8

 錠前だけが新しい屋根付きの駐車場は、トタンで覆われた簡素な造り。いつも数台の車が停まっていて、仲間内では単純に『金城』と呼ばれていた。先月、空気圧を確認したときに置いてあったのは、白のスプリンターGT、シャンパンゴールドのステップワゴン、そしてシルバーのレガシィB4。確か、ステップワゴンのリアタイヤに空気を足した。常に完璧な状態に保つのが仕事で、実際上手くやってきたと思う。でも、もう終わりだ。

 稲場は、錠前に鍵を差し込んで開くと、引き戸を開いた。自転車で一時間以上かかったが、電車に乗るなんてことは考えられなかった。今の自分の姿はタクシーの運転手にすら見られたくはない。留美の死で、時間を稼いでいるような姿は、誰にも。例えば、一旦家に戻って考えられる私物は全て詰め込んだリュックサックを背負っているとか。タウルスのファイアリングピンが削られていることを確認してもなお、脅すぐらいには使えるのではないかと思って、捨てる気にはなれなかった往生際の悪さも。どこかで終わりにするとか、そういう話ではない。自分が死ぬことでしか終わらないのだから、当然だ。金庫を開けて、鍵のラックを取り出した稲場は、レガシィB4の鍵を外した。何もまとまらないが、少なくとも車は必要だ。

 墨岡から、数件の着信が入っていた。自転車を漕いでいても気づいたのは、頭のどこかでそれを待っていたからなのか。レガシィの運転席に座ってエンジンをかけ、アイドリング音が落ち着いていくのをタコメーターの針で確認してから、稲場は携帯電話を取り出した。自由に動ける足もない状態で、すぐ取る気にはなれなかった。金城からレガシィを出して、仕事の最中であるように駐車場に施錠し、いつものように閑散とした裏道を走らせる。白線の跡がかすかに残る駐車スペースへ寄せて初めて、稲場は携帯電話に残った着信履歴から、墨岡の携帯へと折り返した。しばらく発信音が続いた後、ようやく通話が始まり、稲場は言った。

「聞こえるか?」

 少し間が空いて、墨岡が言った。

「聞こえる」

「おれに、電話してきたな? 今じゃなくて、今朝の話や」

 稲場が言うと、墨岡は小さく息をついた。具体的な返事はなくても、それだけでほとんどの答えを自白したようなものだった。墨岡は、おれが家にいることを確認したのだ。稲場は、タウルスに弾が入っていないことを伝えようと口を開きかけたが、ぎりぎりのところで飲みこんで、言い換えた。

「面と向かって話せるか」

「話せる」

 墨岡は短く答えた。稲場はレガシィのハンドルを握り込んだ。こんな機械音声のように平板な声は到底、自分が知っている墨岡とは思えない。

「一時間後に、製紙工場まで来い。おれはもう覚悟はできてるけど。お前、死んでも構わんな?」

 自分の頭が考え出したとは思えないような言葉が出て、稲場は思わず瞬きをした。今のは、本当に自分が言ったのだろうか。おそらく自分でも触れられない頭の奥底が、それを望んでいるのだ。こんな茶番は、さっさと終わらせろと。

 墨岡は黙ったままだったが、最後に一言『そうやな』と言い、通話が終わった。稲場は初めて気力が漲ったように、レガシィを発進させた。ここからなら、製紙工場は三十分の距離。先に入ることになるだろうが、後は何が起きようが動くつもりはない。

 少なくとも自分は、そこで終わらせてもらおう。

     

   

 龍野は、チェイサーの運転席で、手が届かない目の奥から鼻にかけて異物が入り込んだように、顔をしかめていた。何年か前にも、こうやって運転席に座り、何かを待っていた気がする。半透明の膜が張ったような記憶を掘り返していると、八女から着信が入り、外交官からの連絡を待っていることを思い出した龍野はシートにもたれたまま姿勢を正した。

「もしもし」

 龍野が言うと、八女は小さく咳ばらいをしてから、言った。

「稲場さんは、製紙工場に来ます。一時間後です」

「よくやった」

 本音が思わず飛び出し、龍野は笑いを噛み殺しながら頭の中で『よくやった』と繰り返した。製紙工場は防音設備に囲われた、要塞のような場所だ。銃声が外へ出て行くリスクも低い。

