3

 昼の二時、掘っ立て小屋のようなラーメン屋の駐車場で、稲場は墨岡と合流した。港湾道路を延々と歩いてようやく辿り着く僻地に建っていて、トラックドライバーでもない限り辿り着けない場所。稲場が爪楊枝をくわえたまま片手を挙げると、墨岡はまだ二日酔いで頭が痛むようで、しかめ面でうなずいた。

「おはよう、酒が抜けんな。三十歳でこれはヘコむわ」

「そろそろ自制せな」

 稲場はそう言いながら、メンマの切れ端を爪楊枝でどかせた。もたれかかっている車は、買い物用のライトエース。現行よりひとつ古い型で、飾り気のない白い車体にはあちこち錆びが浮いている。助手席には、緊張しきっている青山。その人形のようなたたずまいに、墨岡は笑った。

「背中に棒でも入ってんのか?」

「胃に入ってんちゃうか。あんまり食べよらん」

 稲場がそう言って運転席に座り、墨岡はスライドドアを開けて後部座席に乗り込んだ。

「おはようさん」

 墨岡の挨拶に跳ねるように振り返った青山は、頭を下げた。

「おはようございます」

「ほぼタメやんな? 敬語いらんで」

 墨岡が言うと、青山はそれに対しても頭を下げると、稲場と墨岡の顔を代わる代わる見ながら言った。

「しばらくは、敬語続けてもいいですか?」

「好きにせえや」

 稲場が言いながら笑い、クラッチを踏み込んでシフトレバーを動かした。坂野のところまで行って、商品を引き取る。ただそれだけの用事だ。しばらく走った辺りで、唸るエンジン音に顔をしかめた墨岡が言った。

「これ、なんかあっても飛ばせんやろ。チャリも振り切れんのちゃう」

 稲場が笑い、青山もつられて笑った。墨岡は身を少し乗り出して、青山に言った。

「あんま緊張せんでいいから。昨日、岩村さんには会ったな? あと、例の三人と。それに比べたら、俺らなんかマシやろ?」

「はい」

 青山が即答すると、稲場がからかうように笑った。

「はっきり言いよるな」

「いえ、そんな悪い意味では……」

 青山が即座に訂正すると、稲場は笑った。

「いや、分かるよ。一応真面目な話をしとくと、あれは青山くんに紹介してるんじゃないねん。あの三人に、うちらの顔を覚えさせるためなんよ」

 すでに同じことを経験している墨岡は笑ったが、青山は背中に棒が入っていることを思い出したように姿勢を正した。

「それは、なんかあったときにこっちが狙われるってことですか? あの三人に口封じをされるってことですよね」

 墨岡が、青山の座る助手席の背をなだめるように叩きながら答えた。

「急にめっちゃ喋るやんか。まあ、最悪の最悪な。交通事故みたいなもんや。例えばやけど、今時速六十キロで走ってる。タイヤが破裂したら、路肩に乗り上げるやろ。壁に当たっただけやったら笑い話やけど、たまたま電柱が生えてるとこに行ったら、俺らは三人とも死ぬ。その違いでしかない」

 青山の緊張が最大に達したとき、稲場が呟いた。

「つまり、心配してもしゃあないってことや。それより道とか覚えてくれよ。メモには残されへんから。これから行くのは、坂野さんとこ。それ以外には、吉松っていう廃車ヤードのオーナーと、車両置き場の金城駐車場とか、とにかく覚えることはようさんある」

「はい。あの、岩村さんには、長生きしたかったら質問はあまりすんなと言われました」

 青山が怖い話の持ちネタを披露するように、低い声で言った。墨岡が口笛を吹き、稲場がハンドルを握り直しながら言った。

「それは多分、死ぬ覚悟ができてから、色々聞けってことや」

「さすが翻訳機」

 墨岡が言った。稲場は、岩村の言葉の真意を汲み取ることができる、地球上でも数少ない人間の一人。稲場はハンドルを切って業務スーパーの角を曲がったとき、青山に言った。

「今の交差点の名前、言うてみ」

「総合運動公園前です」

 青山が即答すると、稲場は前を向いたまま笑顔を見せ、運転に戻った。

     

   

