異常事態③
事故が起きたのは、祀が監督する実戦訓練でのことだった。
それから時間が過ぎた。
「あら、真昼さん?」
何てことはない、休日の午後だった。
共用の小さな部屋へ足を踏み入れようとしたとき、入れ違いだったのか、開いた扉を挟んで、秦祀が真昼へそんな声をかけてきた。見るにこれからどこかへ出かけるらしく、いつの間にか標準化されていたパワーアシストアタッチメントを装着したまま、彼女は真昼へと不思議そうな視線を向けていた。
「どうしたの?」
「少しシノアちゃんに用が」
「ああ、なるほど。シノアさんなら、部屋で休んでるよ」
「ありがとう」
扉の向こうに広がる休憩室の、さらに奥の方を親指で示しながら秦祀はそう答えてくれた。けれどその声色はどこか弱いもので、彼女の訝しげな視線は真昼へと向けられたまま、しばらく動くことはなかった。
部屋から出てくる彼女へ道を譲りながら、どちらも語らないことしばらく。じとっとした視線を浴びせ続けてくる彼女は、やがてしびれを切らしたように肩を落とし、重い息を吐きながら梨璃へと語り掛けてきた。
「その、真昼さん」
「何かな」
「……いろいろとお願いね」
聴くと、秦祀はやきもきしたような雰囲気で頭を軽く掻いた。
「……それは」
「みんなはもう彼女のことを、脱落者として認識して扱っているじゃない。それこそ横浜衛士訓練校に戦えない衛士は必要ない。いつ用無しになって退学されるかも分かんないし。そうなったら流石にサポートのしようがないでしょ?」
「そうだね」
「……だから、頼れるのは真昼さんだけ。あなたしか、シノアさんの姉はいないんだから」
そんな秦祀は、まるで何かに縋るような、何かが来ることを恐れているような、そんな弱々しい表情を浮かべていた。
「……シノアさんはさ、ああ見えてとっても意地っ張りなんですよ」
「うん」
「いっつも真昼さんや時雨様の背中を追って、そのくせして自分のことは後回しで。真昼さん信者で悪い噂を聞けば噛みついて、愛花さんと合わせて正義の狂犬とか言われるけど、本当は優しい子なのはあなたが一番よく知っているでしょう」
「知ってる。少しだけみんなより長く一緒に居たんだもん」
「だから……こんな今みたいな状況になったのも、本当は私のせいなのに……私が、間に合ってれば……なん、で……! シノアさんは、ずっと笑ったままで……どう、して……!」
「……違う。祀ちゃんのせいじゃない」
「違わない! 私が付いていれば……っ、私がもっと慎重に訓練を進めていれば、を守ってあげられた! なのに、どうして!? どうして、私たちは……また同じことを繰り返すの!? もう、嫌だ……みんな私を置いて、みんなだけが傷つくのは、もう、見たくない……私は、私は……!」
「――――祀ちゃん」
両肩をしっかりとつかむと、彼女は震えた眼で、祀は真昼のことを見上げてくれた。
頬を伝う涙が、地面へと落ちてゆく。空になった瞳が、彼女の心の空虚を映し出しているようで。そんな彼女は、真昼もシノアも望んではいなかった。
「祀ちゃんが気負うことじゃない。シノアちゃんもそう言っていた」
「……それでも、私は自分が許せない」
「けど、貴方がそれじゃあ、シノアちゃんのほうが、悲しむだろう。私だって、シノアちゃんが悲しむ姿はもう見たくない。祀ちゃんだって、それは分かっているでしょ」
自らの全てである戦場を失ったとして、他に彼女に何が残るだろうか。戦いの中でしか生きられない彼女は、果たして何を希望にして生きてゆけばいいのだろうか。
白い花が、夢の様に儚く映っていた。
「……ごめん。そっか、そう、だよね。シノアさんの分も、私が頑張らないと」
「それでいい。それなら、シノアちゃんも笑ってくれるはずだから」
「でも、真昼さんも……あまり、無理はしないでね。それこそ梨璃さんがいなくなったら、シノアさん、何するか分かんないんだから」
「……肝に銘じておきます」
「お願いよ。だって、シノアちゃんは――」
こつん、こつん、と。
足音が、聞こえてきた。
真昼と祀の会話を遮るようにして、そんな地面を鉄で叩くような音が、扉の向こうから俺の耳へと入ってくる。まだ慣れていないのだろう、断続的に響き渡るその音は祀の言葉を遮り、その顔に再び虚ろを思い出させていた。
