178話:悲しみの声

 みんなが去っていった病室。先程まで人口密集地帯であったからか、二人には余計に広く感じられていた。広く、何もない空間。それに言いようのない寂しさを感じることがある。人が去っていった後の侘しさは、まるで祭りの後のような無常感を感じさせられるもの。

 鈴夢は握りしめていた拳を、自分の膝へと叩きつけた。


「っ、鈴夢さん!?」

「くっ!」


 鈴夢は愛花の制止の言葉も聞かず、耐え切れないように拳を自分の膝へと叩きつけた。叩かれる度に、音が部屋に鳴り響く。だけど、今はその音にさえ力がなかった。叩きつける腕に力がこもっていないからである。戦闘で全身を、見舞い客の対応に神経を。そしてとどめは今の話だ。


心も身体もあますことなく限界を越えて酷使されたのが原因だった。


条件さえ揃えば大人さえも打ち倒せるであろう腕が、今は力なくふるふると震えるだけ。


それでも、錫夢は何度も自分の膝を叩き続けた。悪態の一つもつかないまま、ただ自分の無力を確認するかのように。隣にいる愛花も、それを見ていることだけしかできない。部屋には、ただ無念の音だけが響き続けていた。


(助けられなかった、のに)


目の前で失った。共に辛い訓練を乗り越えた仲間を失うことは、ある意味で家族を失うことと同じである。責め苦ばかりに思える理不尽に過酷な環境を乗り越え、湿ろうとする自分のやる気に活を入れつつ挑みつつけて。それでも、濃密な時間だった。


 どの光景だって、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるのだ。


「…………愛花さん、覚えてますか? 食堂での大乱闘」


 あれは、一昼夜ぶっ通してシミュレーターの訓練を続け、終わってから食堂に集まった時のことだ。


「覚えてる。あれは、二回目の貫徹訓練の後だったっけ」


 ふらふらな足取りで水を取りにいこうとしてよろけた。そして隣を歩いていた人に寄りかかった時だ。触れられたラムナーヤは、咄嗟に拳をお見舞いした。もんどりうって倒れる相手。全員の眼が点になった。殴った本人でさえも。


 あれは、間が悪かったのだろう。その前の訓練の後に、反応の速度が鈍いとしこたまにレポートに書かれたのだ。そして貫徹の訓練で、それを修正しようと意識の大分を割いていた。それが、シミュレーターが終わってからも残ってしまったのだろう。


間が悪かったし、運が悪かった――――などという理由があっても、殴られた本人を説得できるわけがない。すぐさま起きて反撃に出ようとする。だけど、立ち上がった瞬間に笑い声に包まれた。拳が見事に決まったせいか、彼女の眼にはまるでパンダのような黒いアザができていた。


 全員が徹夜開けのハイテンションだったせいか、笑いも止まらなかった。それに気を悪くしては、まず隣にいた巨体に笑いを止めるためにボディーブローをぶちかました。


 普段であれば見るからにおっかない相手を相手に、殴りかからないであろう。それを躊躇なく行ったあたり、いい加減限界が来ていたに違いない。不意打ちにダウンする。身体がでかいせいで、周囲を巻き込み転倒する。水を飲んでいた所に体当たりをかまされた二人は、コップで口の周辺を強打する。そうして出来上がったのは、口の周りに妙なアザをつくった人間だ。それを見た全員がまた爆笑した。


  巻き込むなノッポ、避けろよチビその短足は飾りか、水で髪濡れてなんだか色っぺえなお前、あなたよりかは色気があるかもしれませんねガサツ大将。悪口が悪口を呼んで、ついには殴り合いの大乱闘に発展した。周囲にはいつの間に集まったのか、野次馬が群がっていた。


「あれは………傑作だった。あの時の教官は怖かったけど」

「………うん。でも………なんか、楽しかったよ」

「ああ――――思い出しても、笑える」


―――だけど、もう。いつかと同じだ。今はもう二度と、あの光景を繰り返すことはできない。


 二人の間で、全く同時の言葉が浮かんだ。同時に、その事実が二人の胸を締め付けた。思い出せば笑えるほどに、楽しかった光景。だけど本当に大事だったものは、もう欠けてしまったのだ。


あの光景を構成していたもの、その中の二つの欠片はもう、永遠に戻ることはない。

 細部までも思い出させる。それだけの戦友だった。深い喪失感が、胸の中を暴れまわっていた。抑えきれず溢れでた感情は、眼に現れる。武がかぶっていた白いシーツに、ぽた、ぽた、と水滴が落ちる。