 十キロの道を車で往復。間に信号はなく、片道は約十五分。それを一か月繰り返すだけで、一年分の生活費を稼げる。なぜなら、走るたびにこれまでの人生全てを賭ける羽目になるから。それが戦争状態の国における、物流の実態。そういう業界に身を置いて、四年の内のほとんどを海外で過ごした。八女は、二十五歳になった自分の顔を、仮住まいとして用意された整備工場の洗面所で点検しながら、自衛隊から抜け出した二十一歳の自分との接点を見出そうとしていた。ちょうど辞める一年前から、カウンセリングや心理テストを何度も受けさせられ、その度に結果を肴にあれこれ言い合うスーツ姿の人間が、周りに増えていった。今は、その集まりが何だったのか、はっきりと理解している。何らかの『素質』を見出だされたのだ。おそらくは、普通の人間が持っているはずのものが、すっぽりと抜け落ちているというのが正しい。

 松戸とは、スーツ姿の男の仲介で『民間企業』にスカウトされてからの付き合い。寝袋に包まって昼寝をするその姿は疲れていて、表情だけが険しい。しかしその能力の高さと冷静さは、リーダーにふさわしい。八女は、入社して初めての仕事を思い出していた。配送の依頼を受け、型落ちのハイラックスを走らせていたとき、無造作に放置された車に対戦車地雷が設置されていることに気づいた松戸は、トラックが迫る対向車線をさらに跨いで路肩まで蛇行させ、爆発を回避した。タトラ製の巨大な八輪トラックとの正面衝突を避けた『ジャーナリスト』の運転能力に、疑問を持った通行人がいた可能性はある。しかし、生きるか死ぬかの世界では、そういった異例の出来事はすぐに忘れ去られる。助手席にいた八女は顔色ひとつ変えず、ドアグリップを掴み損ねて右手中指の爪を割っただけだった。その全く変化しない心拍数を松戸が確かめ、八女はお返しに松戸の胸に触れた。気まぐれで正面衝突を試みただけのように、松戸の動悸もまた落ち着いていた。

 二人の死に対する考え方は、完全に一致していた。どれだけ準備しようと、戦闘というものは存在しない。そこにあるのは、有利な方から不利な方への一方的な暴力で、作戦が立案された時点で、誰が生き残って誰が死ぬかは、ほぼ決定されている。一年後に、より柔軟な作戦を立てられるよう、東南アジアを主な活動域とする警備会社から大橋と別所を引き抜いた。火器を扱うことに関しては、二人は松戸と八女よりも経験が豊富だった。

 八女が二階から仮眠スペースを見下ろしていると、寝袋が動いて松戸が起き出した。

「起きてんのか」

 松戸は寝袋を押しのけると、体を起こして二階への階段を上がった。八女の隣に立つと、くしゃくしゃになったマルボロの箱がポケットから出てきて、松戸の方へ一本が差し出された。契約期間は三年、国内の仕事で、しかも主な内容は『諜報』だ。時差ボケを解消したところで、一般人に成りすます以外にやり方はない。暴力の応酬になるとすれば、それは相手からになるだろう。松戸はマルボロに火をつけて、煙を深々と吸い込んだ。八女はタイミングを合わせるように深呼吸すると、言った。

「三年って、すごいですよね。終わったら私、二十八なんですが」

「おれは、三十八だな」

「そりゃ、そうでしょう」

 八女が白い歯を見せて笑い、松戸は煙を吐き切った。

「ただの足し算だろ。何が違うんだ」

「私達は、探偵じゃないのに。国内では、ルールが何もかも違います」

 八女は呟くように言った。銃声というのは、海外では日常的に『戦闘』として捉えられる。しかし、国内なら大騒ぎだ。仮に撃つとしても、薬莢から弾倉まで全てを回収する必要がある。だから、ランドクルーザーの荷室には、行き場を失ったように各人の装備がすし詰めになっている状態だ。松戸のバックパックには、シグP228とMP5Kサブマシンガン。両方にサプレッサーが装着されている。大橋と別所の鞄には、MP5SD6サブマシンガン。八女は、より小型のサプレッサーが溶接された32口径のVZ61サブマシンガンを持っている。国内で活動する上で、最小限で最大の効果を発揮するための装備。しかしそれは、戦闘になった場合の話だ。今回の仕事の性質を考えれば、ただの荷物でしかない。

