◆5 朱鷺の天敵──逃げろ!

【11日目】1975年(昭和50年)12月1日月曜日


 今、コウスケは便所で格闘中だ。

 朱鷺は膝を立て窓枠に両肘をついて空を見上げた。

 ──ええ天気だ。

 窓を開け、思い切り深呼吸をする。

 ──空気がうめえ!

 不意に背後でコウスケが咳払いをした。

「なんだ、風邪でも引いたか?」

「覚えてねえこたねえじゃねえか、ねえはずはねえじゃねえか!」

「ややっこしい物言いすんじゃねえや!」

 振り向くと、コウスケはすぐ後ろに立って、腕組みをして訝しげにこちらをうかがってくる。

「白状しな!」

「オラ、眠ってたんだもの、団子なんぞ記憶にございません」

「信じねえ、今度ばっかしはよ……」

 コウスケは疑惑の目を向ける。

「なあ、疑わしきは罰せずだ」

「疑ってんじゃ、ねえ! 証拠は挙がってんだよ!」

「仮によ、オラがやったとしても、無意識のことだ。責任能力は問えねえよ」

「いいや、故意にやったな、吐け!」

「カツ丼は出ねえのか?」

「なんで?」

「取調べの定番だろうが?」

「そうなのか?」

「おめえ、テレビの刑事もん見たことねえのか?」

「もう、なん年もテレビねえし……白黒テレビ壊れて……高えしなあ、カラーは……買えねえ」

「ナナハンは買ったでねえか」

「あれは別よ、オレの命だ!」

「ふんっ、下手クソなくせに……悔しかったらオラに勝ってみろ!」

 コウスケは舌打ちするだけで言い返せない。朱鷺の言ったことが図星だからだ。平静を装ってはいるが内心悔しくてたまらないはずだ。目玉が激しく上下左右に動いて視点が定まらない。

