◇閑話◇ 校正の名人「神代種亮」

 大正時代、皆さんもよくご存じの芥川龍之介という作家が活躍していたわけですが、彼は自分の作品集を出すときは必ず「神代種亮こうじろたねすけ」という人物に校正を頼んでいたそうです。

神代種亮こうじろたねすけ」は、明治文学研究家であり「校正の名人」という異名を持っていました。

 当時は今とは違って、小説は原稿用紙に手書きで書いていました。それを印刷所で活字にしていたのですが、誤植がしばしばあったというのです。

 しかしそれは想像に難くないでしょう。手書きで書いたメモをPCに打ち込むとき、短文ならまだしも小説一本分を打たなくてはならないとなれば、変換ミスや誤植、誤字脱字等々……間違うことは往々にしてあります。また書き手が間違って書いていて、それをそのまま打ち込んで間違ったままになるということもあったと思います。


 当時の誤植について明治生まれの小説家、藤沢桓夫ふじさわたけおがこのようなことを書いています。


 ――小説家や詩人には神経質な者が多い。ことに自分が書いた詩文は一字一句が気になるのである。したがって、活字になった作品に眼を通した場合、「てにをは」の仮名一つでも自分が書いた通りになっていないと、読者の方はおそらく気づかずに読み過ごすに違いないのだが、作者は相当にがっかりする。ところが、皮肉なもので、誤植というやつは、いくら注意を払って校正をしても、ある時はやはりあるもので、ことに素人が自分で校正をした場合にこれが多いのである。

(高橋輝次編者『増補版 誤植読本』より)


 言葉のこだわりというのは、文章を書くのが上手くなるにつれて強くなっていくような気がします。文章を書くのが苦手な人や、それを書き始めて日の浅い人は「書く」というなかに様々なルールがあることを知らないことの方が多いでしょう。仮に漢字の使い分けや間違いやすい言葉を知っていたら、寧ろ書くことを躊躇ためらってしまいそうです。

 書けば書くほど自分の書き方を模索しますし、だからこそより読者に分かり易く、また伝えたいことをきっちりと伝えたいという思いから、校正も手を抜きたくないのでしょう。


 芥川龍之介は人一倍自分の文章を大切にしていたそうです。そのため、絶対に抜けのない校正(校閲)を行ってくれる神代種亮こうじろたねすけに、自分の文章を託したのだと想像します。


 本来校正は成功率100%でなければなりません。新聞関係の校閲者(もしくは「校正者」)の方はそう言います。しかし、校正をするのは人間です。人間と言う生物はミスをしますし、それは心理学で証明されています。

 相当な集中力と精度、そして経験を持っていれば100%もあり得るかもしれませんが、校正はそう甘くありません。


 校正者が気を付けるのは、言葉の間違いだけの点検ではないのです。

 例えば新聞の記事なら「カ」と「力」が間違っていないかとか、西暦が片方が漢字で片方が数字になっていないかとか、「第一に」ときたら「第二に」と続いているかとか、とある国の大統領の年齢が間違っていないかとか……。時には、とある人物の年齢、生年月日、経歴、商品の名前、取り上げた歴史の正しさなど、沢山のことを確認しなければならないのです。


 ちなみに小説であれば人の動きの確認、実際にある土地を利用するならその名前や、移動したときにかかる時間なども確認しています。歴史小説なら史実を確認することもあります。


 これほど沢山のことを確認していたら、見落としが起こることも致し方ないとも思います。校正者は真摯に文章に向き合い、作者の方に敬意を払って慎重に赤を入れているのですから、それで通り抜けてしまったら、それはもう仕方ないと――。


 しかし、最近のライトノベル(といっても、その線引きが難しくなっているような気もいたしますが……)の校正が何だか甘い気もするのです。沢山の種類を出版していて手が回っていないのでしょうか。それとも、ライトノベルだからと軽視しているのでしょうか。


 私が見つけてしまった例は、「」の中に句点がないまま進んでいたはずなのに、「。」となっている箇所があったり、句点が連続して二つ連なっていることがあったり。「てにをは」が若干おかしいものもありました。一番ひどかったのは、その場面に登場していないはずの人物の名を、まるでそこにいるかのように主人公が呼んでしまっていたこと。

 間違った理由は想像できます。その場面にいなかった人物(「A」とします)と、その場にいた人物(「B」とします)が兄弟だったため、作者が書き誤ったのではないか、と。AとBの名前は似ています。読者にも兄弟であると分かり易いように決めた名前が仇になったのかもしれません。


 もちろん、書いた文章の責任は作者にあります。

 前作『NIHONGO』のどこかで書いたかと思いますが、校正者が文章のなかにある何らかの間違いに気づかず訴訟になったことがあったことから、出版社によってはどんなことがあろうとも全責任は作者にあると、作品を出版するための契約するときに書いてあることがあるのです。

 しかし、そうだとは言っても「。」の件や句点が連続で打たれているものは、「本当に気づかないものなのだろうか」と疑問に思います。読者の多くは素通りしていくかもしれませんが、流石に校正をしている人なら気づくのではないかと思ってしまうのです。


 私の印象としては、一般小説や文芸に分類される本ではそういうことは滅多にありません。

 今まで読んできたものが偶々誤りのないものだったのかもしれませんが、それでもライトノベルよりは格段に誤りを見つける確率は低いです。

 そう思うと、ライトノベルの立場というのは低く見られているのかなと想像してしまいます。それらの本にも学ぶべきものがあって、楽しんでいる人がいるというのに、人員不足などで再校や三校ができないのでしょうか。


 間違いが一つもない状態で世に出るということが大変なことなのは分かっています。しかし読み手に容易く見つかってしまうようなミスを見つけてしまうと、何だか読んでいる方も馬鹿にされている気がして(「どうせ間違いになんて気づかないだろう」とか思われているとか)ちょっと腹が立ちます。


神代種亮こうじろたねすけ」のような人が、どんな作品もきっちり校正してくれたらいいんですけどね……。校正をする人は多分いい人ばかりだと思うんですけど、どういう事情があるんだろうと出版社事情が気になります。



*一般文芸……ライトノベルの対義語として用いられている言葉のようです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る