第37話 日常の再建、からの長い二日間⑪

 耀人あきとは『避妊すれば』という言葉に揺らいでいた。

 相手は人妻だ、このタイミングを逃せば次は無いかもしれない。

 しかもひかりは既に下着とシーツだけの状態だ、ひかりの言葉が嘘でない限り自分に非は無いハズだ、悪魔がそっと囁いた様に思えた。

 耀人あきとはそれを言い訳として自身に言い聞かせながらひかりの肩を掴む。


「ごめん、俺、やっぱりひかりは抱けない。それは好きだから、大好きだから今は抱けないんだ!勇気がないって罵ってくれてもいい、でも、それだけ大事なんだ、今、抱かれるのは旦那だけにしてくれよ……、お願いだからさ」

「──わかった」


 ひかりはまたしても、といった感じに落胆していた。自分に魅力がないのだと思ってしまったのだ。「結局はあかりの方が好きなんでしょ」という言葉を飲み込む。ひかりはそれでもいいなんて微かに思いながら口に出す事は無かった。

 それからは無言が続いたが、しばらくして実伶みさと心乃葉このはが到着した。

 心乃葉このははシーツの汚れ具合をチェックして即座に全てを察した。


ひかりちゃん、やらなかったんだ」

「駄目な事なの?」

「ううん、いいのよ。じゃあ帰ろっか」

「あ、あの、耀人あきとさんと実伶みさとちゃんは先に帰ってて」

「外で待ってるよ」


 耀人あきとが出て行くのを確認して心乃葉このはを見つめた。


「どうしたの?早く着替えなさいよ」

「ねぇ、どうしてやらなかったって分かるの?」

「──えっと、それはー……、精液の匂いがしなかったから、かな?」

「そんなの心乃葉このはちゃんは知らないでしょ」

「ほら、イカ臭いって言うじゃない?」

「じゃあ、どうしてシーツを確認したの?」


 心乃葉このはの表情がどんどん焦りを見せて行く。

 実際、心乃葉このはとしては血が出たかを確認しただけだったが、その事で問い詰められるとは思いもよらなかった。


心乃葉このはちゃんは嘘をつくのが下手だから……」


 その一言で観念した心乃葉このはは正直に話した。麻月まつきが催眠術で初体験を済ました気させた事を、だ。

 するとひかりは落ち込んだが、しばらくして黙々と着替え始めた。

 そして、今はその嘘に付き合う事と決めるまで少しの時間を要した。


「パパにはヘタレと言ったんだけど、ごめんね、あんなパパで」

「いいよ。元々大人と子供なんだから、相手にされなかったってだけだよ。気にしてないから……」


 そう言ったひかりの瞳は涙で潤んでいた。


 ***


 しばらくして部屋から出て来た時、ひかりは泣き疲れて寝てしまっていた。

 耀人あきとが率先しておぶって帰ると言うので任せる事にした。

 そしてその帰り道、実伶みさとがモジモジしながら話したそうにしているのを耀人あきとが気にかけて話しかけた。


実伶みさと、もうああいうのはやめろよな」

「うん、助けてくれてサンキューね」

「実際助けたのはひかりだよ、あと心乃葉このはも」

心乃葉このはちゃん……ありがと……」


 そう言われて心乃葉このははさっと目線を逸らした。

 褒められ慣れていない彼女は少し落ち着かない様子で辛うじて聞こえる声で「大した事してないし…」と呟いた。


「それで、別れるんでしょ?」


 実伶みさとは屈託も無い微笑みで耀人あきとに言った。

 その言葉に一番驚いたのは心乃葉このはだ。てっきりこのまま実伶みさと耀人あきとと正式に付き合うものだと想像していたからだ。別れる理由なんて微塵も見つからなかった。援助交際を止めるというのだから付き合い続ける事に何の問題も障害も無い筈だ。


「うん、そうだね」

「丸一日もなかったけど、付き合えてよかった、ありがと、耀人あきと

「こちらこそ」


 お別れだというのにキスをして実伶みさとは去って行った。

 口が耀人あきとから離れる瞬間の実伶みさとの表情は最早、恋する乙女としか言いようのない程に艶やかだった。

 そして、実伶みさとが背を向けて、立ち去り際に零れ落ちる涙を心乃葉このはは理解できなかった。

 心乃葉このはですら実伶みさとがどれだけ耀人あきとを好きなのか、それが手に取るように感じ取れたというのに別れる理由が全く見つからないのだ。

 心乃葉このはは改めて『人間関係なんて曖昧な方がいい』と思ってしまった。


 ***


 その日の夜、沢山の赤いランプが北区の繁華街の周囲を照らしていた。

 そこには大きな赤い水たまりが出来ていた。

 そして、その真ん中には三人の上半身が並べられていたという。

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