 ──分かりやすいヤツだ……

 朱鷺は笑った。

「オレ、なんの話してたっけ?」

 コウスケが天を仰いで呆けた顔を見せた時、誰かが玄関のドアを叩いた。

「カゴノさん、ちょっと……」

「はーい」

 コウスケにしては素早い動作で玄関へ移動すると、ドアを開けた。「おはようございます」

「おはよう。あれっ?」

 朱鷺に気づいた須藤夫人が、愛想のいい笑顔で一礼する。「おはようございます」

「また電話? すまないね、おばさん……」

「あんたのお婆様かい?」

「違う違う、ちょっとした知り合いさ。赤の他人」

「そうかい。あのね、お迎えはいいってさ。それだけ伝えてくれって、さっき電話があってね……ごめんよ遅れちゃって、バタバタしてて忘れてたよ。10時頃着くってさ」

「そう、ありがとな、いつもいつも迷惑かけっぱなしでさ」

「気にすることはないんだよ。団子どうだった?」

「あ、ああ……」

「ご馳走さんでした。大変おいしゅう頂きました。いつも、うちのコレがお世話になりまして、まことにありがとう存じます」

 コウスケが言いよどんだ隙を衝いて、すかさず背後まで移動すると、朱鷺は畳に手をついて深々と頭を下げた。

「いいえ、とんでもないです。つまらないもので申しわけございません」

 須藤夫人も朱鷺の礼に応えると、コウスケに耳打ちする。「やっぱり親戚の方かい?」

「違う違う、そんな上等なもんじゃねえよ……」

 朱鷺は目でコノヤローと叫んだ。

「そう。じゃあ、伝えたよ」

 須藤夫人は朱鷺に顔を向けた。「それじゃあ、失礼致しますです」

 須藤夫人が立ち去ろうとしたところを朱鷺が呼び止め、皿の上に栗饅頭を三つ載せ、差し出す。

「本当にご馳走さまでした」

「あれま、ご丁寧に。まあ、お気遣いなく。それじゃあ、ありがたく頂戴致しますです」

 夫人は遠慮がちに受け取ると、深々と頭を下げた。

「今後ともコレをよろしくお願い申し上げます」

 朱鷺も頭を下げる。

「あっ、はい。こちらこそです」

 須藤夫人も慌て気味に一層深々と頭を下げると、恐縮しながら帰って行った。

「おい、どっから持ってきた?」

 コウスケは振り向き様尋ねた。

「ポケットの中にあったんだ……」

「かっぱらったのか? 犯罪だぞ!」

「藤野商店でちゃんと買ったのよ。オラがそんな真似するとでも……」

 朱鷺は凄んだ。「本気で思ってんじゃねえよな!」

「そ、そんならいいんだ。ご、ごめん」

「分かりゃええ、二度と言うな。でねえと……」

 拳をチラつかせると、コウスケは頭を隠した。条件反射になっているらしい。

「油断も隙もあったもんじゃねえぜ」

 頭を覆った両手を静かに下ろす。

「なんの電話だ? ゆうべから度々だな」

「もう着く頃だな……」

 目覚ましを確認しながらコウスケは独りごちる。

「なにが着くんだ?」

 朱鷺も目覚ましを覗く。10時5分前だった。

「お袋」

 コウスケは目覚ましと睨めっこをする。

「誰の?」

「オレの」

 睨めっこを続けながらボソッと呟いた。視線は目覚まし時計から決して外そうとはしない。

「へえ……」

 朱鷺はしばらく考え続けた。

 ──母親がくるのか。

 ──コイツにも母親がいた。

 ──当然だ。

 ──どんな母親だろうか?

 首を捻る。

 ──コイツの母親というと……

 ──オラと……どういう関係になるんだっけか?

 ──ハテ?

 天井を見上げたまま朱鷺は固まった。

「逃げろ!」

 朱鷺の野生的本能が命令した。と、足が勝手に狭い部屋の中を縦横無尽に駆け巡り出す。

 ──姑のテン子が……くる!

 ──くるくるくる!!!

 籠野テン子。朱鷺の唯一の天敵である。

 ──逃げなくては!

 ──しかし、もう時間はない!

 無情にも目覚ましは正確に時を刻む。昨日、角のタバコ屋の赤電話で時報を聞きながら合わせたばかりだ。

 ──あと1分を切った!

 テン子は時間に正確だ。10時に着くと言えば、必ず10時かっきりにここに現れる。

「あと30秒……」

 コウスケがカウントダウンを開始した。当然母親の性格は承知だ。

 朱鷺は室内を走り回った。便所の扉を開けて閉める。風呂場に隠れようか思案した。が、やめたほうが無難だ。息子の生活をこと細かくチェックするからだ。

 ──どこにも身を隠す場所はねえやい!

 やっと悟って両の拳に力を込め、気合を入れると腹を括った。部屋の中央に正座して、背筋をピンと伸ばした。固唾を呑んで玄関のドアが開くのを待つ。

「あとなん秒だ!」

 息も絶え絶えに喘ぐ。

「10、9、8、7、6、5、4、……」

 コウスケは小声で刑の執行の時を宣告する。「サン、ニィ、イチ、ハイッ!」

 トントンとドアを叩く音が朱鷺の耳をつんざく。咄嗟に両耳を掌で塞ぎ、ドアを睨みつける。

 コウスケはドアを開けた。

 朱鷺は猫のように背を丸めた。両手を宙に浮かせ、獲物を鷲づかみに仕留めてやるぞ、と威嚇しながらも無意識のうちに防御の陣を敷いた。

 ──さあ、どっからでもかかってこい! 

