7

 大橋から松戸に伝わった情報は、そのまま龍野に連携され、留美が命を落とした一時間後に、関わった全員分の文句が重なり合った状態で青山の携帯電話に届いた。

「お前、正気か?」

 青山は眉間を押さえた。龍野は、他人にそんなことを確認できるような人間ではない。

「確認不足です」

 本当のところは、ただ自分でやり抜く自信がなかった。それだけだ。龍野は小さくため息をつくと、再び口を開いた。

「どうやったら、こんな間違いが起きる? お前は、稲場と嫁さんの区別もつかねえのか」

 この会話が噛み合うことはないだろう。青山は眉間を押さえていた手を解放した。

「変な時間に車が出て行ったので、間違いないと思いました」

 永遠に噛み合わない、冷や汗の出るやり取り。青山は歯を食いしばった。龍野は、稲場が移動するのを見届けたのが、自分だと思っている。そう思っていればいいし、今更言い訳をする意味もない。ただ、結果に直接関わりたくなかった。これから起きる『人の死』全てに距離を置きたい。そう思ったからこそ、墨岡から『銃を持ってこい』と言われたときに、それを利用する以外ないと思いついたのだ。龍野には到底言えないことだが、もし話す機会があれば、手を叩いて喜びそうな話。断るのではなく、実際に拳銃を用意した。墨岡に渡すとき、まずその頭に向けて引き金を引いてやったのだ。ファイアリングピンに細工されたタウルスから弾が出ることは当然なく、墨岡は反射的に顔を背けて飛びのいたが、実際にはその場で死んだも同然だった。

 龍野が唸りながら一度咳ばらいをして、青山を現実に引き戻した。

「そこにいろ、迎えを寄越す」

「分かりました」

 青山は電話を切ると、携帯電話ごと現実を脇に追いやった。決め手になった言葉がどれかは分からないが、少なくとも墨岡はあの場で納得したのだ。

『これが種明かしです。誰が死ぬかはもう決まってるんです』

 そう言ったとき、墨岡は、死を約束されたのが稲場だということを悟った。

『それとも、外交官の練習台になりたいですか?』

 それで腹を括ったと思ったのに、蓋を開けてみればこれだ。これ以上ないぐらいに、簡単な作業のはずだった。稲場が外に出たら、連絡する。ただそれだけでよかったのだ。青山は、墨岡の携帯電話を鳴らし、通話が始まるなり言った。

「めちゃくちゃにしてくれましたね」

「暗くて、よく分からんかった」

 墨岡の声には表情がなく、ほとんど機械のように平坦だった。青山は、自分の声からも感情が抜けていくままに、呟いた。

「全員、道連れにする気ですか」

「どうなるやろうね。少なくとも俺とお前は、もうあかんやろな。稲場は、分からん」

 ただ、一刻も早い死刑執行を望んでいる。青山はその出来損ないの覚悟を笑い飛ばすと、言った。

「まだ分かりませんよ」

 青山は電話を切ると、そのまま姿を消せるように、上着の隠しポケットに身分証を差し込み、体から切り離せるリュックサックの方へルガーSP101を入れた。どのような形で吉と出るか、もしくは凶と出るのか、予測がつかない。自分が置かれた立場を考えると、いつでも抜ける位置に拳銃を携帯しているのは、どちらかというと心証が悪く、凶と出るかもしれない。青山はできるだけ小さくまとめたリュックサックを担ぎ、ジーンズにピーコートを羽織ってマンションから出た。待っていろと言われて、そのまま座っているほど間抜けではない。駐車場に降りたとき、ふっと空気が揺れて青山は振り返った。

「こっちこっち」

 前に向き直ったとき、暗がりから現れた八女が愛想笑いを消した。コートの下から銃口を出したVZ61を示すように少しだけ視線を下げたとき、出口側で待機していたランドクルーザーが下がってきて青山の目の前で停まり、別所が助手席から降りるなり、言った。

