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二〇二二年 四月 現在

 

 足音が戻ってきて女が再び姿を現す直前、青山はすぐに銃を抜いて引き金を引けるように、ルガーが挟まっている腰の後ろ側を少しだけ浮かせた。拳一つ分入る隙間さえあれば、造作もない。与えられていた役割は使い走りだったが、手近に軍事基地のような装備が転がっている状態が三年もあったから、時折在庫を手に取って、構造の勉強や操作の練習をしてきた。墨岡や稲場に差をつけたかったわけではない。ただ、普通に生きていれば確実に触れることのないものが目の前にあって、管理を任されていたから機会を生かしただけのこと。今思い返せば、やるべきことがはっきり決まっていた当時の方が、この人目を避けた生活よりもはるかに楽だった。気分屋な龍野の機嫌を窺い、岩村とは緊張を強いられるやり取りをして、墨岡と稲場の二人とは、時折飲みに行く。仕事はとにかく『覚える』ことで、メモは残さない。

 女が再び目の前に立った。右手にはまだ、45口径の拳銃が握られている。職業病のようにその特徴を捉えた青山は、ナイトホークT3だと気づいて、言った。

「高い銃を持ってきたな」

 女は手元に視線を向けることもなく、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。現代の『商材』。いつだって、この手の仕事をやる人間というのは、保険か不動産を売っているように見える。青山の視線に気づいた女は、愛想笑いを返した。

「確認するよう、何点か依頼されています。答えてもらえますか」

「いいよ。どうぞ」

 青山は呟いた。この手の人間に対して最も無意味なのは、命乞いだ。殺すためにわざわざ来た人間が、考えを変えることはまずない。女はメモに視線を落とした。仮に今ルガーを抜こうとしても、手を後ろに回した段階で撃たれるだろう。

「あなたは二〇〇六年に、当時住んでいた町を出ました」

 青山はうなずいた。その年に起きたこと以外で、誰かがここへやってくる理由はない。女はスマートフォンから視線を外すと、続けた。

「翌年の秋に、都心部で道路工事の作業員として働き始めた。期間は一年半」

 青山は体を強張らせた。地元から遠く離れて都会に紛れ込み、道路工事の仕事に就いた。身元保証の必要のないグレーな職場で、生活を軌道に乗せるためだけの味気ない仕事だった。

「そうやな」

 青山が呟くと、スマートフォンに視線を戻した女は、細く整えられた眉をひょいと上げた。

「二〇〇七年から二〇一二年までは、同じ都市でラウンジの黒服」

「おい、待て」

 青山は、女に対して初めて、はっきりと意思を示した。女はその語気に気圧されたように、顏を少し引いた。青山は、スマートフォンを神経質な手つきで指差した。

「そこに、全部入ってんのか? おれが今まで、どこで何をしてきたか」

「私は、書いてある通りに、伝えているだけです」

 女は愛想笑いを浮かべると、スマートフォンの画面に戻って、仕事を続けた。

「二〇一三年から二〇一八年まで、金融詐欺グループの一員。引退して、この家を買って引っ越した。現在に至る」

 青山はうまくいかない呼吸を整えながら、最大限の力を込めて愛想笑いを作り、力なく拍手をした。

「お見事。お見事やわ」

「私が調べたわけではないんですが」

 女はスマートフォンの画面を目で追いながら、呟いた。青山は女を少しでも人間の世界へ引き戻そうとするように、しかめ面で言った。

「つまりおれは、ここまで生かされたと。そう言いたいんやろ?」

「依頼人の意図は、分かりかねます」

 そう言うと、女は続きを読み上げた。

「二〇〇六年から今までの人生を、総括してください。いかがでしたか?」

 その淡々とした口調に思わず笑い、青山は呟いた。

「クソやったよ。墨岡と稲場、おれ。三人で雑用やってるときが、一番楽しかった」

 実際声に出してみると、本音は単純そのものだった。女はスマートフォンの録音アプリを起動すると、言った。

「二〇〇六年の一月、町を出るきっかけになった出来事が起きていますよね。あなたの目線で何が起きたのか、教えてください」

 青山はうなずいた。そして、事情を知りようのない女に向かって、弁解するように言った。

「最初に断っとく。あれは全面的に、墨岡が悪い」


    