 自身を鼓舞しながら心の中で叫んだ。

 ドアが開いて、朱鷺の目がテン子の顔を正面に捉えた。視線同士がぶつかった。

「ウウッ!」

 朱鷺は思わず唸り声を上げた。

「ギャーッ!」

 テン子は玄関から一歩中へ踏み込んだが、引きつった顔で一目散に逃げ出した。

「よお、バアさん、なに怖い顔してんだ? お袋、驚いて逃げちまったぜ」

 こっちをうかがっていたコウスケはゲラゲラ笑い出すと、そのままテン子を追って出て行った。

 しばらくして、コウスケはテン子を抱きかかえるように戻ってきた。

 朱鷺は背筋を伸ばし、「どうぞ」と一声かけてテン子を迎え入れた。ぎこちなく三つ指をついて、額を畳にすりつける。

「あのう……どなた様でしょうか?」

 怯えた声で姑が尋ねる。

「はあ、オラ……じゃねえ、あた、あた、あたしゃ、そのう……」

 ──まさか、息子嫁とは言えねえ……

 どうしたものか考えあぐねていたら、コウスケが助け舟を出してくれた。

「お袋、知り合いなんだ」

「ご近所の……方?」

「ん、ま、そう言うこと」

 コウスケはあやふやに返答をぼかす。

「バアさん、オレのお袋」

「はじめまして、コウスケの母でございます」

 テン子は畳に膝をつくと頭を下げた。

「はあ、申し遅れまして……コウスケさんの」

 朱鷺は身を強張らせ今一度三つ指をつく。「妻でございます」

「ええっ!」

 テン子は驚いた拍子に右手の甲を口に当て、のけ反った。身は斜め左方になびいて正座は崩れた。着物の裾がはだけて、足袋を履いた大根が覗く。辛うじて倒れないように咄嗟に左手を畳について固まった。

 言うまいと気を遣いすぎると却って口を滑らせてしまうものだ。朱鷺は後悔したが、

 ──まあ事実だし……

 と開き直る。

「お袋、冗談さ。このバアさん、おかしいんだから……」

 朱鷺はぎこちなく畳に手をつこうか、つくまいか迷って、また三つ指をつき、頭を下げる。

「こちらさんにはお世話になって、こんな年寄りにまで親切にしてもろうて……」

「そ、そう……でしたか、私はてっきり……」

 テン子はフーッと溜息を漏らした。「この子なら、それもあり得るかと……驚きました」

「年寄りでもええのかい?」 

 熱い眼差しでコウスケに顔を向け、同意を求めてみる。と、首を激しく横に振りながら拒否された。

「お袋も冗談言ってねえで、こっちきな」

「冗談なんかじゃ……本気でそう思ったの!」

 テン子はちゃぶ台の前に移動して、窓を背にして座るコウスケの正面に座した。

 朱鷺は改めてテン子を見た。地味な訪問着で、頭には朱鷺と同じく団子をこさえているが、髪はまだ黒々と艶やかだ。当然だが朱鷺よりも若く見える。この時、まだ40の坂をようやく下り始めたばかりだった。滅多に化粧などしない人だったが、今日は念入りに塗りたくっていた。

 なるべく面と向かわないようテン子の斜め後方に朱鷺は正座した。苦々しく後姿を見つめる。

「コウスケ、こちらさんとは、どういう……?」

「どうって……どう言えばいいかなあ、なあ、バアさんよ」

「はあ、あたしが困っているとこを助けてもろうて、そのお返しに、なにかとお世話を焼かせてもろうとるんです」

「そうですか。それはそれは、息子がお世話になりまして、ありがとうございます」

 テン子は朱鷺の方に向き直り、深々と頭を下げた。

 ──ナニ神妙な顔で、白々しい!

 ──最初から嫌ってたくせに!

 とはらわたも煮え繰り返したが、頭を下げられて悪い気はしなかった。

「オレ、昨日知らせたんだ。お袋から電話かかってきた時」

「なにをだい?」

 目を瞬きながらコウスケを見て、次にテン子を見た。

「好きな娘できた……ってな」

「それで?」

 嫌な予感が朱鷺の頭をよぎった。

「会いたいってさ。今からサンクチュアリに案内しようと思って……」

 ──まさか、今日があの日か!

「今日はなん日だろう……?」

「12月1日でございます」

 恐る恐る放ったコウスケへの問い掛けを、テン子が横からかっさらう。獲物を襲う速さは、さすが朱鷺の天敵だけのことはある。

 ──そうだ、忘れもしねえ!

 ──姑、テン子との初顔合わせだ!

