5

「逆に、増えてんだ」

 龍野が言い、臙脂色のテーブルを囲む墨岡と青山は、薄暗い店内でカクテルグラスに視線を向けながら話すその姿を見ていたが、ふと顔を見合わせた。ここ最近、龍野の言葉には主語がない。自分でもそのことに気づいたように、龍野は顔を上げると口角を上げて笑った。

「でかい声では言えない件だよ」

 青山は肩をすくめた。龍野の関心事。それは中東で製造され続けるヘロインだ。戦争が始まって以来、目立たない程度に一枚噛んで小遣い稼ぎをしているらしい。そうなれば船の警護が課題になるはずだが、龍野は組織が抱える三人の『商材』には手をつけることなく、行き来させることを考えている。誰もはっきりと言わないし、全てを知ろうとすることもない。龍野はカクテルを一口飲むと、グラスを持ったままの手で青山の方を指しながら、墨岡に言った。

「で、どこまで話してんだ?」

「自分も、今聞いたばかりですよ」

 墨岡が言ったとき、ポケットの中で携帯電話が震えた。その揺れ方で稲場からの着信だということを悟り、墨岡は言い訳をするように肩をすくめたが、結局、携帯電話をポケットから取り出すことはなかった。一連の動作の中で、青山はその横顔を盗み見た。墨岡は龍野の言葉に対して、同意も否定もしない。ただ、龍野が聞きたがることを最善のタイミングで答えることで、時間を引き延ばしているように見える。その間も給料は支払われるのだから、当然の話ではある。自分から泥沼に足を突っ込みたくはないのだろう。龍野はグラスを置くと、テーブルから少しだけ身を引いて言った。

「お前ら、外交官って知ってるか?」

「外交官? そういう仕事ですよね」

 墨岡が言うと、龍野は肩を揺すって笑った。独りよがりの間が流れた後、その会話は続くことなく、もう一度、墨岡のポケットの中で携帯電話が鳴った。墨岡が断りを入れて離席したとき、龍野は青山に言った。

「外交官ってのは、殺し屋のグループだよ。海外で戦闘経験を積んだプロだ。今後お世話になるかもしれないから、よく覚えとけ」

 青山の反応を見ることもなく、龍野はカクテルのグラスを脇にどけて、中断された話題を再度、テーブルの上に乗せた。

「今後は、ヘロインの流通を外交官にやらせる。金輪際、国内でのいざこざはなしだ」

     

 

 契約期間は来週で終わる。三年探偵ごっこをするだけで、決して倹約家ではない四人の大人が不自由なく生活できるだけの報酬を得た。松戸は、定期的に龍野へ報告してきた『納品物』をおさらいした。三年間で、ほとんどの行き先は分かった。ただ、全員が同じ場所に集まる機会だけは、結局のところなかった。

 大橋と別所はお互い猫背で向かい合って、カードゲーム。八女は簡易ベッドに転がって、天井を見上げている。この三年間、ほとんどの仕事は一般人に紛れやすい日中で、夜は基本的にこうして過ごした。総括するとしたら、壮大な有給休暇。問題は、次の仕事がまだ決まっていないということ。次の仕事というのは、この三年間よりも前にやっていた仕事、という意味でもある。つまり、また戦争状態の国に足を踏み入れる必要があるということだ。物理的には可能だろう。少なくとも、体力が失われないように全員が訓練を続けてきた。ただ、その間一発も銃を撃っていない。現場に戻ったとき、そのブランクがどのような形で現れるのか、想像もつかない。松戸は二階から他の三人を見ていたが、階段を下りて裏口から出た。外の空気を吸っている内に、無意識にポケットに手を突っ込んでマルボロを探ったが箱すらなく、ランドクルーザーのドアを開けた。サイドブレーキ後方のポケットに置きっぱなしになったマルボロの箱を掴むと、残った中から一本を抜き取った。ドアを開けっぱなしにしたまま、火を点ける。一人で考え事をするには、これが一番だ。四人で長く仕事をしてきた。八女が一番長く、七年になる。解散するにも力は必要だが、その後は力を入れずに生きていく方法を探さなければならない。

