第3話

結局、どう諭せば良いか見いだせぬまま、張教頭との約束の日になってしまった。

訪問の刻限まで、重い足取りで街をぶらつく。

開封府は賑やかだ。

店には何でも揃っているし、飲食店も深夜まで営業しているところも少なくない。

地方から人が集まって行商人も多く、夕刻の今頃は商い人の声がそこかしこで聞こえてきた。宋国経済の中心地であるから当然ではある。

それでも、林冲の鬱々とした気持ちにはそぐわなくて林冲はますます気を重くした。

すると、物売りの声に混じって、中年男性の荒々しい声が聞こえてきた。

前方を見ると、吝嗇家で有名な呂太公の店先だ。

中年男性は主の呂太公に間違いはない。その呂太公が棒を持って若い奉公人らしき男を打ち据えていた。

若い男はひたすら頭を垂れて謝罪し、許しを乞うている。

周りの人間も呂太公を宥めてはいたが、呂太公の怒りは凄まじく、また棒を振り上げた。

林冲は見かねて呂太公に声を掛ける。

「呂太公殿、一体どうされましたか。」

呂太公はとりあえず手を下ろし、林冲に一礼した。

「これは林先生、こちらに足を運びなさるとは珍しい。先生こそどうされましたか。」

「どうもこうもありません。頭を下げている相手をそんなに打ち据えるなど、余程の理由がおありなのですか。」

林冲はさり気なく若者と呂太公の間に入った。足下には、幾ら分かは分からないが、銀子が散らばっている。

「こいつは盗人です!店の銀子をくすねやがったんですよ!」

思い出したら怒りが再燃したのか、呂太公は顔を赤くして若者を指差した。

林冲は今度は若者に顔を向けて尋ねる。

「何か金が要る理由でもあったのか。」

「こ、故郷の妹が…結婚が決まったもので、色々と入り用の物を揃えてやりたくて…。」

「主人から祝い金を貰ったのではないのか。」

「……。」

「貰っていないのか。」

この会話で呂太公は、決まりが悪そうにそわそわし出した。

「呂太公殿、奉公人の身内の慶事に祝い金も出さぬつもりでしたか。」

「そ、そういう訳ではっ…。」

「ではその金を祝い金としてくれてやってはいかがでしょう。」

「……いえ、そのぉ…。」

呂太公の歯切れは悪い。なるほど、噂に違わぬケチである事は間違い無さそうだ。

呂太公が何か言う前に、打たれていた若者が口を開く。

「悪いのは紛れもなく私でございます。盗んだ金で何か贈っても、妹が喜ぶはずがありません。それが分からぬ私が愚かだったのです。」

涙と鼻水が溢れた顔で若者は林冲にも頭を下げた。その様子が哀れで林冲はある提案をする。

「では呂太公殿には私が返金致します。その銀子は祝い金として贈ってやって下さい。」

「林先生、それはっ…。」

若者が何か言おうとするが、林冲が目で制す。

「ウチは金が戻れば異論はございません。」

呂太公はそう言って漸く棒を手から離した。

騒ぎに集まっていた野次馬も、一件落着を見届けるとそれぞれに散って行った。


「林先生、この度はなんとお礼を言って良いか…。」

林冲が呂太公に投げつけるようにして銀子を渡した後、若者は深々と頭を下げた。

若者はもう店で働かせてもらう訳にはいかないと、暇を出していた為、林冲は家に招いていた。

「礼なんていい。俺はああいうケチが好きじゃないだけだ。」

林冲の家には初老の下男が一人いるだけだが、父の代から仕えてくれている彼に林冲は日頃から感謝していた。奉公人は家族同然、林冲はそう思っている。

だから何も祝うつもりのない呂太公に腹立たしさを覚えたのだ。

「それよりお前、名は何という。」

「はい、李小二といいます。」

若者はそう名乗った。

「妹の結婚だったか。」

「はい。私の分まで年老いた母の世話をしてくれておりますので、何か良い物を贈りたかったのです。浅はかに盗っ人の働きをしてしまい…。」

「それはもう良いではないか。あの店を辞めて、行く当てはあるのか。」

「…これからは、母や妹のいる故郷でひそやかに暮らそうと思っております。」

「故郷はどこだ。」

「高唐州でございます。」

「ならば路銀を持って行け。」

「いえ、それは」

「構わない。俺は独り身だ。」

林冲は更に銀子を幾らか手渡した。

受け取ろうとしない李小二の着物に無理やり突っ込むと、林冲は酒を振る舞い、ただただ李小二を恐縮させる。

李小二が盗みを働いてしまったのは、魔が刺したというほかない。呂太公の店の往復中、林冲は確信した。道すがら、李小二をひそかに心配していたらしい者達が林冲に声を掛けて来たからだ。