 テン子は朱鷺の粗探しにのこのこ出向いてきたのだ。はらわたから沸々と込み上げてくる怒りを必死に静めた。嫁姑のよくある光景が自ずと頭に浮かぶと、気持ちがえそうになる。

「バアさん、どうかしたのか?」

 コウスケがすぐに顔色を見て取ったらしい。

「あ、いや、そうですか、12月1日でしたね……」

 朱鷺は取り繕って、誰にともなく返答した。

「どんな娘さんかこの目で確かめたいと思いまして、のこのこ田舎から出てきたんでございますのよ。親バカと申しましょうか、母一人子一人なもので……」

 テン子は嫌にかしこまっている。「その娘さんですが、ご存知でしょうか?」

「はっ……はい……まあ……よーく存じております」

「そうでございますの! どういう娘さんですの?」

「オ、オラ。もとい、あたしの口からは……ちょっと。息子さんにお聞きになった方が……」

「いいえ、第三者の方が的確ですから」

「そ、そうですか。で、では、申しますが……」

 朱鷺は背筋を伸ばし、襟を正す。「気立てはいいし、可愛いし、美しく素直で優しいし、とても思いやりのある娘でございます。申し分ないかと……」

「そうですの。そんなにいいお嬢さんですの!」

「そりゃあ、非の打ち所なんて、ありません!」

 朱鷺はトキを褒めちぎった。

「早くお会いしてみたいですわ」

 テン子は目を輝かせる。

 ──結局、嫌味なことしか……言わなかったし、しなかったくせに!

 テン子を見据えながら、早く目の前から消え去ってくれることを切に祈った。

「お会いすれば、どんなにええ娘さんか分かります。ですが、恥ずかしがりやなもんで……」

「そうですの? 私もそうなんですのよ。気が合いそうだわ」

「はあ……」

「そうですわ、是非ご同席してくださいましな」

「えっ、ええっ!」 

 朱鷺は目を引ん剥いた。「い、いえ、あたしゃ……」

「いいじゃねえか、バアさんがくっつけたんだし」

「そうなのかい?」

「このババアが強引によ……」

「まあ、失礼じゃないか! そんな口の利き方。すみません、礼儀知らずで」

 テン子は申しわけなさそうな表情で詫びを入れた。「是非、ご一緒に……」

 朱鷺は躊躇したが、

 ──こうなったらまな板の鯉だ!

 と開き直る。

「分かりました」

 とうとう承諾してしまった。


   *


 昼になるのを待って、三人連れ立ってサンクチュアリを目指した。

 途中メジロ石油の前でコウスケが用事があると告げ、その場を離れると、テン子と二人きりで歩く羽目になった。仕方なく姑から三歩下がってつき従う。しばらくして、テン子がサンクチュアリの所在を確認してきたので、あれがトキが勤めるレストランだ、と朱鷺が指差すと、テン子はそわそわして無口になった。

 サンクチュアリに入ると、いつもの席にテン子を案内する。窓際に促したが、こっちがよく店内が見通せるから、と通路側にテン子は陣取った。そうですか、とテン子の正面に座りかけたが、わざわざ窓際まで移動すると並んで座った。どうしても姑と面と向かうことは避けたかった。

 ──とんでもねえことになってしまった。

 ──今更、姑と連れ立って、なしててめえの粗探しにつき合わにゃならんのだ!

 はがゆい思いを堪えて、朱鷺は窓枠に右肘をついて外に目を向けた。

「どの娘さんですの?」

 テン子が尋ねたので仕方なく店内を見渡し、トキを捜す。

「あの娘ですよ」

 トキを見つけて指差してやると、そちらに視線を延ばしたテン子は目を泳がせる。

「髪の長い太めのかしら?」

「奥の窓際のテーブルの前の……」

 テン子は首を伸ばしてじっと見つめた。

「ああ、今振り返って戻って行く娘かしら?」

 そう言ってテン子がこちらに顔を向けると、無言で頷いてやる。

 テン子の目はただ一点を凝視する。まるで獲物を射程圏内に捉えた獣同然に、トキが移動する度に、決して逃すまじ、とでも言わん迫力で目は獲物を追いかける。

 ──こうなっては所詮袋の鼠だ!

 朱鷺は覚悟を決め、天敵の襲撃に備えた。

 ──どんな悪口がテン子の口から吐き出されても動揺せぬ!

 と腹を括った。

 テン子の表情を横目でうかがう。

 テン子の唇がかすかに動き出した。

 ──ほらきた。

『ブスね!』

 ──容姿についてか?

『根性悪そうだわ!』

 なんて言葉を心のグローブでキャッチしようと身構えた。

 テン子は一つ息を吐き出した。こっちを向いて、そして……

 ──なんでもこい!