 八女は、松戸の横顔を見ながら、マルボロの箱を探った。松戸に煙を提供しているのが最後の一本だったということに気づき、前に向き直った。畑違いの楽な仕事。探偵ごっこ。呼び名は何でもいい。麻薬で頭がおかしくなった依頼主の気まぐれであればいい。

 三年も一般人として振舞えば、もう元には戻れなくなる。


 

二〇二二年 四月 現在

  

 青山は、自分の存在を無視するように再び歩き去った影を目で追っていたが、見えなくなったことを確認してから深呼吸した。とどめを刺すつもりはないらしい。元々は、古くなった排水工事の依頼だった。見積もりに伺いますと業者が言い、日程調整をしたのが先週の話。変更依頼のメールが来た時点で、それが業者ではない誰かだと疑っておくべきだった。この話がどうにかして誰かに伝わっていたに違いない。今日見積もりに現れたのは営業車としてよく使われる白のカローラハイブリッドで、その点も違和感はなかった。だから、降りてきた女が握手を求めて手を差し出すまで、その目をまっすぐ見なかった。遠い昔に散々見たはずなのに、日常生活を送る中ですっかり忘れていた。この手の仕事をする人間は、生きている者同士として会話をしない。相手が死んだ後の姿を見通している。撃たれたことで強制的に頭が切り替わり、捨てたはずの記憶が蘇っていた。

 息を殺しながら立ち上がると、青山はルガーSP101を保管している棚の方向へ目を向けた。ちょうど影が消えた方向とは逆方向にある。一日のほとんどを過ごす部屋に置かれた棚の、上から二番目。いざというときにすぐ手に取れるよう場所を吟味したつもりだったが、それは玄関で撃たれる予定がなかったからだ。

 足を洗うなら初めから距離を置いていればよかったのだが、なんとなく内容を理解してながら知らない振りをしてやっていた麻薬の運び屋から、契約殺人を扱う組織の手足となったのは、アメリカと中東の間で戦争が始まった年だった。よく覚えているのは、麻薬産業が引っ掻き回されることになると、龍野がしきりに話していたから。人生を一変させた人間関係。良く出入りするクラブで墨岡に声を掛けられたところからスタートし、まず同年代の稲場に紹介された。次に龍野と岩村。少しずつ危ない人間に顔を通され、最後に龍野と岩村が取り扱う三人の『商材』に会った。それが村岡と柏原、そして佐藤。稲場はヤボ用で動けず、『一人で行け』とあしらうように言った。顔合わせをしたのは、ただでさえ真っ暗な港の、さらに光が入らない奥の一角だった。

 青山は十分前まで腰を下ろしていた座布団をやりすごして、棚の二番目を静かに開いた。息を完全に吸い込んで吐くことはできないが、戦うことはできる。ハンカチで半分隠れたルガーSP101のグリップを掴んだとき、足音が近くで鳴り、青山は静かに棚を閉じるとベルトの後ろ側にルガーを挟み込んだ。記憶が蘇るというよりは、入れ替わっていくような感覚。元に戻ったとも言える。命を落とすという選択肢が日常の一部になっていた、若い頃の自分。息が続かなくなり、青山は元の壁まで戻ると、腰を下ろした。全身に棘がついたギブスをはめられたように窮屈で痛いことには変わりないが、腰の真後ろに差したリボルバーのごつごつした金属感は、全身に染み渡る鎮痛剤のような役割を果たし始めている。不便で不格好な上に、撃つと耳が潰れそうになるぐらいにうるさい代物だが、どこかでその不便さは、安心感に変わる。

「おい! 何を探してる」

 青山は、腹に力を入れて言葉を発した。新たな仕事を始めて一年ぐらいは、平穏に過ぎた。龍野が吸い込む『処方薬』の量は少しずつ増えていたが、まだ正気だったように思える。事前の偵察や買い出しといった雑用は続いていて、この年に確か、稲場と藤谷が結婚した。岩村によく飲みに連れてもらっていて、色々とアドバイスをもらっていたようだが、それを墨岡や自分と共有することはなかった。

 相変わらず龍野は連絡がつかないことが多かったし、火種はどこかで静かにくすぶっていたが、良く見えなかった導火線に火花が突然上がったのは、そこからさらに数年が経ったときだった。

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