◇8 悪魔との縁(えにし)──トキは悪魔になど変貌しない!

【13日目】1975年(昭和50年)12月15日月曜日


 コウスケはお気に入りの曲の中から『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を選曲すると、頭の中で回転するレコードに針を載せ、スピーカー代わりに鼻で演奏する。

 歌いながら仕事をすると、労働意欲も高揚し、何となくはかどるような気がする。時間感覚が短くなっただけで、進捗状況に変化はないのかもしれない。が……、

 ──それでもいいじゃないか。

 ──誰にもとがめられる心配もないし、気分よく仕事するのが一番さ。

 と後輩どもの手前、うそぶいてみる。

 洗車の手を突然休め、後ろを振り向いた。

 ──誰もいない。

 辺りを見渡しても悪魔の姿はどこにも見当たらない。一旦はホッとした。だが、油断はできぬ。いつ何時、あの触手で餌食にされるか分かったもんじゃない。たえず神経を尖らせておかなくては、ビバーク緊急避難は無理だ。婆さんから学んだ不変の真理である。

 だが、今は一安心だ。気配はどこにもない。何度も後ろを確認し続ければいい。一つひとつの行動のあとに必ず後ろを確認し、「よし!」と声を上げるのだった。

 もう一度確認する。

「よし! 大丈夫だ」

 仕事を続行する。鼻歌交じりで手を動かした。

 ──なんだ、野良犬か?

 ──待ってろ、こいつを片づけたら遊んでやるぞ。

 犬に向かって心の中で呟いた。背にすり寄ってくる犬が甘えた声を出す。

 時計を覗いてみる。最後に確認を終えて、まだ20秒しか経っていない。

 ──大丈夫だ。

 ゆっくりと犬の方へ首を回した。

「うっ!」

 婆さんが、コックリと居眠りしている。しゃがんで膝を抱え、水飲み鳥の玩具みたいに。

 コウスケは一度天を仰ぐと溜息をつき、婆さんの肩を揺すった。何度か繰り返したらようやく目を開けた。寝ぼけ眼で腑抜け面だ。

「どこだ?」

「おい、ババア。どの面下げてきやがった!」

「あれっ、最初の時とおんなじだ。リセットかや! また一からやり直すのか?」

 寝ぼけ妖怪は目を丸くしてこっちを見上げる。

「いい加減にしろよ!」

「おめえ、さっき夢ん中で、鏡張りの部屋にいたよな?」

「夢だと! 邪魔しやがって、エロババア!」

「夢と違うのか? そうか……」

「バカにしやがって……なんであんなとこにいた!」

「おめえ、真っ裸でなにしてたんだ?」

「う、うるせえ!」

 婆さんは伸びをしながら欠伸をした。しばらく顔を叩いたり目をこすったりしていたが、ようやく目覚めたようだ。突然ニタニタ笑い出す。

「ああ、そういうことか……へへえ、おめえ、しぼんでたもんな、こんな風によお……」

 婆さんは体の力を抜いて、ヘナヘナとお辞儀をする。

「て、てめえ! なんてこと……」

 コウスケの語尾もしぼんでしまった。 

「おめえ、ダメだったろ?」

「ほっとけ!」

「オラのせいだったんだなあ」

 婆さんは腕を組んでしみじみと感慨深い表情をする。「悪かったなあ」

「あ、謝られても……」

 突然ばつが悪くなってソッポを向く。

「ま、気にすんな。人生は長えんだ。大事に仕舞っとけ」

「ん、なにを……しまうんだ?」

「ほれ、決まってんだろう」

 バアさんはいきなりコウスケの股間に手を伸ばしギュッと握り締めた。「ウッシッシッ!」

 コウスケは低く呻き声を上げる。腰を引いて魔手を払い除けると膝を合わせ防御した。

「な、なんてことする!」

「お大事にな。ちゃんとお手入れしときな」

「ど、どう手入れするの?」

「オラ、女だもの、分かるわけねえよ。自分で考えな」

「油断も隙もねえ、全く、なに考えて生きてる。邪魔ばっかしやがって!」

 舌打ちして婆さんを睨む。

「邪魔はしねえよ。ま、二年後だな」

「なんのことだ?」

「結ばれるまでの時間よ、おめえとオラがよ……」

「バカヤロー! なんでてめえと……怖ろしい夢見てんじゃねえ!」

「あの娘とだ。それぐれえ、察してやらねえか、トンマ!」

 コウスケは黙ってしばらく睨み続けた。

「なにが二年後だ、バアさんになにが分かる!」

「なあ、おめえ、今までオラの予言外れたか?」

 いっとき考えてみた。確かに外れたことはないような気がする。が……、

 ──なーんか予言してたっけか?