 今は夜だが、毎朝こうやって煙草を吸うついでに、オドメーターを点検していた。それも終わりを迎える。自分が死を免れているという前提で生きるのは、意外に気楽なのかもしれない。松戸はしばらくオドメーターを見つめていたが、煙草の煙が突然邪魔になったように全てを吐き出した。

 今朝確認したときより、二十二キロ多い。今日、大橋と別所はランサーで坂野の倉庫を見張っていた。自分がこのランドクルーザーを使っていないことははっきりしている。動かしたのは、八女だ。一度使った車を、一体どこに。松戸は倉庫の中へ戻ると、八女を手招きした。大橋と別所がちらりと顔を上げたが、八女が颯爽と倉庫の中を横切る姿を目で追っただけで、またカードゲームに戻った。そこには、後から入った人間だという控えめさが、常に付きまとっている。八女が外に出るなり、松戸はドアを後ろ手に閉めて、言った。

「お前、こいつを動かしたか?」

 八女はランドクルーザーの味方をするように、前に立った。猫のように尖った口元が少しだけ開き、それは笑顔に変わった。

「今朝、倉庫の前を流しました」

「お前、相手がプロなのは分かってるだろ。同じ車を二回見たら、どういう風に受け取るかも」

 松戸が言うと、その口調に含まれる焦りを馬鹿にするように、八女はゆっくりと瞬きをした。

「松戸さん、もう辞めたいんでしょう」

「不用意な行動をするな。そう言ってるだけだ。来週で終わるんだぞ」

 松戸はそう言いながら、言葉だけが独り歩きして、まるで自分の言葉でないように感じていた。昔の自分なら、決して言わなかったこと。

 七年前、路肩に乗り捨てられた車に仕掛けられた対戦車地雷。気づいたとき、まず体が動いた。ハイラックスが横転しそうな勢いで傾きながらも、自分と車体の間だけに会話が成立したように道筋が見えていた。そして、その高揚感こそが本当の報酬であり、戦争中毒の証だった。ほとんど症状のようなその性質を自ら証明するように、八女は口を開いた。

「来週で終わるのは、分かってます。私は、自分の力を試したいんです」

  

   

 龍野がタクシーで帰っていくのを見送り、青山は自分だけが聞く羽目になった『外交官』の下りを墨岡に伝えるか迷ったが、それよりも先に墨岡がほとんど酔いの醒めた顔で言った。

「稲場から連絡が来た。足を抜けって」

 そういうことについて、稲場が冗談を言うとは考えづらい。青山は目を丸くした。

「足を抜くって、引退しろってことですか」

「そう。あいつと会ってくるわ」

 墨岡が言ったとき、青山は首を横に振った。

「ちょっと、聞いてくれますか。さっき電話に出とった間に、龍野さんから聞いたんです」

 龍野が考える新たな仕事。それを青山が語る内に、墨岡の顔は少しずつ血の気を失くしていった。情報を頭で噛み砕いた後、そこに龍野と新たな外交官しか出てこないことに気づいて、墨岡は言った。

「お前は、なんで俺にそれを言うんや?」

「足を抜くんちゃうんですか?」

 青山が言うと、墨岡は首を横に振った。

「龍野さんは、お前にだけ言ったんやろ。俺がおらんタイミングを狙ったんやから。それをなんで俺にバラしたんや」

「待ってください、自分はそんなつもりでは」

 青山が誤解を解こうと手を挙げると、墨岡は身を引いた。疑い出すとキリがない仕事だからこそ、本当に疑い出したときは土台から崩れる。

「お前、中立を証明したいか? それやったら、稲場に銃を渡したいから、今から俺のとこに一挺持ってこい。夜中でも構わん。直接来いよ」

「それなら、直接渡してきますけど」

「お前が信用できんから、俺が行くんや」

 墨岡は前を向いたまま、言葉の塊を吐き出すように言った。

「分かりました。用意します」

 青山はそう言うと、立ち去った。後ろを一度振り返ると、墨岡はまだそこに立っていた。到底、人を見送るような顔つきではない。前を向いて再び歩き出しながら、考える。実際、当たらずとも遠からず。龍野は、墨岡がいないタイミングを見計らって、こう言ったのだ。