「もしもし?」

 八女がしびれを切らせたように言い、龍野は無意識にだらけていた体を再び起こした。

「ごめんごめん、よくやってくれた。それなら、松戸さんに倉庫の見張りを続けるよう、言っといてほしい。でさ、君らはプロだからすぐ分かると思うけど、工場は海側の方が低くなってる。入るなら、反対側の方がいいよ」

「ご丁寧にどうも」

 八女はからかうように言い、一息置いてから続けた。

「どうされます? こっち、来ますか?」

「行くよ。岩村も連れて行く。あと、分かってると思うけど、青山と墨岡、稲場。全員そこでチーンね。じゃあ、また後で」

 龍野は通話を切ると、そのまま勢いに任せて岩村の携帯電話を鳴らし、通話が始まるなり言った。

「動きました。墨岡と稲場の間で連絡がついて、今から一時間後に製紙工場で話を聞くと」

「そらまた、物騒なとこを選んだもんやなあ」

 岩村は電話の向こうで、呆れたように笑った。

「まあ、誰にも聞かれたくない話もあるんでしょう」

 龍野は上手く愛想笑いを生み出すことができず、言葉で補った。岩村は納得したように咳ばらいをすると、言った。

「ほな、お前も来れるか」

「はい」

 龍野はそう言って通話を終えた。もちろん、立ち会わせてもらう。チェイサーの送風口から吹き出す暖房の風に手をかざしながら、岩村に対して呟きたかった本音を、三年前と同じように口に出した。

「潮時だろ……」

     

     

 突然、ランドクルーザーが意思を与えられたようにペースを上げ、大橋は自分と車以外の全てを意識の外へ追いやったように、静かになった。スピードこそ法定速度を守っているが、信号の動きを先読みしているように、全く引っ掛かることがない。青山は頭を揺られながら、八女に視線を向けた。墨岡の携帯電話に稲場からの折り返しがあったのが、五分前。墨岡は、自分からはほとんど言葉を発することがなかったが、稲場の次の動きは、全員に素早く共有された。八女が龍野に電話をかけ、通話を切るなり運転席の背もたれをぽんぽんと叩いたところで、がらりと空気が入れ替わった。

 自分が逃げる方法を考えなければならない。青山は、車内に響く音量で八女が目的地を言い、最後にちらりと自分を見たのは、敢えて情報を共有することで『最後にお前も殺す』と宣言したのと同じ意味だと、理解していた。墨岡も同じだし、稲場もだろう。つまり、製紙工場という最適な狩場で練習をするつもりなのだ。相手は逃げ足には自信があるが、銃火器を実際に使った経験のない雑用係。もちろん、人一倍構造などに詳しい自信はあるが、撃つとなると話は別だ。青山は、墨岡の様子を探るように一旦後ろを振り返り、視界の隅でリュックサックの位置を確認した。

 拠点として使われていた製紙工場は、その手前に建つ巨大な浄水工場が遮音壁のような役割を果たしている。機械類はそのまま残置されているが、稼働はしていない。音が漏れる心配もなければ盗聴の心配もなく、ほとんどは、佐藤が厄介な相手から情報を『引き出す』ときに使っていた。大抵、夕方に『準備をよろしく』と電話がかかってくる。待機していると、ほとんどの場合は明け方になって『掃除をよろしく』と電話がかかってきて、結果は様々だが、歯や体の部品が落ちていることもあった。

 浄水工場の前へ辿り着き、そのすぐ裏にある製紙工場を透視するように大橋が言った。

「陸側から入る」

 八女は、ドア側に立てかけているナイロンのガンケースの姿勢を正すように引っ張り上げると、コートの下に隠したままになっているVZ61の銃口を出した。サプレッサーは艶がない黒の防熱テープで養生され、手が触れる部分は再塗装されている。最後に人を撃ったのは、四年前。錆がまだらに元の色をかき消す屋根を見て、別所が言った。

「廃墟みたいなとこだな」

 大橋は高い雑草がバリケードのように生えている入口の前を行き過ぎると、海側に下る道の手前でランドクルーザーを転回させた。製紙工場からはコンクリートの壁で遮られて、死角になる位置。青山は、待機場所や姿を隠すのに最適な位置を尋ねられるかもしれないと期待していたが、大橋が何も尋ねることなくそれを見つけ出したことに、その道のプロなのだということを改めて確信した。静かにサイドブレーキをかけた大橋は、八女の方を振り返った。