  腕組みをして首を傾げながら婆さんの顔を上目遣いに訝しげに覗き込んだ。

「なんで……当たるんだ? 予言者みてえに……」

「オラ、おめえの全てを見通せるのさ」

「な、なんで?」

「なしてかなあ? そう生まれついたのさ」

 コウスケは全然納得はしていない。が、それでも訊いてみた。

「どうして二年なんだ?」

「おめえ、近えうちに、ぎっくり腰になる」

「まだ19だぞ、年寄りじゃあるめえし……」

「歳なんぞ関係ねえ。なぜかおめえは若えうちに年寄りの病気になるんだ。だがよ、42になったらピタッと止まるんだ。不思議なヤツだなあ……」

「どんな病気だ?」

「始まりはぎっくり腰だ。イボ痔、切れ痔、脱肛、痔ろう。おめえはケツの周りに気をつけな」

「ふんっ、それだけか?」

「インキンタムシ」

「そんなもん誰でもなるだろうが」

「そんな生易しいもんじゃねえ。おめえのはしつこいというか、頑固すぎんだ。なん年もなん年も痒がってたもんな……オラ、死ぬんじゃねえかと思ってよ。それから……」

「まだあるのか!」

 コウスケは苛立った。

「石ころに悩まされるんだ」

「石ころ? またぶつけられるのか? 勘弁してくれ、あれ本当に痛えんだぞ」

「結石よ結石。胆石、腎臓結石。のた打ち回ってたなあ……痛えっつうもんじゃねえらしいな。オラ、かかったことねえけど、あれ見てたらブルッちまう。気絶するヤツもいるそうだ」

「へえ、そんなに痛えのか?」

「そうらしいぞ。今から覚悟しとけ。仕舞いにはよ……」

「病気のオンパレードだな、まったく。ハハハ……」

 婆さんのたわ言につき合いながら呆れて笑った。

「おめえの話なんだぞ。ウソじゃねえよ。そんな涼しい顔してられんのは今のうちだけだ。もうすぐおめえには地獄の苦しみが待ってんだからよ」

「フンッ、仕舞いにはなんだ? 言ってみろ!」

「おう、そうだそうだ忘れるとこだった。尿路結石よ。おめえ想像してみろ」

 そう言われて想像しようとしたが、見たことも聞いたこともない病気など分かるわけがなかった。

「うーん……できねえ。やっぱ、痛えのか?」

「当たりめえだ。便器にコロンよ。こんぐれえの塊がおめえのそこの先っぽから出るんだぞ。それぐれえ想像できるだろうが……」

「へえ、怖えな」

「まったく、他人事ひとごとみてえに。ま、今に分かる。42までの辛抱だ。しかし、おめえの病気は見事に下の方に集中してんだなあ……」

 婆さんはコウスケの股間を指差して大声で笑う。

「よくもそんな作り話を……呆れるやら、感心するやら、年寄りのくせに想像力豊かすぎるぜ」

「作り話と思ってろ。『助けて~!』なんて弱音吐いても、こればっかしはどうしようもなんねえしな。代わってやれねえから自分でなんとか切り抜けろ」

 コウスケはぶ然とした。

 ──誰が信じるか、この干からび酢ダコババア!

 と心の中で婆さんを罵ってやった。だが、当然口に出す勇気はない。それがどうにももどかしい。婆さんに向かって思いつくだけの罵声を浴びせてやったらどれだけすっきりするだろう。そんな妄想の果てに、何とか心を静めて平静を装った。

「なんか用か?」

「ハテ?」

 婆さんはこちらから視線を外して、しばらく天を仰いでから欠伸をした。「なんもねえよ。オラと遊ぶか?」

「誰が!」

 婆さんの様子をうかがう。「疲れてるみてえだな?」

「やっぱ、連続で飛ぶと疲れんのかなあ……」

「縄跳びでもしてきたのか?」

「縄跳び? とんでもねえ」

「じゃあ、どこを飛んだんだ?」

「どこ飛んだんだろうな? オラにもトンと……」

「なんだ……ああそうか、夢の話か。エスエフ小説貸してたもんな」

「エスエム? ああ、ラベンダーのヤツか……」

「カゴノさん、電話よ~ん」

 アルバイトの女子大生が事務所のドアから顔を出して声をかけてきた。

「ああ、すぐに行きまーす」

 愛想よく答えると、婆さんには最早目もくれず事務所へ駆け出した。

 事務所に入ると社長と目が合った。社長は渋い表情で睨みを利かす。とりあえず愛想笑いで誤魔化す。

 電話はトキからだった。今日仕事は昼から休みで、それならばとコウスケはデートの約束をして一時に待ち合わせることになった。電話を切ると、もう一度社長に愛想笑いを送りそそくさと外へ出た。