開いた口を、祀はつぐむ。そうして、彼女は一瞬だけ、灰色めいた表情のままで、真昼の方へ向き直り、
「呼び止めちゃってごめんね、真昼さん。私、もう行くから」
「……ああ」
「シノアちゃんのこと、幸せにしてあげて」
――私には、できなかったから。
小さく動く唇は、そんな言葉を紡いでいるような気がした。
「あ、真昼お姉様?」
扉の向こうから姿を現したのは、壁に体を寄せながらこちらを覗く夢結であった。
黒い髪は寂れた羽のように透き通り、ふらついた体は今にもどこかへ飛んで行ってしまいそうで。壁にもたれかかりながらこちらを見上げる夢結の足先には、彼女の細い両足――ではなく、逆関節のバトルクロスがふたつ。それが、今の彼女の身体を支えていた。
こつ、こつ、と固い音を立てながら、シノアが壁を伝ってこちらへ歩み寄る。
「祀様と会いましたか?」
「……うん。さっき、少しすれ違ったよ」
「そうなんですね」
くすくす、とシノアはどこかおかしそうに笑っていた。
「あの祀様は、忙しいはずなのに、ああやって会いに来てくれるんです。私の事なんか放っておいて、もっとお仕事をなされば良いのに」
「……そう、思うの?」
「はい。祀様は凄いんですよ。戦術論は勿論、それを実践でハイレベルな形で落とし込んで誰でも強くなる方法を確立した一人なんですから。 だから、こんな私なんかより、もっと、そう、真昼お姉様と一緒に――ぁ」
ふらり、と。
倒れてしまいそうな、どこかへ行ってしまいそうな彼女へ、真昼は思わず手を差し伸べた。
「……シノアちゃん?」
「すみません、まだ慣れていなくて」
真昼の腕の中で、恥ずかしそうに笑みを浮かべる彼女の体は、まるで鳥の羽のように軽く感じられた。それが、彼女と言う存在そのものを表しているようにも思えた。
「立てる?」
「はい……大丈夫、です」
こつ、こつ、と。
無骨で、とても軽い金属音を鳴らしながら、シノアは壁へ体を寄せた。
「ありがとうございます」
「別に気にするような事でもないよ。それより、中で少し話でもしよう。その方がシノアちゃんにとっても落ち着くでしょう?」
「そう、ですね。丁度、おいしいお茶を貰ったんです。真昼お姉様さえ良ければ、二人で……」
そうやって笑う彼女の左目には――決して開けることのない漆黒が、映っていた。
■
横浜衛士訓練校にある特別棟の医療部屋から外を眺めるのがここ最近の彼女の日課であった。
「シノアちゃん」
「…………真昼お姉様? どちらに?」
「こっち」
動かない左目を向けたまま、シノアは首を動かして真昼の方を見上げていた。
そんな彼女の隣に座りながら、盆にのせた湯気の立つ湯呑みを彼女へ。暖かい、けれど少し苦いような香りを感じながら、俺も湯呑みを手にとって、その中の熱い液体を一つ口に含んだ。
「お茶まで運ばせてしまって、すみません」
「気にしなくてもいい。その体じゃ不便でしょう」
「ありがとうございます……それで、どうでしょうか」
「……美味しい。家の?」
「はい。お父様が送ってくれたんです。そんなに気を使わなくてもいいのに」
どうしてでしょう、とため息を吐きながら、シノアも同じようにして湯呑みを傾ける。初夏の日差しが、彼女の透き通る様な髪を照らしつけていた。
「それで、お姉様」
柔らかな呼びかけに、ふと顔をそちらへ向ける。
「こんな不出来な妹に、今更どのような用事ですか?」
少し下品な、下卑する、毒舌というか、少し皮肉めいた言い回しが、今ではとても脆いものに感じた。そんなことを言う彼女が今まさに何処かに行ってしまわないか、とても不安に感じた。
「別にこれと言ってないよ。ただ、ヒマだから話をしに来ただけ」
「あ、それは意外です。てっきり姉妹契約の解消の通知かと思いましたから」
「そんな事は、決してない」
「ふふっ、真昼お姉様はそう言って下さるのですね」
呆れたような、けれどおかしいように、シノアは彼女らしい笑みを浮かべていた。
「こんな動かない無駄飯食らいの衛士、早く追い出してしまえばいいのに」
「私にできると思う?」