 すかさずテン子から視線を逸らして身構える。

「なんて、感じの……」

『悪い娘』

 ──ってか?

 ──おめえの目は節穴か!

「……いい娘さんなんでしょう。とても可愛らしいわ。私の方が一目惚れしちゃいましたわ」

「えっ、ええっ!」 

 朱鷺は息を呑んだ。目を引ん剥いてテン子を見る。

 ──そんなバカな!

「今、なんと……?」

「お婆様のおっしゃる通りの娘さんだわ! 清楚で清潔感に溢れてて……コウスケも中々見る目がありますわ。やるわね、うちの子も!」

 テン子は半分叫ぶように言った。「そう思いません?」

 テン子の顔を見つめたまま、朱鷺はどうしても声が出せなくなった。そのまま身を強張らせていると、しつこく目で同意を求めてくる。朱鷺には首をちょこんと縦に折るのが精一杯だった。

 テン子は胸に手を置いて深呼吸を始めた。

「ど、どうしました?」

「私、緊張して、体が震えてまいりました」

 見ると確かに、小刻みに全身が震えていた。唇も微かに震え出す。

「あ、あのう、お母様。そんなに、そのう、あの娘のことを……?」

 恐る恐る尋ねた。

「とっても!」

 間髪入れず、テン子は振り向き様に満面の笑みを湛えた。

 己の頭は熱せられたチーズ状態だ。とろけそうになる。混乱して気が遠くなりそうだ。

 ──冷静になれ!

 と言い聞かせながら首を捻って考える。もう一度テン子を見る。

 ──そんなはずはねえ!

 ──あの日、あの時、冷てえ態度だったじゃねえか、あんたは!

 ──ナニかが狂ってしまったのか?

 ──時空のナンとやらがナニしたのか?

 朱鷺の頭では到底理解不能だ。

 顔を両手で激しくこすったあと、膝をポンと叩いて、

「よし!」

 と気合を入れた。

 ──こうなったら、見届けるしかなさそうだ。

 腹を括り、事の顛末を静観しようと決めた。そう思えば少しは気も楽になるというものだ。朱鷺はトキの行動をつぶさに見守る。

 トキは銀盆にコップを載せ、こちらに向かってくる。と、テン子の前にコップを置いて注文を聞いた。

 テン子は前方を真っすぐ見ながら、「ライスカレー」とだけ告げた。トキの顔は一度も見なかった。テン子の顔は明らかに強張っている。トキには怖い顔に見えたはずだ。

 トキは、「かしこまりました」と頭を下げると笑顔で戻って行った。

 トキが去ると同時にテン子の表情が緩む。コップに手を伸ばすと一息に飲み干し溜息をつく。テーブルを見て、朱鷺を見た。

「どうしてお婆様には持ってこなかったのかしら?」

「向こうからは……」

 こっちは見えません。無意識のうちにそう言うところだった。「事前に断っておきましたもので……」

「ああ、そうだったんですの」

 テン子は納得した。「私、ドキドキして……どうでしたか?」

「どう……って?」

「失礼ではなかったでしょうか? 緊張してしまって……」

 テン子は不安げに胸をさすった。朱鷺は首を横に振ってやる。

 ──そうだったのか……

 緊張であんな怖い顔だったというわけか。

「それで、あの娘のことは……?」

 それとなく探りを入れる。

 テン子はこちらに怖い顔を向けた。いや、これがこの人の真剣な顔なのだ。今初めてこの人が少し理解できたような気がする。何も怒ってはいなかったのだ。だが、まだ油断はできない。いつ、難癖をつけてくるのか気が気ではない。

「うちの嫁です! あの娘、きてくださるかしら? なんていいお嬢さんなの。私と馬が合いそうね。楽しみだわ。早く孫の顔が見たいわ、フフフ……」

「孫! ですか……」

 テン子は頷いて、何とも愉快そうに笑っている。

 姑の眼差しに、思わず天を仰ぐ。

 ──神様、仏様、稲尾様、誰でもいい、助けてくれ! 