「バアさんまだいたのか。あのよ、オレ忙しいんだ……年寄りの相手してられねえの。分かるか?」

 ここぞとばかりに口元に皮肉な笑みを浮かべた。「バアさん、ヒマでいいよなあ……」

「そうだな、おめえは働け。オラ、一人で用事済ませてくっから」

「なんの用だ? なにもねえって、今言ったろう」

「たった今思いついたんだ。オラ、行くとこできた」

「どこへ?」

「もいっぺん、お春の兄貴に会ってくる」

「なんで?」

「ま、なんでもええでねえか。おめえには係わり合いのねえこった。また、ナナハン借りるぞ、キーよこしな」

 コウスケは舌打ちしながらツナギのポケットに指を忍ばせて手を止めた。

「ちょ、ちょっと待て。タクシーで行け。呼んでやるから」

「もったいねえ、ピーピーのくせに。貯金しとけ」

「誰がオレが払うと言った? タクシー代ぐれえ、てめえで払えってんだ!」

「んっ? んっ?」

 婆さんは両手を広げ肩を竦める。そして誇らしげに胸を張る。「オラ、文無しよ」

「威張ることか! くすねた金どうした?」

「泥棒呼ばわりする気か! とっくの昔にねえ」

「分かったよ、出すよ。まったく……」

「単車貸せや」

「困るんだ、今日は……」

「なしてだ?」

「トキちゃんと約束してんだ、後ろ乗っけてやるって。へへへ……」

「ハテ? オラ、そんな約束したっけか?」

「バアさんじゃねえっつうの!」

「ああ、そうか。今日、デートすんのか?」

「まあな……」

「なん回目だ?」

「三回目」

「三回目……今日はなん月なん日なん曜日だ?」

「12月15日月曜日」

「昭和50年……だよな?」

「そうだよ。ボケたか?」

 思わず口を衝いて出た。

「おめえ……」

 婆さんは凄まじい形相でこっちを睨みつける。コウスケは両手をスクランブル発進させ防衛態勢を敷く。

「わ、悪かった、やめろ!」

「おめえ、単車にまたがるんでねえ! ええか、命が惜しくば言うこと聞け!」

「お、脅かすな! なんでオレが死ぬ? 冗談言うな」

「さっきの電話、あの娘からだ。おめえ、今日隣町の遊園地に行くつもりだろうが。一時に待ち合わせだ。場所はサンクチュアリの駐車場」

「なんで分かった? そうか! さては、今の電話、盗み聞きしたんだろう? もう、そんな手には乗らねえ」

「オラ、ずっとここにいたよな。おめえ、オラの方見てたじゃねえか」

 コウスケはしばし頭を巡らせ悩んだが、合点すると勝ち誇って腰に手を当て、依然しゃがみ込む婆さんを見下ろした。

「事前にトキちゃんから聞いたんだな、図星だ」

「遊園地に誘ったのは誰だ? 待ち合わせ場所も、時間も指示したのは、だーれだ?」

「オレだ! それがどうした……」

 コウスケは目を瞬き始める。「あれっ……?」

「な? ここまでおめえの声、届くと思うか? いんや、届かねえ」

「そ、そんなこと……」

 婆さんをやり込める手立てを探った。突然閃いた。「あっ、読心術だ! さてはオレの唇読んだな?」

 二人は一瞬見つめ合ったままピタリと動きを止めた。が、やがて婆さんはニヤけ出す。

「事務所には、誰がいた? さっきの女子大生と……」

「社長だ。それがなんだ!」

「さっきの電話は私用だな。社長ときたら、おめえ達のヒソヒソ話を聞き耳立ててたんじゃねえのかい?」

「それが?」

「おめえはどう対処した? 左手で受話器握ってよ、右手はブラブラお留守だったか? ここでもう一遍再現してみな」

 舌打ちすると、仕方なく婆さんの言う通りに受話器を握る振りをして、さっきの行為を振り返った。

 ──右手、右手……

 ──右手は……口元?

 右手で送話口と口元を覆って声が極力漏れないようにしていたことに気づいた。

「へへへ……」

「へへへ……どうだ?」

「まいった!」

 コウスケはうな垂れて婆さんを見た。「なんで分かるんだ?」

「おめえ学習能力ゼロだな。今夜にでもおさらいするこった。復習は大事だ」

「怖えババアだ……」

「とにかく今日だけは単車には乗るんでねえ、ええな!」

 婆さんは手を差し出した。「ほんじゃ、キーよこせ」

「ちぇっ、分かったよ、貸しゃあいいんだろう」

 渋々差し出したキーをトンビの早業で引っさらうと、メジロ石油裏手の空地に停めておいた愛車の方へ、婆さんは歩いて行った。

 その後姿を見つめながら、あのババアとどういうえにしでつながっているのか不思議でならない。

 ──女って、年取ったら皆あんな風になるのか?

 ──トキは別だ!

 ──まさか、あんなおしとやかな娘が……

 ──よりによってあのババアみたいになるなんて……

 ──あり得ねえ!

 ──天地がひっくり返っても、ねえ!

 ──断言できる!

 コウスケは安堵すると仕事を続けた。

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