「龍野さんの要望で、迎えに行ってくれと。どこに行こうとしてたんだ?」

 青山はうなずき、リュックサックを肩から抜いた。八女がそれを後ろから引き取り、リアゲートを開けて機材や毛布が重なり合う荷室に置いた。別所は青山の体をぽんぽんと叩いて身体検査をすると、丸腰と判断して乗り込むように目で促した。

 青山が乗り込むと、後から乗った八女がスペースを詰めるように奥に押しやり、ドアを閉めた。別所が助手席に乗り、大橋がランドクルーザーを発進させた。青山はリュックサックが置かれた場所を確認した。少なくとも、拳銃を身に着けなかったことは、吉と出た。青山はそれで心の余裕を取り戻したように、大橋の後頭部に語りかけた。

「見張っていたのは、墨岡でした。あいつが、勘違いしたんです」

「あー、そうらしいね」

 別所が代わりに答え、八女がからかうように青山のわき腹をつついた。

「んー、責任転嫁はよくないね」

 青山はうなずいた。実際のところ、責任がない人間なんていないのだ。八女は底意地の悪い笑顔を浮かべると、後ろを振り返った。

「墨岡さん、どう思う?」

 八女が細長い手で毛布をめくり、青山は荷室を振り返った。墨岡が毛布の下に横たわっていた。顔に傷はなかったが、縛られた左手首の痣はほとんど真っ黒に変色していて、中で骨が折れているのが分かった。墨岡は何も言わず、目を合わせただけだった。青山は前に向き直ると、別所に言った。

「稲場の家に、戻ったんですか?」

 別所がうなずき、大橋が一瞬振り返った。青山は思わず目を逸らせた。二人からすれば墨岡がいるとは思っていなかっただろう。そこで待機しているのは、本来であれば自分だった。この手の早さから想像できるのは、ただ一つ。いつか、龍野は自分の頭に計画していたことを実行に移すと思っていた。

 それが今日なのだ。

      

       

 龍野は、日光に目を細めながら、逃げるように腕時計に視線を落とした。午前七時、太陽が徐々に姿を現して、いよいよ朝になりつつある。ゼブラゾーンに一時停車したマツダランティスがハザードを焚いているのを見て、その大雑把さに思わず笑った。朝飯の約束でもしているみたいな、呑気な態度。龍野が助手席のドアを開けて乗り込むと、ハンドルを握る岩村は言った。

「おはようさん。えらいことになったな」

 龍野はしかめ面を崩すことなくうなずいた。稲場の妻が手違いで死んだ。とんでもない間違いを犯した青山は放っておくわけにはいかず、墨岡とセットで外交官に子守をさせている。この状況を打開するためにできることはあまりないが、せめて関わっている全てのことに即席の蓋をするために、岩村には敢えてこちらから連絡を取った。問題は、肝心要の稲場がどこにいるのかが分からないことだ。

「稲場はどうしてるんです」

 龍野が言うと、岩村は首を横に振りながら携帯電話を取り出し、留守電メモを起動した。

『自分は消えます。お世話になりました』

 雑音交じりの、短い伝言。龍野はヘッドレストに頭を預けた。これは、あまりにも良くない状況だ。携帯電話をセンターコンソールに置いた岩村は言った。

「消えるて、えらい勝手な話やわな」

 龍野は、冴えつつある意識を全て、岩村の言葉に向けた。相変わらず、翻訳機が必要だ。こちらには、本音を明後日の方向に隠す技量はない。朝日に目を細めながら、龍野は相槌を打つように応じた。

「むしろ、保護するべきでは?」

「こっちから出向いてか? 警官がずらーっと並んで待ってたら、どないすんねん? あいつは家族を殺されたんや。何を誰に言いよるか、分からんぞ」

 岩村は言葉の続きを行動で示すように、ランティスをゆっくりと発進させた。

「お前、サッと出れるか?」

「国外ですか? いけますよ。岩村さんはどうするんです?」

 龍野が尋ねると、岩村は肩をすくめた。

「まあ、逃げなしゃあないやろね。店仕舞いに数時間かかるとして。稲場が警察に転がり込んで、対応した警官が腰を抜かして、動いて。今晩までここにおったら、手遅れかもしれんな」

