白木蓮
山桐未乃梨
第1話
招かれた上官の屋敷、その一室で
声の聞こえた裏庭に出れば、大きな木の枝に両手を絡ませてぶら下がっている少女の姿。下には折れた梯子。
「
こちらも悲鳴混じりに叫んでいるのは屋敷の主の奥方。先程丁寧に挨拶を交わした時とは打って変わって顔面蒼白。少女は実の娘らしく、だとすれば無理もない。
杏麗と呼ばれた少女は大きな眼から涙を溢れさせて泣きじゃくっている。
下男達が大慌てで代わりの梯子を取りに行くが、それまで少女の体力が持つか。
林冲の身の丈はおよそ九尺、木の下に立って腕を伸ばせば杏麗を受け止める事が出来そうだ。
林冲は裏庭に入り、杏麗の下まで歩く。子供に好かれるような顔付きではない自覚はあるが、精一杯の優しい声で杏麗に話しかけた。
「腕を離して大丈夫ですよ。ちゃんと受け止めますから。」
視線を下に向けた杏麗だったが、眼を閉じて首を横に振る。
「こわ…い…。」
掠れた声で言うものの、杏麗の細い腕には震えが走っていた。
「眼を閉じていれば大丈夫。少し勇気を出してみましょう。」
「……。」
「大丈夫です。さあ。」
「う、うん。」
そう言って、杏麗はギュッと眼を閉じて腕を離す。ぽすんと、華奢な体は林冲の両腕に収まり、漸く家人達は息を吐いた。
「杏麗!怪我は?!」
母親まで涙を流して杏麗の顔を覗く。
着物には切れた箇所があったが、どうやら本人に怪我はなさそうだ。
「杏麗…怪我がなかったから良かったものの、どうして木に登ったりしたの?」
「お花…白木蓮が綺麗に咲いていたの。どうしても髪に挿したくて…。」
「それなら大人の誰かにお願いしなさい。」
「みんな忙しそうだったから…。」
「でもね…、あなたが怪我をしたらみんな悲しむわ。それどころか、怪我じゃ済まない事だってある。分かるわよね?」
「……ごめんなさい…。」
母親に抱き締められると、杏麗は堰が切ったようにわんわん泣き出した。
白木蓮は確かに美しく咲き誇り、甘い上品な香りを漂わせている。
花弁の多い種ではないが、その白さと相まって品がある。庭には他にも色取り取りの花々が咲いてその空間を賑わせているのに、何故わざわざこの花を選んだのかは林冲には知る由もない。
だが、そうまでしたかったのなら、と林冲は近くの女中に言った。
「花を一輪、手折ってもよろしいですか?」
「ええ、それは勿論。」
林冲は形の良い花を選んで指先に取る。
そしてまだ母に縋って泣いている杏麗に差し出した。
杏麗はキョトンとした顔を見せたが、それは一瞬の事ですぐに目元が綻ぶ。
「…ありがとう…ございます。」
小さな声でそう礼を言った。
母親にも、
「お客様にご迷惑とご心配をお掛けして申し訳ございませんでした。」
としきりに頭を下げられて却って林冲は恐縮してしまう。
「お嬢様が無事であれば。梯子の方が安全だったかもしれませんし、出過ぎた真似でした。」
「いいえ、そんな事…。」
そこへ下男が代わりの梯子を持って帰って来たのだが、高さがまるで合わず決まりが悪そうに頭を掻いた。
これで屋敷の一騒動が終わるかという頃、杏麗が林冲の袖を引く。
「髪に挿して下さいませんか?」
「………え…?」
先ほど手渡した花が再び林冲の手の中に。
だがこの林冲、開封府の中でも上位を争う朴念仁であり野暮天である。色恋よりも槍棒を振るう事が大事で、要するに女性の髪の花なんてどこにどう挿せばいいのかなんて知らないのだ。
細く柔らかい髪で丁寧に結われた髷をジッと見るが、皆目分からない。
硬直する林冲の様子が可笑しかったようで、杏麗が笑った。
「どこでもいいのですよ。」
まだ少し涙の残る瞳に林冲の姿が映る。
「ではここに…。」
小さな耳の上に、そっと白木蓮を添えた。香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございました。」
林冲に丁寧な礼をして杏麗は再び母の元へと駆けた。
「私の帰宅前にそんな事があったとは…林冲よ、すまなかった。」
「いえ。少々驚きましたが、怪我がなくてよかったです。」
この家の主で、林冲の上官である張教頭は酒を振る舞いつつ頭を下げた。
杏麗は林冲の隣にちょこんと座って時折酌をしてくれる。
「娘はこの通り器量は良いのだが、少々お転婆で…困ったものだ。」
困ったとは言いながら、それ程そうは思っていないだろう事は張教頭の恵比寿顔で明らかだ。
実直で堅実、情と義理に厚い張教頭は林冲も尊敬する所ではあるが、かなり子煩悩でもあるらしい。ニコニコと娘を見つめる顔は、職場では見られない。
そんな張教頭に向かい、今度は林冲が丁寧に頭を下げる。
「ところで張先生、父の為の供え物を多数頂きまして、ありがとうございました。」
「いやいや。御尊父である林提轄には昔世話になったものだ。なのに、闘病中はなにも受け取ってはもらえなかったからな。」
林冲の父は昨年亡くなった。
長い闘病を経ての事ではあったが、その間面会や見舞いの品は頑として断っていたのだ。軍人であった父は瘦せ細って弱っていく姿を見られたくなかったのだろう。
張教頭は昔、父の指揮下に所属していた頃があったようで、父の訃報にもすぐに駆けつけてくれた。のみならず、生前父が好んだ酒や食べ物、菓子や花をたくさん贈ってくれたのだ。
そこまで父を慕ってくれていた事に林冲は感謝し、そして父を誇らしく思った。父も喜んだに違いない。
「それにしても林冲よ、御母堂はすでに鬼籍であったな。うちを我が家と同然に思い、これからはこうして飲みに来なさい。」
「ありがとうございます。」
林冲の母は林冲を産んだ際、産後の肥立ち悪く命を落としている。これで家族をすべて亡くしてしまったと鬱ぎ込んだ事もあったが、張教頭の言葉に林冲は救われる思いだった。
ふと横を見れば、杏麗が酒の入った瓢箪を抱えて林冲の手元を見ている。
林冲が杯を空にすると杏麗は嬉しそうに酌をしてくれた。
なんだか林冲も嬉しくなって、ついつい飲み過ぎてしまう。だがこれも、張教頭にとっては良き哉、なのであった。
時に林冲二十一、杏麗九の年の春のことである。
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