋江がさめざめと泣き出したのが興醒めではあるが、扈三娘は戴宗と王英に丁寧に礼を述べた。
頭領達も集まって来て酒席が設けられる。
林冲の顔を扈三娘は見られないが、兄と何やら話しているのは分かった。
湖を渡らず、何故朱貴の店なのか。
賊の一派と盃を交わすような事を本来は嫌う兄の意向かもしれない。
やがて皆に酔いが回った頃、扈成と二人で話をする事が出来た。
店を出て、星を眺めながら兄に問う。
「兄様はこれからどうするおつもりですか。」
「そうだな。西の方に住む友人を頼ってみようと思っていた。出来ればお前も連れて行きたかったのだが。」
ここで約束があるのだろう、と穏やかな声で扈成は言った。
既に聞いていたらしい。
「お前は義理堅いから。ここで元気に暮らせよ。一目会えて良かった。」
今生の別れ。
そんな言葉が扈三娘の脳裡をよぎった。
何か言いたいのに、何を言ったらいいのか。
もう会えないことも覚悟していた筈が、こうして会うと欲が出るものだ。
「結婚もするのだろう。王英という男、俺は嫌いじゃないな。」
「何故ですか。」
「俺を捜すのに随分無茶をしたようだ。一日中歩き通し、飯もそこそこに聞き込みをしたり。余程お前を妻にしたかったと見える。そこまで妹を想われては悪い気はしない。」
先ほど王英に礼を述べた時はそんな素振りは見えなかった。
扈三娘がそう言うと、
「恰好つけていたのではないか。」
扈成は笑ってそう言った。
扈三娘は笑える気分ではなく、単に男はそういうものなのかと感じただけだ。
それよりも結婚の話、兄が乗り気らしい事が少々扈三娘を気鬱にさせる。
約束した事とはいえ、まだどこか現実味が出てこない。
「ところで、先ほど林冲殿と何を話しておられたのですか。」
「ああ。妹に槍を向けて申し訳ないとさ。戦場に立てば関係ないと返したよ。」
「それだけですか。」
「王英殿、少し軽い所はあるが心を決めたら一途だから心配しなくて良いとも仰っていた。」
「そうですか。」
この期に及んでまだ林冲を気にしていることが少々情けなく感じる。
視線を落として扈三娘は黙り込んだ。
誰もが、自分と王英の結婚を望んでいる。
ならば、そうするべきだ。
頭では理解した。
「不安もあるだろうが、なるようになるだけだ。」
不安なのは扈成も一緒だろう。
しかしそれは微塵も感じさせずに、扈成は強い言葉で扈三娘を励ます。
なるようになる。
ああ、その通りだ。
兄の言葉だからこそ、扈三娘の揺れる心は定まった。
会えて良かった。
扈三娘は心からそう思う。
改めて、戴宗と王英に礼を言わねばならない。
そこへふらりと、王英がやって来た。
「こ、こ、扈三娘、殿。」
声が裏返っている事に赤面しながら、王英は扈三娘の正面に立つ。
身長は扈三娘よりも低い。
二三度、口をパクパクさせてから咳払いをすると、唐突に切り出した。
「扈三娘殿は、オレの嫁なんかじゃ幸せじゃないかもしれんが。扈三娘殿を嫁にできたら、オレは幸せだ!」
真っ直ぐ、王英は扈三娘の眼を見つめる。
その顔は明らかに不安の色を映しているが、眼差しは強かった。
誰かを幸せに出来る、そんな相手がいる事など考えた事ない。
どう応えたら良いか分からず突っ立っていると、王英は続けた。
「いつか、で良い。こんなオレの嫁で良かったって、ほんのちょっとでも思ってもらえるように、オレも頑張るから!」
扈三娘に差し出された手は微かに震えている。
こんな事をせずとも、約束があるのだから結婚は出来るはず。
それでも、こうして言葉に変じた想いは扈三娘の心を少し開く。
想ってくれる誰かを想いたい。
林冲ではないけれど、誰でも良くはないけれど。
扈三娘は王英の手を取った。
新たな恋が花開くまで、もう少し。
扈三娘の密かな恋 山桐未乃梨 @minori0
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