 龍野は、うなずきだけで応じた。法の番人だったとは思えないぐらいに、あっさりとした態度。岩村は雑居ビルの地下駐車場に入ると、ヘッドライトを点けた。妨害電波に囲まれた、盗聴されづらい場所。誰にも聞かれたくないときに使う『拠点』の一つ。その言葉自体が、すでに懐かしく感じる。龍野は言った。

「青山と墨岡は……」

 岩村は苦笑いを浮かべると、首を横に振った。

「ほっとけ。こっちは、あいつらがいらんことを思いつく前に動かなあかん。いや、墨岡はあかんか」

「どうしてですか?」

「あいつは、稲場の昔っからの連れや」

 岩村は光が通らない柱の裏にランティスを停めると、ヘッドライトを消してサイドブレーキをかけた。しばらくまっすぐ前を見たまま黙っていたが、ようやく姿勢を正しながら呟いた。

「で、墨岡はどないしてんねん」

「呼びますか?」

 龍野が顔を向けると、岩村は宙に向かって浅くうなずいた。

「連絡がついたらな。稲場は、墨岡に黙って出て行くことはないやろ。おれらがこうやって会ってるみたいに、何らかのやり取りはあるやろうね」

 岩村と横並びで話すこれも、最後なのか。龍野は自分が始めたことだと頭で理解しながらも、その呆気なさに息を詰まらせた。お互いが自分の行動にあれこれ理由をつけて、責め立てるような場に立つことになるだろうと、勝手に想像していた。

 岩村は龍野の方を向いて、言った。

「龍野、お開きや。段取りを間違えたら、誰かが逃げ遅れる。まずは、墨岡を通じて稲場を捕まえろ」

 龍野はうなずいた。墨岡なら、稲場と話すことができるだろう。岩村の話す段取りの揚げ足を取るように、頭の中に自分の『段取り』が生まれつつあった。少し間を置いてから、岩村は続けた。

「こっからがややこしいが……、稲場が誰かに倉庫のことやら喋っとったら、悠長に撤収をしてる時間はない。この時点で解散や。おれらも含めて、今後は誰も顔を合わさん。もし誰にも喋ってなかったら、まだ救いはあるやろから万が一に備えて、総出で倉庫を片付ける。これでええか?」

 龍野は再びうなずいた。頭は冴え渡り、岩村の言葉が自由自在に変換されていた。壮大な店仕舞い。頭の中に浮かんだその言葉は、少しずつ具体的に形を変えていった。運転席に座る岩村との間に透明の壁があって、別々の世界に切り離されたようだ。

 外交官は、三人で青山と墨岡の両方を押さえている。松戸だけが自由が利く状態で、待機している状態だ。稲場を呼び出す方法は、いくらでもある。集合場所として拠点を使うなら、海沿いに建つ製紙工場の複雑に入り組んだ地形が、待ち伏せに最適だ。まずはそこで、岩村を稲場と話させる。稲場は岩村を前にして、『警察に喋りました』とは言わないだろう。面倒だが、その場に立ち会って、岩村が村岡ら三人に倉庫へ行くよう指示を出すところまで見届けないといけない。そこまでが確認できれば、もう止めるものはない。外交官なら、百通りのやり方で殺せるだろう。その後に起きる本物の『戦闘』のための練習台とも言える。村岡、柏原、佐藤の三人が倉庫に入ったことを確認するのは、松戸の役目になる。最後にそこへ外交官全員を集めて、綺麗さっぱり片付ける。

 しかし、本当にこれで最後とは。頭の中が再び混乱を始めた龍野は、運転席の方を向いた。岩村は、念押しするように言った。

「稲場と会う算段がついたら、言うてくれな。あいつには、悪いことをした」

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