 心の中で手を合わせた。

 ふとテーブル横を見ると、トキが注文を銀盆に載せ現れた。

「ライスカレーでしたね」

 注文を確認すると優しい眼差しをテン子に向け、静かにカレー皿をその前に置いたと殆ど同時に、コウスケの声が飛び込んできた。

「やあ、トキちゃん。これ、オレのお袋」

 コウスケはテン子の肩に手を置く。

 朱鷺は隣人の顔を覗く。明らかに動揺している表情だ。

「コ、コーヒーもよ。追加して。忘れないでよ!」

 テン子は叫んでしまった。

「お袋、落ち着け」

「は、早く持ってきてちょうだい!」

 テン子はトキを睨みつけた。「な、なんなの、全くあなたって人は……」

 朱鷺には既に分かった。睨んだのじゃない。トキを上目遣いに見ただけだ。今の最後に放った言葉もコウスケに向けたもので、決してトキにではないのだ。

 トキは足早に去って行った。

「お袋、トキちゃん驚いてたぜ」

 コウスケは向かいの椅子に座りながら愉快そうに笑う。

「いきなり大声出して、びっくりするでしょ!」

「まあまあ、そんな怖い顔すんなって。トキちゃん、怯えてたぜ」

「あら、どうしましょう。あの娘、誤解なさったかしら? 私、どんな顔でしたの?」

 テン子は朱鷺に顔を向けた。

「そ、そんなには……」

 70年前のこの状況を回顧してみる。

 何もかも同じだ。ただ、この人は自分を嫌っていたわけではなかった。この人も極度の緊張でそう見えただけなのだ。

 ──オラも若すぎたんだ。

 ──全く人の心を理解していなかった!

 朱鷺は後悔した。

 ──でも待てよ?

 腑に落ない点が一つだけ残っている。このあと、コーヒーを運んで、震えながらテン子の前にカップを置いた時、力いっぱい手を引っぱたかれた。いきなりの仕打ちだった。理由が知りたいと思った。自分を嫌ってないのなら、どうしてあんな暴力を振るう必要があったのか。朱鷺はトキを待ち侘びた。

「まだ、ドキドキしてるわ」

「お袋、大袈裟だよ」

「なに言ってるの。紹介するならきちんとしなさい。心の準備もできないままに、いきなりなんだから……あの方に失礼です!」

 ──あの方……って、オラのことか? 

「で、トキちゃんのこと、気に入った?」

 テン子は一度大きく深呼吸をした。

「もちろんです! いいお嬢さんねえ。あんたが気に入らなくても、私の娘になってもらいます」

「へえ、そんなに……」

「あんた、大事にするのよ。泣かしたりしたら、私が許しません!」

 ──お義母かあさん、ありがとう!

 トキはコーヒーを運んできた。震える手で受け皿をつかみ、おぼつかない手つきでテン子の前に置こうとした。トキの視線はテン子に向けられていた。不安げな表情で頬は痙攣している。カップが受け皿から滑り、テーブルに置いた瞬間、カップは傾いてトキの右手に中身が零れそうになった。と、テン子はいきなりトキの右手の甲をはたいた。というより払い除けてやったのだ。ピシャッ、と音がした。中身は半分ほど零れテーブルの一部分を濡らし、テン子の目の前に歪な黒い池のように広がった。