「前までは、そうしたかもしれません。けど、ああ、いいえ、時雨お姉様が全てやってくれたおかげで、重荷は降ろせたのでしょう? だから、こうやって無駄な時間を使っている。ラプラスの英雄なら、さっさと切り捨てて次の戦場へ向かったはずです」
まるで、悪戯が上手くいったような、そんな子供らしい笑みであった。
「私のような、何もできない衛士と話してくれるような状況なんですもの。今更、私たちの出番はないのでしょう?」
「……まあ、事実。時雨お姉様と優珂ちゃんが動いて、時間をくれてる。長くない私達に、せめて安息をって。それで私がここに来た理由は」
無責任な励ましの言葉を掛けるわけでもない。けれど、彼女自身を否定するわけでもない。
ただ真昼が求めているのは、そのままの彼女であって。
「シノアちゃんが私を求めてくれたから。私が貴方と一緒に居たいから」
「…………」
暗い左目からは、何も感じられなかった。
「……損な人ですね、シノア様も、真昼お姉様も」
「シノアちゃんと一緒に居て、損だと思った事は無い」
「こんな欠陥衛士と一緒に居て、ですか?」
「うん、貴方とここに居られたことを、とても嬉しい、と思っている。幸せだとも」
曇りの無い、本心からの言葉であった。彼女と共にいられるなら、全てを投げ出せる覚悟があった。
そして――彼女と添い遂げる覚悟も。
「……真昼お姉様?」
上着の懐から取り出した箱を見つめて、シノアが不思議そうに首を傾げる。
「それは?」
「……何、と言って良いのかは分からないが……指輪だ」
「指輪? どうしてですか?」
……本当に、理解していなかったのか。
「姉妹契約の証、と言えば、わかるかな」
「まるで結婚指輪みたいですね」
「だね」
「私が、もらって良いのですか?」
「ん?」
「それは、時雨お姉様に渡すべきものじゃないですか?」
いまいち、どうしてか雰囲気がぎこちない。晴れない雰囲気に箱を弄りながらどうしたものか、と思索に耽っていると、シノアはくすくす、と小さく笑い始めた。
「シノアちゃん?」
「ふふっ、だって、おかしいんですもの。最初の姉じゃなくて、妹と結婚指輪渡すなんて言い出す人、初めて見ましたから」
すぅ、と笑みを消して、シノアは自らの足先を見つめていた。
「こんな、人にすらも足りえない欠陥品に、そんな事を言うなんて」
「違う。シノアちゃんだから、この選択をしたんだ」
「……ずるい人。本気にしてしまいますよ?」
「私は元々そのつもりだ」
「そう、ですか。それなら――」
また、彼女の身体がふらつくのが、視界の端で見える。
そうして次に感じたのは、肩に優しく寄りかかる、暖かな感触だった。
「……ねえ、真昼お姉様」
「どうした?」
「これからも、シノアを傍に置いてくれますか?」
崩れ落ちてしまいそうな彼女の肩を抱いて。
「うん、私が朽ちるまで、ずっと」
――鈍い銀の光は、あっけなく彼女の指で輝きを取り戻した。
左の薬指に嵌められたそれを、夢結はただじっと見つめていた。その表情には曇りも、ましてや喜びもなく、ただ目の前の事象を捕らえるので精いっぱいのような、そんな不慣れなものが浮かんでいた。
やがて、どうにかして絞り出したように、シノアが小さく唇を動かす。
「――……不思議な感覚、ですね」
「嫌だった?」
「いえ、そうではないですけど……とても、嬉しく感じます。それと、満たされたような」
言葉を聴くことはできなかったけれど、彼女の笑顔はとても眩しかった。
「それで」
「……それで?」
「どこまで、されるんですか?」
含みのある深い笑みで、彼女がこちらへ問いかける。その答えにはとても迷ったけれど、やがて口にした言葉は、真昼の心からの思いであった。
「……共に、行けるところまで。一緒に」
「はい。それなら、私はあなたの側に」
――やがて朽ちる、その時まで。
お互いの瞳を見つめ合いながら、二人で向き直る。
「私はシノアちゃんにいてほしいから」
「私には、真昼お姉様しかいませんから」
そう薄く、儚いような笑みを浮かべているシノアの唇に真昼のものが重なった。
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