『立つ鳥跡を濁さずだ。後腐れなく出て行くには、まず今付き合いのある全員を一か所に集める必要がある。外交官に確実な仕事をしてもらうためだ』

 青山は再度振り返ったが、ちょうど墨岡が背中を向けて歩き出したところだった。龍野の理屈。岩村たちが一旦集合して状況確認をするようなきっかけを与えなければならない。だから、こう締めくくった。

『まず外交官の一人に、稲場を殺させる』

    

 

 倉庫の中が賑やかになるのは、久しぶりだった。整理されてがらんとしていた中にはホワイトボードが出され、現像されたばかりの写真と書き込みで雑然としている。一歩引いて全体を眺めながら、佐藤が言った。

「外交官って呼ばれてるんか」

 岩村を通じて、その素性は簡単に割れた。ランサーの運転席に座る小柄な男と、助手席にかろうじて収まる大柄な男。それぞれ、大橋と別所。村岡と佐藤が出て行くときに特徴を掴み、柏原は工場までランサーを尾行した。古い型のランドクルーザーも置いてあり、柏原が撮った写真の中には、そのランドクルーザーの前で男女が言い合っている現場もあった。佐藤は、柏原が残したメモを見ながら、村岡に教えるように言った。

「この女の人が、八女。で、なんか言われてる相手が松戸で、リーダー」

 佐藤は言葉を切ると、引っ張り出した装備に視線を向けた。銃身を切り詰めたモスバーグM590と、サプレッサーが装着されたFNC。そして45口径のコルトディフェンダーとコンバットコマンダーが一挺ずつ。手持ちがなかったクレイモア対人地雷は、柏原が坂野に注文している。



 深夜二時。八女の言葉が予言だったように、龍野から電話がかかってきた。松戸は、大橋と別所が眠りから覚める速度が若干落ちていることに気づいたが、構わず言った。

「雇い主から連絡があった。こっちから行動を起こす。目標は、監視対象の無力化だ」

 八女が笑顔に変わった。殺すことには変わりないが、『無力化』という不気味な言い換えは、余計に高揚させるようだった。松戸は、大橋と別所に言った。

「二人は、ランサーで行け。弾は一発も使うな」

 それが禅問答であるように、大橋と別所は顔を見合わせた。『車を使って殺せ』という意味だということが遅れて伝わり、二人はようやく前に向き直ってうなずいた。八女が退屈そうに首を傾げた。

「私は待機ですか?」

「しばらく、おれと待機だ。状況が動いたら、二人と合流しろ」

 松戸はそう言うと、八女から視線を逸らせた。柱に縛り付けておきたいところだが、八女は関節を全て外してでも抜け出すだろうから、意味はない。どの道、稲場が一歩でも外に出たら連絡が来る。大橋と別所が動き、第一段階が終わる。蜂の巣をつついた後のことは、分からない。龍野は、逃げる気なら少なくとも一回は倉庫に集まるはずだと言った。

 それについては、異論はない。おそらく自分でも同じことをするだろう。

     

  

 留美は眠るとき、体を一旦丸める。それが入眠の合図で、うまく眠れないと腹いせのように足を伸ばして、次のサイクルが訪れるまではしばらく動かない。今日は二回目でその繰り返しが終わり、今は寝息すら聞こえないぐらい。稲場はその横顔を見ながら、思った。命からがら帰ってきたが、顔色の変化を悟られなかったのは幸運だった。一時間ほど前に帰宅したとき、留美は思わしくない結果に終わった夕食時の会話をまだ引きずっていて、ちらりと顔を上げただけだった。髪の隙間から覗く寝顔に、稲場は呟いた 。