「ここから歩きで入るか」

 八女がMP5SD6を一挺ずつガンケースから抜き出し、大橋と別所はそれぞれ受け取ると、続けて渡された予備の弾倉を上着のポケットに一本入れた。同型のイヤーピースを三人同時に片耳へはめ込み、無線のチェックを素早く終えたとき、青山の視線に気づいた八女は愛想笑いを返した。大橋が運転席から降り、それが合図になったように別所が助手席から降りると、続こうとする青山を手で止めた。

「お前は、車にいろ」

 青山がリュックサックに意識を向けたとき、八女が後部座席から降りてリアゲートを開け、墨岡を引きずるように車から下ろした。

「じゃー、水入らずを楽しんできて。これ、返すね」

 八女はベルトに挟んだコルトマグナムキャリーを抜くと、墨岡に手渡した。大橋と別所が死刑執行人のように墨岡が通れるだけの道を開けると、言った。

「お先にどうぞ」

 墨岡が上着のポケットにマグナムキャリーを隠して歩き出したのを確認してから、大橋と別所はその後ろをついていった。雑草に覆われた入口の中に三人が消えたとき、青山は八女の方を振り返り、開けられたリアゲート越しに言った。

「行かないんですか?」

「次は青山さんが入る番。私は最後」

       

     

 墨岡は、何度も来たことのある工場の通路を歩いた。やや古くなったコンクリートを踏む足音は静かで、大橋と別所は気配すら感じられないぐらいに静かだった。陸側から見れば地続きだが、海側から見れば二階にあたる。稲場がここを選んだのは、尋問に使われる場所だからだろう。一階へ続く階段の手前で止まると、墨岡は振り返った。大橋と別所の姿はすでになく、機械で入り組んだ側に影が一瞬だけ見えた。墨岡は階段から少し身を乗り出して、大橋と別所が移動した先から見える一階の吹き抜け部分に目を凝らせた。

 稲場が、ベルトコンベアに腰かけている。大橋と別所が移動した先は、そこをまっすぐ狙える位置。墨岡は、階段を早足で下り始めた。

     

  

 八女の耳元で微かに雑音が鳴り、青山は振り返った。八女は待ちくたびれたように伸びをすると、青山に言った。

「出番だよ。行っといで」

 青山が要領を得ないまま後部座席から降りて歩き出そうとすると、八女は早足で近寄って、青山の左手を掴むと関節の向きと反対方向にねじり上げた。

「丸腰でどこ行くの?」

 痛みで息が詰まった青山は、抵抗できずに呻きながらランドクルーザーに押し付けられた。

「なんですか……」

 八女は手を離すと、片手に持ったリュックサックをぶつけるように突き出した。

「なんで連れてきたと思ってるの? あんたが墨岡と稲場を殺すんだよ」

 青山はかろうじてリュックサックを受け取り、目を見開いた。

「どうやって?」

「とぼけるねー。そのリュックの中に、銃入ってるんでしょ? 逃げても構わないけど、残りの人生ずっと、びくびくしながらその銃と一緒に過ごすことになるよ」

 八女は久々に再会した友人と話すように早口で言うと、言葉を締めるように口角を上げて笑顔を作った。

「あんたらみたいな雑用係は、練習台にもならないから。行っといで」

 青山はうなずくと、八女から遠ざかるように小走りで工場の中へ入った。三組の足跡がうっすらと残っていたが、階段のすぐ手前でそれは一組に減っていた。青山はリュックサックからルガーを抜くと、一階を見下ろした。ベルトコンベアの前に座る稲場が、ゆっくりと腰を上げるのが見えた。階段に足を下ろすと、鉄板を踏みしめる音は嫌でも響く。どうすべきか迷っていると、いつの間にか真後ろに立った八女が、耳元で呟いた。

「ボーッとしないで」

  

   

 浄水工場の手前で路肩にチェイサーを停めると、龍野は運転席から降りて歩き始めた。少し離れたところに、マツダランティスが見える。朝やったことの繰り返し。運転席から降りた岩村が、ほとんど温度のない冬の日差しから顔を背けながら、顔をしかめた。龍野が目の前まで歩くと、岩村は表情を苦笑いに変えた。