二〇〇六年 一月 十六年前


 朝四時半、ぱちりと目が開いた留美は、ソファで横になっている稲場に気づき、声を掛けようとしたところで口元を押さえた。あの顔は、相当疲れていた。自分がかけていた毛布を上からそうっと被せて洗面所に入り、直射日光のような明るさの電灯に顔をしかめながら、留美は自分の顔を見つめた。

「うーん」

 元々、独り言が出るタイプではなかった。稲場がいるから、頭の中で言葉を止めていた栓が外れたままになって、独り言という名の呼びかけになってしまっている。ちょっと、動ける顔つきじゃない。留美はそう思いながら、稲場の方を振り返った。見事にソファと一体化していて、やはり動かすのは可哀想に感じるし、せっかくなら驚かせたい。お酒を飲まずに迎えた休日の朝は、お互いが朝の八時に起きる。一緒に朝ごはんを作り、何か特別なことがあって豪華なときは、デジカメで写真を撮ることもあった。その基準に当てはめれば、今日は間違いなく、その日だ。

 辞めるなんて言葉が出るとは、思ってもいなかった。留美は眼鏡をかけて、花粉症用のマスクをつけた。その上で野球帽を被ると、素肌がほぼ何かで隠された代わりに、怪しさだけが増幅された顔になった。その奇妙な恰好にひとしきり笑った後、留美はジャージ上下に着替えてコートを羽織り、ウィンダムの鍵をそうっと掴んで、最後に思い出したように書置きを残した。

 ウィンダムに乗り込んでエンジンを掛けると、稲場が直前まで聴いていた曲の続きが流れ出した。ホワイトストライプスの『セブンネイションアーミー』。リズムに合わせて頭を小刻みに振りながら、留美はウィンダムを駐車場から出した。ただでさえ暗い国道は先の方で本当の真っ暗闇に吸い込まれていて、ハイビームに切り替えると、留美はアクセルを深く踏み込んだ。

      

 

 携帯電話の着信音で、稲場は目を覚ました。ソファの形に折りたたまれた体があちこち痛み、大きなくしゃみをしたとき、ベッドの上にあるはずの毛布が自分に掛けられていることに気づいた。留美がいない。テーブルの上に書き置きがあり、稲場はそれを手に取った。 

『ちいっと、マザーシップまでいってくる』

 レバーパテを買いに行ったのだ。稲場は目を忙しなく瞬きさせながら、体を完全に起こした。左手が無意識に携帯電話を探り、雑誌の上で震えているのをようやく捕まえた。通話ボタンを押すと、墨岡が言った。

「おう、こんな時間にすまん」

「墨岡……、大丈夫か?」

 稲場が言うと、墨岡はしばらく黙っていたが、険しいままの口調で言った。

「寝起きか?」

「まだ、寝ぼけとるわ。テレビのリモコンもあらへん。で、どうした?」

 稲場はそう言ったとき、電話の向こうで墨岡が首を横に振ったのが分かった気がした。

「いや、さっき俺に、気をつけろって言ってたやろ。あのとき、それはお前も同じやぞって、言い忘れたから」

「はは、そんなことかいな。ありがと」

 稲場はそう言って、通話を終えた。妙な電話だ。目が変に冴えて、声が服に染みこんだ泥のように、こすればこするほど頭の中で広がっていくようだ。稲場は壁からかけたジャケットの方へ視線を向けた。不自然に垂れ下がっているのは、文鎮のようなタウルスM85がポケットに入っているから。稲場は、留美の携帯電話を鳴らしたが、すぐに留守電に切り替わった。ジーンズに着替え、拳銃に引きずられてぶらつく上着を掴むと、自転車の鍵を持って家から飛び出した。

   

   

 片側一車線の直線道路に入り、ぎらつく『凍結注意』の電光掲示板をやり過ごしたとき、留美はウィンダムのスピードを少し落とした。サプライズのつもりで出て来たけど、割と本気で怖い。こんな時間に取り締まりはないだろうが、道路脇が真っ暗な状態だと、何が潜んでいるか分からない怖さがある。遠くに、砂利敷きの自販機コーナーが薄明りに照らされているのが見えて、留美はそこを目標にするように、唇を結んだ。