薄給の呂太公の店で真面目に働いていた李小二を近隣の者はちゃんと見ていたということだろう。

「それより、やはり妹の結婚は嬉しいか。寂しくはないのか。」

「もちろん喜ばしい事です。妹の事を気に入ってくれる男が現れたのですから。そして好いた者同士で結婚出来るのですから。寂しいとは私は思ってはおりません。ただただ嬉しいのでございます。」

そう言う李小二の顔は、その言葉通り喜びに輝いている。

「そうか。俺は兄弟もおらんからな。」

林冲の脳裏には杏麗の顔が浮かんだ。妹のようなものだ、と思っている女性もいつか、そう遠くないうちに結婚するだろう。その時は林冲も今の李小二のように喜べるのか。

李小二をうらやましいと、林冲は思った。




張教頭との約束の刻限に林冲は張教頭の屋敷を訪れた。

女中と共に杏麗がすぐさま奥の部屋へ通してくれる。部屋には既に数々の肴が用意されており、暖かい湯気が良い香りを運んでくれた。酒好きの林冲は肴を食わずに呑む事も多く、その事に不満は何もなかったのだが、張家で飲む時は料理も楽しみの一つとなっている。

しかし今日は、杏麗に結婚を勧め、承諾させなくてはいけない。その事が重く心に押し掛かり、目の前の料理と杏麗の笑顔は却って林冲を苦しめた。

「今年も白木蓮が綺麗に咲きましたよ。」

自ら酒を持って来た杏麗が林冲にそう言う。

「ああ、良い香りがする。では一輪…。」

十年前の、庭での一件以来、林冲は毎年白木蓮を杏麗の髪に挿した。

今年も、と思ったが、林冲は逡巡する。杏麗が結婚したら、もう自分がそうすることは適切ではない。そう思ったのである。

しかし杏麗は、

「髪に挿して下さいますか。」

そう林冲に頼む。頼まれればやるしかない。

林冲は庭に降りて、綺麗な花弁の花を一輪手折る。そして杏麗の耳の上に挿した。十年間、変わらぬ位置に。

「ありがとうございます。」

どんなに美しい花も霞む、と評判の杏麗の笑顔が目の前にあった。

春になると、杏麗の髷や簪は簡素になる。挿してもらう白木蓮の為であることを林冲は以前女中に教えてもらった。

杏麗にとって特別な白木蓮、今年が最後かもしれない。

やがて張教頭も帰宅し、表向きはいつも通りの酒宴が始まる。

杏麗が酌をして肴を勧め、林冲は勧められるまま呑んで食う。

「さて、私は手洗いに行ってこよう。林冲、遠慮せずに飲んでいてくれ。」

美味い酒と肴につい忘れがちになっていたが、そこで林冲は思い出した。

張教頭はしっかりと目配せをして席を立つ。

臓腑が重くのし掛かるような錯覚を覚えたが、やるしかない。

「なあ、杏麗。」

林冲のような男に遠回しな言い方は思いつかない。

笑顔を向けられる視線を外して、林冲は思い切って切り出した。

「張先生は杏麗の結婚を願っているようだ。それを断り続けているのは理由でもあるのか。」

やはり、その話は杏麗から笑顔を消してしまった。

「私は好いた方と結婚したいのです。適当にあれこれと、知らない殿方と結婚しろと言われても、はいなどと言えません。それだけです。」

思っていた通りの杏麗の答えだった。杏麗は顔を伏せてしまい、目の端に涙が滲むのが林冲にも見える。

ならそれでいい。

そうは思っても、張教頭は納得しない。林冲は本音に反して続けた。

「会ってから感情が芽生えるかもしれない。張先生が選んだ男だ。信用していいのではないか。」

独身を貫いている男が何を言うか、と我ながら滑稽だが、これで後に引けなくなった。

「林冲様も私が結婚するべきと思っているのですか。」

杏麗の声は震えている。これでいいのかと、なおも林冲は迷う。迷うが、

「張先生の言う事に間違いはない。」

とだけ言った。

「わかりました。」

そう言った杏麗に、もう掛ける言葉が見つからず、林冲は固まる。

戻って来た張教頭の手には縁組みの封書が握られていた。



結婚の話で盛り上がる父を適当に濁して、杏麗は自室に戻って来た。

戻った途端に涙が流れる。

もう恋は散ってしまった。