「あっ、す、すみません」

 トキは顔面蒼白で動揺する。一旦戻って布巾を持ってくるはずだ。

 朱鷺がテン子を見ると、少し様子が変だ。その顔をうかがうと、笑いながら微かに顔をしかめた。

「どうされましたか?」

 ふとテン子の手元に目がいった。おしぼりを右手の甲にあてがっていた。

「なんでもありません」

 テン子は咄嗟にテーブルの下に手を引っ込めた。「あの娘大丈夫かしら?」

「お袋、どうした?」

「あの娘火傷してないかしら? あんな可愛い手に傷を残したら、親御さんに申しわけが立たないわ」

「お袋、手出してみろ」

「なんでもありませんよ」

 テン子は頑として聞き入れようとしない。

 朱鷺はテン子の手を咄嗟に握ると、拒み続けるのも構わずテーブルの下から引っ張り出した。右手の甲に水ぶくれができている。

「氷だ! 早く!」

 強く指示すると、コウスケは急いで氷をもらいに走った。

「平気ですから、大袈裟になさらないように。私のせいですから」

 また手を引っ込めようとしたところを、朱鷺はグイッと引き寄せ握り締めた。患部に当たらないようにさすってやる。

 この傷は終生消えることはない。朱鷺もよく知っている。こうやってついた傷とは思いも寄らなかった。最早テン子の手が愛おしくてたまらなくなった。

「ありがとうございました。なんて優しいお姑さんだろう……」

「まあ、お姑さんだなんて、恥ずかしいですわ、フフフ……」

 テン子は朱鷺をまじまじと見ながら首を傾げ出す。

「どうかしましたか?」

「い、いえ、なんだか、似ているような……」

「なにがですか?」

「お婆様の手とトキちゃんの手が、同じなんです。うまく説明できませんけど……でも、温かくてホッとします」

 テン子も朱鷺の手をさすってきた。この目が段々霞んでくる。悟られないようにそっと下を向いた。

「お義母様は本当はお優しい方だったんですね」

 ぼそっと相手に聞こえないぐらいの声で朱鷺は呟いた。

「どうかなさいましたか?」

「なんでもありません。あの娘のこと、よろしくお願い致します。まあ、誤解は長い間解けませんが、あたしゃ鈍感なもので……」

「誤解? お婆様、なにか誤解でもあったんですの?」

「あたしゃ、なに言ってんだか、気にせんでください」

「まあ、お婆様っていい方ですのね。赤の他人のトキちゃんのご心配なさるなんて……」

「他人というわけでは……」

 朱鷺は口ごもった。

「なんですの?」

 テン子は優しい笑顔を向けている。

「いえ、なんでもありません。息子さんとあの娘のお幸せを心より祈っております」

「まあ、ご丁寧に、ありがとうございます」

 テン子は立ち上がると深々と頭を下げる。

 そこにトキがやってきた。布巾でテーブルのコーヒーを拭き取ると、申しわけなさそうに頭を下げ、詫びを言って戻って行った。

 朱鷺はテン子の顔を見て思わず笑い出した。テン子はトキに笑顔を向けたつもりだろうが、どう見ても引きつったようにしか傍目には見えない。怖い表情である。誤解されても仕方ない、と朱鷺は思った。

 テン子も自らそれを悟ったらしく、声を出して笑う。

 ──なんとも愉快な人だ。

「ほら、氷持ってきたぞ。手出しな」

 テン子は、コウスケから手渡された氷をおしぼりに包むと患部を冷やした。すかさず、朱鷺はその手にそっと自らの手を添えた。

 コウスケは椅子に腰を下ろして、不思議そうな目つきでこちらをうかがっている。

「私、そんなに怖い顔でしたか?」

「とんでもない、ええ顔でしたよ」

 二人は手と手を取り合いながら声高に笑った。

 コウスケは相変わらずキョトンとしている。

 朱鷺は心の中で、「コノヤロー!」とコウスケを怒鳴りつけた。コウスケがきちんと今の状況を説明しなかったせいで、嫁と姑の間にひびを入れてしまったのだ。70年間もだ。

 ──70年間の積もりに積もった恨みを晴らさねば、おさまりがつかねえやい!

 復讐の矛先をコウスケに向ける。

 ──今に見てやがれ!

