第31話 無垢と残酷

 東宮即位式当日。


 清正は仮病を使って式典を欠席し紫宸殿の右斜め後ろにある清涼殿せいりょうでんに隠れていた。


 清涼殿とは帝が暮らす殿舎である。本来は実の息子といえどもおいそれとは立ち入ることのできない場所だが今回のにはこの場所が最も都合が良かったので清正は思い切って忍び込むことにしたのだ。


(兄上だ!)


 清正は潜伏している角部屋の窓から紫宸殿より出てくる瀧正の後ろ姿を見つけた。


 普段は登龍門院の術服じゅつふくを着ている瀧正も今は東宮としての正装をしており清正はその凛々しさと美しさに胸が熱くなった。


 瀧正は紫宸殿の正面外廊中央にある大階段を降りると用意されていた龍の飾りの施された色鮮やかな船に乗り込み聖麗泉の上へと進み出た。


 やがて船が止まると瀧正は龍心環を顕現させ胸の前へと構えた。  


けまくもかしこき天龍に瀧正がかしこかしこもうす。言祝ことほぐ恵みの雨を降らしたまえ。“ 清光慈雨せいこうじう”」


 瀧正が詠唱を終えると空に美しい光の陣が創り出された。すべての民に雨が届くよう国中を覆うようにどんどんと広がってゆくそれは圧巻で今回即位式のために集まった都の貴族たちも感嘆の声を上げていた。


 しかし瀧正をじっと見つめていた清正には牡丹の散ったその手が微かに震えているのが分かった。


 清正は顔を曇らせながら自らも龍心環を顕現させるといつでも詠唱できるように備えた。


 そうして今一度空を見上げぐっと眉根を寄せた。 


 注意して見なければ分からないが微かに陣が途切れてしまっている場所が数か所あった。


 このままでは陣は消えてしまう――。


 清正は急いで口を開いた。


けまくもかしこき天龍に清正がかしこかしこもうす。言祝ことほぐ恵みの雨を降らしたまえ。“ 清光慈雨せいこうじう”!」


 

 それはまばたきにも満たない間のことだった。


 空に広がる陣がふと掻き消えたと思うとまるでその事実を覆い隠さんとするかのように再び陣が現れ光の雨が降り始めた。



 それはこの世のものとは思えないほど美しく幻想的な光景で、辺りからはどよめきと歓声があがりこれまでの粛々とした雰囲気から一気に目出度めでたい空気へと様変わりした。


「よかった……」


 清正はその様子に満足げに一息つくとそっと清涼殿を離れたのであった。





◇。..◇。..◇。..◇。..◇。..◇。..


 一日はあっという間で既に辺りには夕陽が差し込んできていた。


 清正は帳台の中で寝そべり今日の瀧正の姿を思い出してはくふくふと幸福そうに笑っていた。


(これで民には東宮に相応しいのは兄上だということが分かってもらえたはず)



 清正の計画、それはもし瀧正が術を完遂できなかった場合は清正がこっそり代行するというものだった。


 清涼殿に潜むのは勇気がいったが目論見通り瀧正から絶対に気付かれない特等席に陣取ることができた上に計画は上手くいったので清正は上機嫌だった。



 嬉しさにころころと転がっていると廊下の向こうから荒々しい足音が聞こえた。


 驚いて上体を起こしたのと同時に帳が乱暴に跳ね上げられた。


「清正!」


「兄上?!ッ!」


 瀧正は帳台に乱暴に入ってきたかと思うと勢いよく清正の胸ぐらを掴んだ。


「お前だろう!」


「な、何がですか?」


 清正は瀧正のあまりの剣幕に身をすくませながらも瀧正が一体何のことを言っているのかが分からず聞き返した。


 しかし瀧正はその言葉を聞くとさらに恐ろしい形相で清正を揺さぶった。


「しらばっくれるな!即位式で“清光慈雨”をしたのはお前だろう?!」


「え……」


 清正は動揺し一瞬息が止まった。


「まさか……。兄上の、気のせいでは」


「私が自分の創った陣が途中で消えたかどうかも分からないと本気で思っているのか?!あの時雨を降らせたのは私の陣ではない!


 お前、あの陣に治癒の術を込めただろう。即位式で降った雨はお前が前にここで創った雨と全く同じだった!」


「……」


 清正はもう誤魔化せないことが分かると黙りこんで瀧正から視線を逸らした。


 しかし瀧正はそれを許さず清正の顔を掴んで正面を向かせるとその目を覗き込んだ。


「何故だ。何故こんなことをした!」


「……兄上の、お役に立てたらって……」


「私がいつ頼んだというのだ!」


「でも兄上は先日お怪我をされて、それで滉光とも連花を解消して、“清光慈雨”も習得されていないって」


「それで仮病まで使ってコソコソと準備していたというのか?!私には“清光慈雨”はできるはずがないと!」


「そ、そういうわけでは……」


「ふざけるな!!」


「ッ!」


 瀧正は清正を力いっぱい突き飛ばした。


「どうしてそんな余計なことをするんだ!私の役に立ちたい?!お前の方が優秀だと私に見せつけたいの間違いじゃないのか?!いつもそうだ。お前はいつだって私のできないことを目の前で軽々しくやってのけて当たり前のような顔をする。お前さえいなければ私は……ッ!


 どうしてお前が弟なんだ!!」


 のろのろと顔を上げた清正は息を吞んだ。



「兄上、泣かないでください、お願いです、清正が悪かったです、だから」


「来るな!」


 瀧正は咄嗟に積んであった本を掴むとこちらに近づいて来ようとした清正に投げつけた。


「痛!」


 清正の悲鳴に瀧正はハッと身を強張らせた。


 それからぎゅっと顔を歪めると足早に帳台を出て行ってしまった。


「待って兄上!」


 清正は追いかけようとしたが今頃になって体中が震えてきて力が入らず立ち上がることができなかった。



「どうして」 



 ただ、瀧正の役に立ちたかった。喜んでもらいたかった。



 それだけだったのに――……。



「兄上、あにうえぇ……」



 清正は夕日の沈み切った暗闇の中で独りうずくまり、いつまでも号泣し続けたのであった。





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