「だだっ広いとこは眩しいてかなわん。いこか」

「はい」

 龍野は、岩村と並んで歩き始めた。八女からついさっき、持ち場についたと連絡があったばかり。それはつまり、製紙工場の中に稲場の姿を確認したということだ。浄水工場を囲む歩道を抜けて、工場が見えるすぐ手前まで来たとき、岩村は言った。

「それにしても、あっけないもんやね」

「最初に声かけてもらったの、あれってもう、十年ぐらい前ですか?」

 龍野が言うと、岩村は浅くうなずいた。

「十年か、そこらやな。今思い返したら青かったな。まあ、五十回った今も、そない変わらんか」

 龍野は、搬入口がある海側に目を向けた。陸側は真っ暗な通路を通ったり、色々と見通しが悪い。

「眩しいですけど、とりあえず降りますか?」

「そうやな」

 岩村が言い、二人は海に続く道を下り始めた。その上着が、片方のポケットを中心に不自然に引っ張られているのを見た龍野は、少なくとも丸腰ではないのだろうと想像し、置き去りにしていた相槌を拾い上げた。

「五十まで生きてるとか、当時は想像できませんでしたね」

「この仕事に関わっとるやつは、みんなそうやろうね」

 岩村はそう言うと、歯を見せて笑った。

    

   

 稲場は、右手を上着のポケットに突っ込んだまま歩いてくる墨岡に、言った。

「考えることは、一緒やな」

 墨岡は、稲場が両手を上着のポケットに突っ込んでいるのを見て、呆れたように笑った。

「そのまま、撃てるか?」

 稲場は首を傾げた。実際こうやって顔を合わせると、このままいつものバーへ飲みに行けるのではないかと思えるぐらいに、墨岡は何も変わっていない。おそらく、最初からずっとそうだったのだ。義理を感じさせない冗談めいた一言は、その口から何度も聞いた。その度に軽口だと思って聞き流していたが、実際にはそれも含めて、墨岡の一部だった。

「おれは、誰に復讐したらよかった?」

 稲場はそう言って、左手を抜いた。タウルスM85を地面に放り投げると、墨岡の顔色は少しだけ変化した。長年の付き合いだから、その表情の変化の意味は分かる。今、墨岡の予想から脱線した。

「こいつは、弾が出んように細工されてる。お前は知ってたんやな」

 墨岡は目を伏せたが、覚悟を決めたようにうなずいた。稲場は、まだポケットに突っ込んだままの右手に意識を集中させた。

     

     

 龍野は、海側の搬入口まで辿り着くと、レガシィB4が停められていることに気づいて、身を低くした。岩村は笑いながら、その背中を軽く叩いた。

「そない、びくびくせんでもええやろ」

 龍野がためらいがちに体を起こすと、岩村は車止めにもたれかかって、言った。

「ここに来ると、色々思い出すな。だいぶ前の話やが、どんな人間にも弱みがあるってことを話したん、覚えてるか?」

 龍野はうなずいた。弱みというよりは、命を落としかねない弱点の話だった。

「村岡と柏原は、元々体制側の人間だから、使命感が強すぎる。佐藤は復讐心が命取りになる。そう言ってましたね」

 岩村は、龍野の答えに満足したように笑った。

「よう、覚えてるな」

    

 

 稲場は、ついさっきまで頭の中でずっと繰り返してきたことを、墨岡に言った。

「お前は自分のことしか頭にない。それを証明したるわ」

 稲場は上着ごと右手を持ち上げた。墨岡が上着から手を抜き、マグナムキャリーの銃口が稲場に向いたとき、遠くで圧縮空気を打ち出したような抑えた音が鳴り、ライフル弾が墨岡の手首から先を吹き飛ばした。

 岩村は、サプレッサーで押し殺された銃声を聞いて首をすくめた龍野に言った。

「弱みっちゅうのは、自分の命を差し出す覚悟ができたときは、武器になる」

 龍野がよろめくと、岩村はその体を掴んで引き倒し、警察官だったときの動きを体に呼び起こしたように上着から手錠を抜くと、龍野の右手首を配管にくくり付けて言った。

「よう見とけ」

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