「辞めるわ」

 今なら、責任がないから何度でも言える。問題は、お互いが起きているときだと、その短い言葉に続く現実的な方法が全く浮かばないということ。例えば、岩村にそのことを伝えたら、どうなるのだろうか。『ごくろうさん』と返ってくるのか、『生かしてはおけんな』と言われるのか。

 一番恐ろしいのは、『ごくろうさん』と言われて殺されることだ。稲場がその考えを頭に浮かべたとき、電話が鳴った。相手が墨岡であることを示す着信音を覆い隠すようにベッドから離れると、稲場は廊下で着信ボタンを押した。

「どうした」

「今、下に来てる。ちょっと話せるか」

 返事の代わりに終話ボタンを押し、稲場は上着を引っかけると、一階に降りた。墨岡は二日酔いの後に全身の血を半分抜かれたような、青い顔をしていた。

「よう」

「何時や思ってんねん」

 稲場が言うと、墨岡は青白い顔で少しだけ笑った。

「午前一時半」

「アホか、分かっとるわ。逃げろって言うたやろ」

 稲場は小声で言うと、駐車場の方へ墨岡を引っ張った。ただ単に逃げろと言うだけでは、説得力がない。墨岡を逃がすためには、自分が見聞きしたり思ったことをそのまま共有しなければならない。稲場は深呼吸をすると、小声で言った。

「龍野さんが、新しいことを始めようとして裏で動いとる」

 墨岡の顔色が少しずつ変わっていくのを見て、稲場は、村岡や佐藤の懸念が事実であることを、答え合わせのように半ば強制的に理解した。

「そのことで今日、村岡と佐藤に脅された。あいつらは、お前と青山のことも疑ってるぞ。やから、逃げろって言ったんや」

 墨岡は無言でリュックサックの蓋を開くと、青山から受け取ったばかりのタウルスM85を取り出した。稲場はそれを手で押し返そうとしたが、墨岡は強引に手渡して、言った。

「急ぎで青山に用意させた。俺は自分の銃があるけど、お前はないやろ? とりあえず持っとけよ。もう今から、一緒に来られへんか?」

「何を言うてんねん、留美がおるんやぞ。夫婦なん忘れたか?」

「留美も起こせよ」

 墨岡の、焦りに食らいつかれたような口調。それ自体が珍しいことだ。稲場は眉をひそめた。

「お前が代わりに、起こしてこいや。おれは八つ裂きにされたくないわ」

「ほんまに無理か。今日だけ抜け出すとかでもいい」

 墨岡が食い下がり、稲場は宙を見上げた。

「おれは大丈夫や。お前こそマジで、しばらく身を低くしとけよ。いきなり佐藤が来て、次には頭が消し飛んでるかもしれんのやから」

「分かった」

 そう言うと、墨岡は諦めがついたように踵を返した。稲場は慌ててタウルスを上着の下に隠すと、後ろ姿を見つめた。直感と計画の狭間で生きる男、墨岡。頭の中に危険信号を埋め込みすぎておかしくなっているのは、こちらも同じだ。

 部屋に戻り、タウルスを上着のポケットに入れたまま、ベッドの前にそろりと近づいた。留美は起きていて、涙で光を跳ね返す大きな目が見返していた。

「辞めるの?」

 ずっと起きていたのだ。稲場は観念したようにうなずくと、喉の辺りで何年もつっかえていた一言を言った。

「辞めるわ」

 稲場は、今度こそ本当に体を丸めて眠りに落ちた留美から離れると、寝間着に着替えて、歯磨きをし、鏡に映る自分の顔を見つめた。ゴールが示されない作業を延々とやってきたような、疲れた顔。ずっと洗濯機の中で回されていたように、角が削られてぼろぼろになっているように見える。今まで、最も寛げるはずの家の中で、こんな顔をしていたのだ。

 問題は、この変化で一歩引いたのか、前へ出たのか。それが分からないということ。ただ、ソファに座って音を消したテレビをつけても、やましい気分にはならなかった。単に、仕事が遅くなって帰ってきただけの、ただの人だった。

 それを演じるように、稲場はそのまま横になり、目を閉じた。

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