第2話

可愛い娘だが、嫁き遅れるのも困る


杏麗との出会いから十年、その間林冲は張教頭と同じく教頭職を拝命し、張家では張教頭の妻が病死していた。

杏麗は十九。近所の世話好きの爺婆から数え切れない程の縁談が舞い込んでいると聞く。

それもその筈、幼い頃から美女の片鱗を見せていた杏麗は、周囲の期待以上の美しく可愛らしい女性へと成長したからだ。

髪は艶やかで肌は陶器の如くに滑らか、丸い瞳は宝玉のよう…おまけに奉公人にも優しく気立て良く、頗る評判が良い。

当然男達は放ってはおかない訳だが、杏麗はそれを適当にあしらっているらしい。

縁談は悉く断り、かといって恋仲の男がいる様子もない。

なので張教頭は、可愛い娘だが……と愚痴のように繰り返しているのだ。

今日も朝会の儀の後、林冲は張教頭に挨拶をしたら例の台詞が返って来た。

「十九ならまだ焦らずともよろしいのでは。」

と、林冲は思ったまま話すのだが、張教頭はそう思っていないようで、

「そんな事を言っていては他に良い男が見つからなくなってしまう。」

と引かない。

林冲自身も縁談は全て断り、独り身を貫いている為耳の痛い言葉でもある。

三十一の年になった林冲も過去に恋人が全くいなかった訳ではない。

ただ、女性と過ごす時間より槍棒を振るう方が好きであったし、女性が喜ぶ贈り物や、気の利いた台詞なんぞに頭を悩ませるのは億劫でもあった。そのせいか女性はすぐに林冲の元を去り、林冲もまあ仕方なしと言って追いもしないのだからやはり林冲にとって結婚は縁遠いものなのだ。