 自販機の影になる位置に停まる黒のランサーがのろのろと動き出し、留美のウィンダムが通り過ぎるのと同時に本線に合流した。留美は下り坂に差し掛かって、シフトレバーをドライブからセカンドに入れた。エンジンが高く唸り出したとき、バックミラーに映る照明柱の光が遮られたことに気づいて、留美は目を向けた。誰も後ろを走っていないと思っていたのに、さっきのランサーがいる。ヘッドライトが点いていないから、全く見えなかった。ものすごいスピードだ。留美がそう思ったとき、大橋の運転するランサーは少しだけ進路を変え、ウィンダムの右リアフェンダーを斜めに押した。バランスを崩したウィンダムは右に振られた後、その反動で左に大きく姿勢を崩し、歩道と車道を分けるアイランドに激突した。大橋は急ブレーキを踏んでランサーを転回させると、アイランドと一体化したように破壊されたウィンダムの運転席を塞ぐように停めた。別所が助手席から降りて、粉々に割れたサイドウィンドウから中を見るなり、顔をしかめた。

「別人だぞ。女だ」

 エアバッグは開いたが、衝撃でエンジンルームが車内に入り込んで、運転していた女の両足はその真下に巻き込まれていた。別所は、ランサーの窓を下ろした大橋の方を向いて言った。

「車は合ってるけど、人が違うぞ」

 大橋は自分の仕事ぶりに問題はないと言うように、肩をすくめた。別所は、女に向き直った。

「あんた、稲場幸一の知り合いか?」

「妻です……」

 かろうじて意識のある留美は、ガラスの破片で片目しか開けられないまま、言った。

「あの、警察……」

 別所は大きな体を揺すって笑った。

「いやいや」

 銃が使えないことを思い出し、別所は身動きが取れない留美の気道を手で押し潰して、窒息死させた。ランサーの助手席に乗り込んで、大橋に言った。

「嫁だったわ。結果オーライか?」

「オーライなわけねえだろ、松戸に連絡しろ」

 大橋が吐き捨てるように言うと、ランサーを再び転回させた。現場から離れる必要がある。下手をすれば、このまま地の果てまで走った方がいいかもしれない。

     

    

 息が上がり、上り坂に差し掛かってからはさらにひどくなった。稲場は自転車のギアを変えながら業務スーパーへ続く真っ暗な道路を走り続けた。直感がありとあらゆる危険信号を発している。砂利敷きの自販機コーナーが見えて、真っ暗闇に吸い込まれるような、長く続く下り坂に差し掛かった。最初のゆるやかな左コーナーを抜けたとき、稲場は自転車のブレーキを掛けた。左に少し傾いたウィンダムから、白煙が上がっている。ブレーキランプはぼんやりと点灯し、アスファルトを赤く照らしていた。稲場は自転車から降りると、歩き出した。足が走ることを拒否するように重くなり、自転車で駆け付けるなんて、もってのほかのように思えた。

「留美」

 呼吸をするように、無意識に名前が飛び出した。稲場は運転席の前に立ち、首を真横に垂れたまま動かない留美を見つめた。

「おい、もう無理か?」

 場違いな言葉が飛び出して、ふと気づいた。常に無理をさせてきたのは、自分だ。無理で当たり前だ。いつか明日を迎えられない日が来るなんて、自分が一番分かっていたはずなのだ。そして、片方だけがのうのうと朝を迎えるなんてことは、間違っている。上着を容赦なく引っ張り続けてきたタウルスをポケットから取り出すと、稲場は自分の頭に銃口を向けて引き金を引いた。

 ジッポライターの蓋を閉じたような、鋭い音が鳴った。

 白煙の焦げた匂いが鼻を刺し、まだ自分が生きていることを不思議に思った稲場は、瞬きを繰り返しながら右手に握られたタウルスを見下ろした。手が無意識にシリンダーを開き、実弾が装填されていることを確認した。引き金を引けば弾に痕が残るはずだが、それがない。職業病のようにシリンダーを閉じると、稲場は空に向けて再び引き金を引いた。ハンマーか、ファイアリングピンが削られている。

 墨岡は、青山がこの拳銃を用意したと言っていた。稲場は表情がほとんど消えうせた顔で、周囲を見回した。留美の死は、その意味を押し殺され、未明の山道で大破した一台のトヨタウィンダムになった。稲場は一歩引いて、全体を眺めた。リアバンパーに黒い塗料の痕があることに気づき、タイヤの痕を振り返った。後ろから押し出されたのだ。海外の警察がよく使うやり方。

 稲場は横倒しになった自転車まで戻ると、ポケットに手を突っ込んで携帯電話を探った。

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