 と決意を固めた。

 だが、まあ、ともあれ70年間のわだかまりも解け、和解できたのは何よりの収穫だった。

「なにがそんなにおかしいんだ?」

「なんでもありません。二人だけの秘密よ」

 朱鷺は晴れやかな気分だった。いつまでもこの人と一緒にいたいと心から願った。だが、なぜかもう別れねばならないような気がした。

「さて、あたしゃ、そろそろおいとましませんと……」

「あらっ、残念ですわ。折角お知り合いになれましたのに」

「すぐにまた会えますよ。40年間一緒に過ごすんですから……」

「40年間一緒に……どなたとですの?」

「あの娘ですよ」

「まあ、そうなればいいですけど。この子のお嫁にきてくださるかしら?」

「ええ、間違いありません」

「心強いですわ、そう言って頂いて」

「それでは、あたしゃこれで……」

 朱鷺は立って一礼すると、テン子に暇乞いをする。

「お婆様、いろいろとお世話になりました」

 テン子も立ち上がり礼を返し、朱鷺のために通路に出て、行く手を開けてくれた。

 通路に出ると、朱鷺はもう一度深々と頭を下げた。テン子に踵を返し、傍を離れようとしてまた向き直る。

「どうぞお幸せに」

 朱鷺の今かけた言葉は、若い二人にではなく、テン子に対してだった。じっと姑の顔を見つめる。この人の優しい顔を心に焼きつけておこうと思った。

「ありがとうございます」

「お義母様、お礼を言うのはあたしの方です。本当に感謝しております。これまで失礼なことばかり致しまして誠に申しわけございませんでした」

 朱鷺は心を込めて頭を下げた。 

「そんなこと、おやめくださいましな。私のような者に……」

「それでは、本当にこれで失礼致します」

 もう一度テン子の顔を見る。また目の前が霞んできた。酷く名残惜しいが、一礼して踵を返した。

「バアさんよ。どこ行くんだ?」

「ちょっと用事があってな」

 朱鷺は振り向かない。

「当てでもあんのか?」

「心配しなさんなって。幸せにな。あの娘を頼んだぞ。それに、必ず、親孝行しなよ! お袋さんを大事にな……」

「おう、あんがと。元気でな」

「じゃあ、あたしゃこれで」

 言ったっきり、一度も振り返らなかった。二人に顔を見られたくはない。

「今日は誠にありがとうございました」

 テン子の優しい声が背中に温かい。嬉しかった。いつまでも傍にいたいと思った。朱鷺はその声に無言で手を振って応える。最早声を出したくても出せなかった。

 朱鷺のまなこから、止め処なく涙が零れ落ちる。目の前が曇って見えない。一寸先は闇。

 ──こんな場合のことを言うんだな……

 と思った。

 誰かが前方からこっちにやってくる。顔は見えない。涙を拭って、その顔を確かめようとした。朱鷺の目にその顔がはっきりと映った時には手遅れだった。また霧に包まれていた。


   *


 朱鷺は仰向けに寝ていた。薄暗い部屋である。

 どうして寝ているのか思い出せない。しばらく天井を見つめる。目玉を回して、見える範囲をくまなく確かめてみた。まだぼんやりとしか見えなかったが、嫌に狭い部屋だ。

 ──地震か?

 さっきから体がフワフワと上下に揺れていた。

 ──めまいかもしれねえ?

 ──また、貧血で倒れたのだろうか?

 若い時分のように。

 ──病院なのか?

 ──それにしても、派手な色彩の壁紙だ……

 右へ寝返りをうつ。誰かがいた。手を振ってみる。あちらも手を振って応えてくれた。歯を剥いて笑う。向こうも笑った。

 ──あの娘か?

 ──それにしてもやけに歳を取っている……

 ──ああ、鏡だ!

 ──鏡に自分が映っているだけだ!

 朱鷺はようやく気づいた。

 ──けんど、おかしな部屋だ……?

 鏡は四方八方に張り巡らされている。

 ──ここはどこだ?

 ──前にも見た光景だ……若い時に……

 ──デジャヴーか?

 側頭部を叩いて海馬から記憶を呼び覚まそうしたが、その必要はなかった。急に映像の断片が瞼に浮かんできた。

 さっきまで姑のテン子と一緒だった。嫌われているとばかり思っていたのに、それは自分の誤解だったと知った。別れ際、手を取り合って、涙が溢れ出して……その先は覚えていない。

 そうか、最後にトキの顔が見えた。また飛ばされてしまったことにようやく気づいた。

 背後で何かがうごめいた。朱鷺は寝返りをうって仰向けに体を戻した。左を向く。誰かの背中が見える。わりとガッシリとした、男の広い背中だ。何もまとっていない。

 ──なにか忙しそうだな?

 ──よく働く人だ!

 朱鷺は感心した。声をかけてみようか迷った。仕事中だし、何か悪い気もする。だが何事も訊いてみないと先には進めないと思って、声をかけようと決心した。

 ──ま、最初にねぎらいの言葉でもかけるべきだ。

 ──それが礼儀というもんだ。

 と、体ごと左に向き直った。

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