そもそも、張教頭のいう良い男とは何か。

林冲にはそこが分からない。家柄か、器量か、学か、武か。どれか突出していればいいのか、どれもそれなりに必要なのか。

では良い女とは。

答えを出せずに堂々巡る。

どうにも、林冲には男女の色恋事は難しすぎた。

「林冲、杏麗にいい加減良い相手を決めるようにそれとなく説いてくれないか。」

「は…えぇ?」

「林冲からも言われれば、少し杏麗も焦りを感じてくれるだろう。頼んだぞ。」

林冲の返事を聞く間もなく、張教頭は会議に出なくてはならないと言って去ってしまった。

「……いや、荷が重い…。」

と、林冲は一人、呟いた。




「なんだ、そんな事で悩んでいるのか。」

そう言って肴の菜を小さな口で食んでいるのは幼馴染みの陸謙である。

長身の林冲に比べて身の丈は七尺ほどしかなく、また年の割に童顔の為並んで歩くと親子と揶揄されることもしばしばだ。

科挙を目指していただけあって頭の回転が速く、また物知りでもあったので、張教頭からの無理難題を相談していた。

林冲が話し終えるなり、あっけらかんとその台詞を吐いたのであった。

「そんな事とは言うが、張教頭は今は同僚だが、元は上官で俺を教頭に推薦して下さった方だ。大事な御息女の婚姻を俺なんかが口を出して良い訳もない。」

「だからお前は朴念仁であり野暮天であり唐変木なんだ。」

「そこまで言うか。」

「そこまで言うさ。そのお嬢様、他ならぬお前に惚れているんだろう。」

陸謙の、予想外過ぎる言葉は林冲の動きをぴたりと止めた。

「……なぜそうなる?」

「小さい頃から家に訪れる美丈夫、兄のような存在は、いつしか恋慕に変わる。古今東西を通じて良くある話だ。」

「俺は初耳だぞ。」

「海の向こうの島国では、色男が幼い少女を自分好みに育てて娶ったなんて話もある。」

「なんだ、それ。実話か。」

「んー…。お伽話だったか神物語だったか。」

「いい加減だな。それに彼女は俺が育てた娘ではないぞ。」

「まあ、なんにせよ、だ。お前がお嬢様に妻になってくれと言えば万事解決。」

得意気に陸謙は話を切る。だが、林冲は全く思い当たる節がなかった。

「さっぱり分からん。」

「では訊くが、お前はお嬢様が嫌いなのか?」

「そうではない。ただ、妻や恋人というよりは妹のようだと思っている。」

「結婚するって事は家族になるという事だろう。お前のような野暮天には妹のようだと思っている位で丁度良い。妹はまさしく家族だからな。」

その言い分は粗いとしか思えない。

大体、杏麗が林冲に惚れているというのも陸謙の憶測でしかなく、そもそも陸謙と杏麗は面識がないのだ。

それにすっかり失念していたが、陸謙とて色恋事に関しては決して経験豊富という訳ではなかった。

「相談する相手を間違えたか。」

「失敬な。じきに俺が正しかったと分かるさ。」

それからは自然と、いつものように陸謙の政治批判が始まった。



庭に植わった白木蓮、それは杏麗の母が杏麗を身籠もった際に植えたものらしい。

それだけの事と言われればそうなのだが、幼い頃から白木蓮を特別に想う理由には充分であった。

花が好きだった母の為、父は色取り取りの花を庭に植えたが、杏麗は白木蓮を一番に好んだ。

母はもう亡くしてしまったが、四季折々の花々は今もその季節になれば庭を賑わせる。

それが杏麗には両親の間に育まれた愛情そのもののように思えた。

そんな両親を持てば、杏麗が結婚に夢を見るのは無理からぬ事ではある。

なのに父と来たら、結婚は早い方が良い、良い男はすぐに結婚してしまう、などと急かして来る。

早く結婚する事が幸せなのではないと主張しても聞き入れてくれない。正直、父との会話が億劫になってしまった。

春になり、白木蓮の香しい今日、杏麗は庭の手入れをしながら大きな息を吐いた。

「お嬢様。」

杏麗よりいくらか年上の女中が声を掛けて来る。

「もう日暮れになります。冷え込みますから部屋にお入り下さい。」

その言葉に空を見上げれば、薄い紫色の中にいくつかの星と昇り始めた月。吹く風は冷たく着物の袖を掠う。

「あら、本当だわ。つい夢中になっちゃう。」

「夢中になるのは結構ですが、体は冷やさないで下さいね。熱いお茶を淹れて来ます。」

「ありがとう。」

自室に入ると見慣れぬ封書が二、三通。女中もお茶を持って杏麗の部屋にやって来た。

「これはもしかして…。」

「旦那様がお嬢様にと。」

女中は困ったように笑ってお茶を杏麗に渡す。

お茶を啜ると体がじんわりと温まった。なのに、その封書はどうにも杏麗の心を凍てつかせてしまう。

「もう…。縁組はしないと言っているのに…。」

杏麗はそれを憎々しげに女中に手渡した。

「見なくてよろしいのですか?」

「良いのです。興味ありません。さあ、夕食の準備をしましょう。」

そう言って杏麗は残りの茶を飲み、炊事場に向かう。

庭の手入れも食事の用意も、本来は女中や下男がやっている屋敷が多い。張家では杏麗の母が率先してこれらもやっていた為、杏麗も自然とやるようになった。なので奉公人達とも話をよくするので父と話せないような事は女中と話したりもする。母であり、姉のような存在なのだ。

結婚に興味がないのではない。誰でも良い訳ないではないか、と杏麗は父に訴えているのだが、父は色恋事に疎い野暮天、先立たれたものの、母と幸せな結婚生活を送ったおかげで結婚とはそれだけで良いものだと思い込んでいる。

「なんとか分かってもらえないでしょうか…。」

「旦那様は少々鈍いお方ですから。ハッキリ申し上げないといけないのではないですか?林教頭以外の殿方とは結婚したくないと。」

「…林冲様は私の事など何とも思ってません。」

「そうでしょうか。」

「せいぜい、妹でしょうか。単に同僚の娘、こんなものですよ。却って迷惑を掛ける事になってしまいます。」

「そうでしょうか。」

女中はクスリと笑う。

「何か可笑しいかしら。」

「ええ。きっと、お互い同じように思ってらっしゃる。いじらしいな、と。」

「…仰ってる意味が分かりません…。」

杏麗はぷくりと頬を膨らませる。縁談の封書などもう見たくもない。夕食でまた結婚の話をされるだろう。それが憂鬱で堪らない。なのに笑われて杏麗は形の良い眉もひそめる。

女中は膨らんだ杏麗の頬を指でつつくと、

「大丈夫ですよ。お嬢様が納得しない結婚は私達も反対です。」

と言った。

杏麗は一人娘であるが故、両親の愛情を一身に受けて育った。それだけでなく、愛らしい容姿に加えて生来の優しい性格から、屋敷で働く者達からも可愛がられた。

杏麗の幸せは張教頭だけでなく、奉公人皆の願いなのである。

女中の言葉に杏麗はほんの少しだけ微笑んだ。

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