幼い頃に出会って憧れて、すぐに好きになって……林冲以外の男などまるで目に入らないくらい夢中になって恋した。

林冲が結婚しないことも、もしかしたら自分が妻になれるかもしれないと、淡い期待を抱かせた。そんなはずない、と思っていても。

杏麗は膝を抱え込んで、顔を埋める。

そんなはずない、と分かっていたのだから、戻らなくてはいけない。いつかこんな日が来る事も、なんとなく覚悟していた。

笑顔で戻って父と林冲を安心させないといけない。

なのに涙が止まらない。

やはり林冲以外の男性と結婚なんて…したくないのだ。

いつの間にか髪から落ちた白木蓮も拾う気になれず、ただ泣くことしか出来ない。

すると、自室の扉が軽く叩かれ、女中の声でした。

「お嬢様、入ってよろしいですか。」

いつも話をする年上の女中だ。泣いている所を見られるのは躊躇したが、気心の知れた彼女なら、と杏麗はよろよろと歩いて自分で扉を開けた。

すると女中の後ろに林冲がいる。

予想外の人物に杏麗は動けなくなったが、女中は、

「それでは林先生、後はよろしくお願いします。」

と言って去ってしまった。

どういう事か、杏麗の頭は混乱する。しかし廊下に林冲を立たせておくわけにもいかず、弱々しい声で部屋に招き入れた。

林冲は頭を掻いて謝罪した。

「すまない。こんな風に泣かせるなら、やはり言うべきではなかった。結婚が嫌なら、俺からも張先生にそう言ってみる。」

林冲はそう言うが、根本はそうではない。林冲と結婚出来ないのなら、誰と結婚しようが大差ない。

だから、林冲の気持ちが杏麗に向かない以上、諦めて結婚を決めてしまえばいいのだ。頭ではそう分かっている。

「林冲様、良いのです。もう良いのです。」

いつも林冲の前では笑顔でいられるのに、どうしても、今は笑えない。

「杏麗、結婚とは幸せな事だろう。めでたいことは当人だけでなく、周りも幸せになる。そういうものだと俺は思っていた。だが、杏麗が笑顔でいられなくては、結婚なんて意味がない。俺も、祝えない。」

林冲が哀しそうな顔をしていた。こんな顔をさせたいのではない。

どうしたらいいのか、杏麗自身にも分からなくなっていた。


迷いは、杏麗が幸せになれないということに起因していると思っていた。好いた者同士で、周りも笑顔にできるような、杏麗にはそういう結婚をして欲しい。

林冲は、幸せそうな李小二の顔を思い出す。彼の妹はまさしく理想的な結婚が出来たのだろう。

それが本心であることに違いはない。ないのだが…。

林冲は床に落ちている白木蓮を拾った。

「俺の隣ではいつも笑ってくれているではないか。」

会うといつも笑顔を向けてくれる、だからそれは容易いと思い違いをしていたのは、やはり林冲が野暮天で朴念仁だからなのだろう。

「……林冲様だからです。」

杏麗は差し出された白木蓮を受け取ろうとせず、涙を隠すように短く素っ気なく答える。

それがひどく、林冲の心をざわつかせた。

向けられる笑顔が当たり前になりすぎて、それを失う事にまるで実感がなかった。

もし、杏麗が他の男を好きになったら…。笑顔で結婚すると言ったなら…。

林冲の胸が痛む。寂しさとは違う。だが、杏麗の胸の方がはるかに痛いに違いない。

林冲は杏麗の肩にそっと手を添えて優しく言った。

「俺の横なら笑っていられるのなら、ずっと俺の横にいればいい。」

杏麗がやっと、顔を上げる。

「杏麗、俺の妻になるか。」

陸謙の言う通り、たったそれだけで万事解決。

好きという感情が分かったわけではない。ただ、これまでと同じである事を林冲は望んだ。この先ずっと、杏麗に笑顔を向けられる事、そして毎年、白木蓮を杏麗の髪に挿す事。それが結婚という形で叶うなら…。

杏麗は頬を赤く染めて、大きく肯いた。

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白木蓮 山桐未乃梨 @minori0

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