第11話
5
『男のことは男で忘れる』
誰かが言っていたこの言葉は案外理にかなっていて、大学で同じ授業をとっていた小林辰という男と仲良くなっていくうちに、紀子は正人のことをほとんど忘れかけていた。
思い出す羽目になったのは加賀が紀子のバイト先に現れたからだった。
真夏日が連続して常連客の足も遠のいている頃、見慣れない黒づくめの格好をした男が入ってきた。朝からの勤務で疲れていた紀子は気の抜けた挨拶で迎え入れる。弁当屋だというのにその男は水だけ取ってレジに並ぶ。
「久しぶりだねー元気してた?」
聞き覚えのある声だと思って顔を上げると加賀だった。
「あ、加賀さん!久しぶりです。」
奥にいる有田さんというパートさんの目を気にしながら紀子は挨拶する。幸いなことに有田さんは今倉庫にいるようだ。加賀のことは得意ではないが、久しぶりに会ったので少しだけ話をしたかった。
「どう?正人とは上手くいってる?」
忘れていた。正人にキレられた数日後に、正人のことをふっきりたくて、実は好きだったことやその他色々を明里に打ち明けたのだった。言わないでと言ってなかったから明里が加賀に言ってしまったのだろう。
(まあいいんだけど。)
「馬鹿にしてます?」
紀子はとムッとした顔をして言う。加賀は笑って「ごめん、ごめん。」と軽く謝る。
「そう、紀子ちゃん今正人のことで何か知らない?」
正人に何かあったのだろうか。特に何も思いつかない。
「いや何も知りません。」
紀子が苦笑いしながら答える。
「そっかー。じゃあまず紀子ちゃんに一個朗報、正人とミサ別れたらしいよ。」
紀子はあくまでも冷静を装う。
「え、ミサってこの間一緒にいた金髪の方ですか?」
「そーそー。」
「どうしてですか?」
「うーんそれがわかんないだよね。正人の方から急に『別れたい』って言ってきたらしい。
「へー、そーなんですね。」
グイグイいくとまだ正人のことを好きみたいに勘違いされそうで、この後の一言が続けられなかった。変な間が空いてからまた加賀が話し出す。
「んで残念な報告が一つ。ミサと別れてから正人が行方不明になった。」
「え。」
正人と“行方不明”という言葉が一緒に使われることへの違和感のせいで半笑いになってしまった。
「本当ですか?」
「本当。」
加賀が真剣な表情で答える。紀子も真剣な表情に改める。
「ミサさんと別れたのっていつ頃ですか?」
「一か月前くらいかなー。」
「その後ずっと連絡とれないんですか?」
「そー。」
「仕事にも来てないんですよね?」
「仕事は社長に聞いたら7月末で辞めるって元々伝えたらしい。」
「そうなんですね。いなくなった原因って何もわからないですか?」
紀子がそう聞くと、加賀は言うのを躊躇っているような表情を浮かべる。
「何か知ってるんですか?」
紀子が前のめりで問い詰める。加賀は少し笑いながら
「俺もよくわからないけど、『賭博して借金した』って正人から聞いた奴がいるんだよね。だからもしかしたらそれ関係かも。」
『賭博』『借金』…。その言葉で血の気が引いていくのが分かった。
(そんなことに関わるなんてさすがに馬鹿でしょ。)
紀子は呆れた。
「借金ってどれくらいですか?」
「百五十万とか聞いたけど。」
(どうにかならない金額ではないけど、正人が返せるとも思えない。)
「仕事辞めて大丈夫なんですかね…。」
「な。だから、俺ら今心配して時間ある日に正人のこと探してるんだけど、紀子ちゃんは何か知ってるわけじゃなさそうだね。」
「すみません。お役に立てなくて。」
「いや全然大丈夫!何か正人から連絡来たら知らせてね。」
(連絡来ることなんてないと思うけど…。)
そう思いつつ「分かりました。」と言って加賀と別れる。
紀子はすっからかんの店内の中で一人考え事をする。彼女と別れたのも行方が分からなくなったのもおそらく借金のせいだろう。取り立て屋とかから逃げてるのだろうか。だとしたら正人は無事なのだろうか。心配にはなるが“賭博”という言葉を思い出し、やはり関わるべき話ではないと考え直す。
バイトが十一時に終わると紀子は家とは逆の方向に向かった。正人がいそうな所で一つだけ思いつくところがあった。
(行って何も分かんなかったら、もう関わるのはやめよ。)
紀子はそう決めた。
着いたのは金髪の男が住んでいた古びたアパートだった。確かに金髪の男の部屋だった左端の部屋の前まで行くが、黄色のスクーターは置いてないし、表札の名前は外されていた。紀子は念のためチャイムを鳴らすがやはり応答もない。
ちょうど隣の部屋から住人が出てきて目が合った。20代後半くらいの主婦という感じだった。
「すみません。ここに前住んでいた若い金髪の男性ってもう引っ越しちゃったんですか。」
「ああ、そうらしいですよ。ちょうど1ヶ月くらい前だったかなあ。」
(1ヶ月くらい前。)
「そうなんですね。ちなみに背の低いヤンキーみたいな恰好の男の子ってよく来てましたか?」
「うーん最近は彼の家によく5,6人くらい来てたから誰のことかわからないなー。」
そう言って主婦の方は「すみません。」とお辞儀をし、そそくさと行ってしまった。
(1ヶ月くらい前というと正人が彼女と別れた時期と同じくらいだ。)
そこは繋がったがそれ以外の手がかりが得られなかったため、紀子は自宅に帰った。
自分がもし借金をしたら誰を頼るだろうか。間違いなく紀子の答えは両親だった。しかし、紀子は正人の両親についての情報は何も知らなかった。小学校から一緒だが、正人のお母さんなんて見たことがない。そもそも正人の実家がどの辺りなのか全然知らなかった。紀子は不甲斐なさを痛感する。
(これから本当に正人に一生会わないのだろうか。)
紀子の胸の中で何かがモヤモヤしていた。最後の会話があんなだったからだろうか。きっと違う。肝心なことを伝えていなかったからだ。
(正人が好きだ。)
紀子はそう気づいていた。そしてそれを伝えるべきだと思っていた。中学生のときは伝えようとは思っていなかった。自分に自信がなかったから。でも今は伝えたいという気持ちがあった。
紀子は便箋と封筒を出し、一行目に『正人へ』と書く。
『ずっと好きです。 正人には頑張って幸せになってほしい。 一条紀子』
真ん中にそれだけ書いて折り畳む。封筒にも『正人へ』と書き、封をする。
紀子はもう一度金髪の男のアパートに行き、彼のポストにそれを入れる。正人のもとに届く可能性はほとんどないだろうが、『なるようになる』という言葉を信じたかった。
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