◇閑話◇ 「百聞は一見に如かず」

「百聞は一見に如かず」という言葉は、比較的多くの方が耳にしたことのある故事成語かと思います。


 意味は「ものごとの実際は、耳で聞くよりも目で見る方がはるかによくわかる」(『故事成語を知る辞典』より)、もしくは「人の話を何度も聞くよりも、実際に自分の目で見る方がよくわかる」(『新明解国語辞典』より)です。


 中国から渡って来た言葉で、その由来は「漢書——趙充国ちょうじゅうこく伝」にあります。


 趙充国とは騎射に優れた知将のこと。彼は周辺の民族をたびたび破り、辺境を開発したと言われています。


 紀元前一世紀、前漢王朝時代の中国では異民族の攻撃にあっていたのですが、その対応策を趙充国は問われたそうです。すると彼は「何度報告を聞いても、実際にその場に行って見るには及びません」と応えます。そして自ら戦地に赴き指揮を執りたいと願い出た、というエピソードが残っています。


「何事も自分で確認した方がいい」というのは大切なことでしょう。しかし全ての事柄についてそうできるとは限りません。


 情報社会を生きる私たちにとって、「メディア」がもたらしてくれる情報は膨大であり、それは「メディア」であるからこそ得られるものであると思います。紀元前一世紀のときは、情報というと「言葉」がメインだったと思われますが、二十一世紀の現在では映像や写真があります。


 現在のウクライナ情勢がどのような状況にあるのかも、映像や写真による情報が大きいことは確かでしょう。まるで「百聞は一見に如かず」の「一見」に当てはまるかのようなそれらに、私たちは物事を知ったような気分になりますが、ときにはそこに落とし穴が潜んでいることもあります。


 少し話題が逸れますが、皆さんは小原玲さんという写真家をご存じでしょうか。


 元々報道カメラマンで、当時の政治家たちや野球選手のオフショットを撮ったり、時には有名人のスキャンダルを追いかけていたこともあったようです。

 しかし後にフィリピンでクーデターが起こります。それをメディアを通して知った彼は「戦地取材を積極的に行った報道写真家」への憧れがあったことを思い出し、今度は世界をまたにかけるフリーの報道カメラマンになります。


 小原さんが報道カメラマンとして撮影した写真のなかで、もっとも国際的に評価されたのは「天安門事件で撮影した1枚の写真」でした。しかしそれは、小原さんが意図したものとは違った解釈をされて、世に広がってしまったのです。


 本当は「一部興奮した学生らが戦車に向かうのを学生リーダーたちが止めている姿を写したもの」であったのに、記事では「学生たちが自ら縦となって人民解放軍の戦車を止めにかかったように報じられ」たのです。


 それは彼にとってとてもショックな出来事でした。本来伝えたかったものとは違う、誤った解釈のまま世に広まってしまったのですから複雑な心境だったと想像します。


 そののち、小原さんは色々な経緯を経て動物写真家になります。

 きっかけはアザラシの赤ちゃんのポストカード。それを見たとき、「同じ写真でも人の不幸を探してナンボの世界とは大違い、たった1枚で人を幸せにすることができるんだ」と思ったのだそうです。しかもそこには誤った解釈が入ることはありません。見た人が単純に「可愛い」と思えるものです。

 小原さんが撮った動物の写真は可愛らしいものが多いので、興味がある方は是非手に取って読んでみて下さい。彼が報道カメラマンから動物写真家に転身した理由も、写真集によりますが詳しく書いてあります。


 小原さんのお話を聞いていて思ったことは、「百聞は一見に如かず」かもしれないけれど、それを正確に捉えることは容易なことではないということです。

 もちろん、写真や映像はすでに誰かの手によって撮影された時点で、「誰かの視点」を共有しているわけなので、自分が純粋に見聞きしたものとは違うのは分かります。しかし、報道カメラマンたちが行っていることは、出来うる限り正確に今の現状を見ている人たちに伝えることのはずです。そう考えたとき、「一見」に近いものがあるのではないかと私は想像します。


 一つの写真にできることは、その場面を写すこと。

 絵画であれば幾らでも、その絵について自由に解釈して構いませんし、可愛い動物の写真を愛でるのも自由です。それは見た人の内から湧き出る感情によって左右されて良いものですから。


 しかし、今の世界の状況を写し出している写真には、真実の言葉を付けなければいけません。ですが、真実の言葉とは何なのでしょう。誰にとっての真実なのでしょう。

 時々、メディアで流される情報に小首を傾げるときがあります。

 人々の不安をあおりやすいように、わざと場面を切っているように思えるのです。もし、前後の話を聞いていたら、もしかしたら「本来はこういうことを言いたかったのでは?」と思えたかもしれないのに、その機会すら奪われているような感覚。もちろん、最初から誤解されるようなことを言わなければいいのかもしれませんが、物事を伝えるときは言葉を重ねる必要があり、聞く者もそれに耳を貸す必要があるのではないかと、近頃思います。


 その一方で、それはとても贅沢なことだとも知っています。

 一分たりとも無駄にしたくないと思っている人(「時間の価値」を知っている現代人)に、沢山の人の意見や言葉を聞いて欲しいというのは無理なことです。


「百聞」は、確かに煩わしさがあるかもしれません。

 そんなに沢山聞くことにどんな意味があるのかと。そんなに沢山の文章を読むことにどんな意味があるのかと。

 しかし同じでも繰り返し知ることや、同じことでも違う人の視点を積み重ねていくことはときに意味があるのではないかと思います。

 同じく重なっているものの中に、本当に必要な情報があるのではないか。別の所では語られなかったことがここに書いてあるのには、意味があるのではないか。


 そんなことを「百聞は一見に如かず」という言葉を見て、思ったという話でした。


<参考資料>

 小原玲『Kiss!』(株式会社小学館 2019年7月30日)

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