 出会ったのはこの横浜衛士訓練校に移ってからだが、思い出した光景に負けないぐらい、色々な事があった。守るべきであったのだ。失いたくない人だった。

 だけど、声を上げることはできない。大声で泣くことはもう、許されない。


「………っ」


それを見ていた愛花も、胸を押さえていた。眼を閉じたまま、胸の奥に奔る得体の知れないもやを取り除きたいと、自分の胸を鷲掴みにしている。我慢していた。我慢していた。だけどそんな顔を見せられれば、我慢もできなくなる。鈴夢の感情に同調したということもない。ただ、それ以前に悲しかった。


 納得できていない。失いたくない仲間が、理不尽に失われることは。こんな自分にさえ家族と呼べるものができたかもしれないと思っていたのに。産みの親はいない、親戚など存在しない。


そう思っていたのに。思いたかったのに。話をしている内に、そう思えてきたのに、失ってしまった。なのに失ったあの戦場を誇れという。だけど、強いる理屈は圧倒的な正論であった。


頭では納得できる、それほどの正論に、しかし納得したくない自分がいる。だけど、現実はそれを許してくれなくて。目まぐるしく押し寄せる言葉と現実は、どうしてこんなに多くの矛盾を孕むのか。


自分に告げた真昼の心情と自分の感情とがごちゃ混ぜになる。割り切れない葛藤が、胸を痛いほどに締め付けた。


(もう、駄目だ――――がまん、できない)


愛花は泣いている鈴夢の姿を見て、自分も我慢できなくなってしまったことを悟った。


途方も無く大きい何かが胸の中より湧き出してくる。止める術など考えようもなく、眼には見えない堤防が決壊したことを悟った。それは胸中を駆け巡って脳髄を駆け上がって上に。


 


溢れかえった感情が下瞼より下に。頬を流れ、床へと落ちていく。


 


―――感情というものは、一度でもたがが外れれば、止めることはできない。愛花はどこかで聞いた言葉を思い出していた。それは真実だと感想を付け加える。理論だてた理屈など、吹っ飛んでいく。あるのは、途方も無い悲しみだけだ。


思い浮かんでくるのは、失われた光景。記憶力のいい自分だからこそ、鈴夢よりも多くの思い出を頭の中に残している。特に"ここ"に来てからの生活は濃密なものであった。どれもが大切なもので、それが胸の奥を苛み続ける。


良い思い出だからこそ、悲しい。もう二度と、あの死んだものの声を聞くことができないと知ったから。


 あるいは、きっと助けが来ると考えていたのかもしれない。だけど、自分たちは間に合わなかった。不甲斐なさに、自分を殴りつけたくなるのも初めてだ。能力に対する自己嫌悪の念はあったが、これはあれとは次元が違う。それはどうやら他の隊員も、同じで。守れなかった事実と、それを出来なかった自分が不甲斐ないと思っている。


何より残された遺品が、彼女の最後の凄惨さを物語っている。一体、あの子はどのような思いを抱いて死んだのだろう。絶望のままに、死んだのだろうか。その時の光景が、頭の中に浮かび上がる。遺体が無くなるぐらいまでに、壊されていく。幻の中の映像。だけど愛花は想像してしまった瞬間、叫びたくなった。この抑え切れない感情を消すために、ただ何も考えないままに泣いて、叫びたいと。


そうして、心のどこかで自分の勘違いを知った。思い知らされた、とでもいうのか。自分は今まで、他人の感情を盗み見て、その本質がどういったものかをおぼろげながらも理解した気になっていた。だから感情の仕組みを探ろうと、努力をした。そうすれば正解にありつけると、真っ当な人間になれると思って。だけど、それは全くの間違いであると悟る。


これは、胸の奥で今も暴れ続けている"これ"は、人の意志でどうにかできるものではない。その感情の制御についても、そうだ。意識して学ぶものでも無いし、学べるものでもない。


――――だが、無駄ではなかった。こうして失ってから気付けたのだから。なんという皮肉か、と愛花は自嘲の念を隠し切れない。

今でもはっきりと思い出せる。積極的に接していた少女のことを。自分の小さな手でも、握れば隠せてしまう、白く柔らく、なによりも小さな手を。あの感触を覚えているからこそ、耐えられない。守られるべきだった。あんな異形の化物に引き裂かれるべきではなかったのだ。


だけど、せめて醜態は見せないと自分の眼を覆う。


視界が真っ暗になる。いよいよもって、耐えることはできない、そんな時に暖かい腕に包まれたことを感じた。気づけば、抱きしめられていた。それが誰のものであるのか。


意識をする前に、心は決壊した。


 


「ふ…………っ」


 

この世に生を受けて、初めて。

声を殺しながら、悲しいままに泣いた。

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