◇2 改心したコウスケ──お春を蔑んだらババアに殴られた! なーんでか?

【10日目】1975年(昭和50年)11月30日日曜日


 コウスケは一睡もできなかった。

 ──まさか春乃があんなことを!

 ──自分はまだしも、トキにまでやいばを向けるとは!

 布団の上に身を起こし、窓に目を向けた。カーテン代わりの上着とTシャツの隙間から闇が覗く。枕元の目覚まし時計は6時を指していた。

「どうしたんだ?」

 さっきまで寝息を立てていた婆さんの声が、唐突に耳に飛び込んだ。

「なんだ、起きたのか」

「眠られねえのさ、一晩中」

「ウソつけ、イビキかいてたぞ」

「しゃらくせえー!」

「まだ寝てろ」

「ほう、優しいこと言うでねえか」

「平和な方がいいからよお……」

「なに、コノヤロー。減らず口たたきやがって」

「あーあ、少し寝ようっと」

 コウスケはもう一度、仰向けになった。

 次に目を開けたら、得体の知れぬ物体が視界を塞いでいた。それは段々遠ざかって実体を現し始めた。ぼやけた輪郭をよく確かめようと目を瞬く。

「お目覚めかい?」

「なーんだ、トキちゃんか……」

「あいよ、あんたのトキちゃんよ」

 目の前でトキが微笑みかける。こちらも笑顔で応えた。

「ん? そんなはずは……」

 激しく目をこすって、トキの顔をよく見た。

「おはようさん。今日も元気かい? ウゥー……ワンッ!」

「ウワッ!」

 コウスケは咄嗟に飛び起きてその場から避難した。

「なに驚いてんの? こっちおいで」

 もう一度目をこすった。確かに皺くちゃババアが手招きしている。

「分かんねえ?」

「なにがだ?」

「今、バアさんがトキちゃんに見えた」

「あたりめえだ。本人だもの。ウッフン……」

「ウエッ! そんな声出すな!」

「色っぽいかい? ウッフン」

「バカヤロー! 朝っぱらから気色悪い。ババアのくせに……」 

「誰がババアだ! 今、トキちゃんって呼んだでねえか」

「バアさんがトキちゃんに見えたり、トキちゃんがバアさんに……ありえねえのに」

 コウスケは首を傾げる。

「おんなじだもの、仕方ねえよ」

「なにが同じだ!」

「おんなじさ、あのもオラになるのさ」

「バカ言え! トキちゃんが、あんなおしとやかな娘がバアさんみてえになるか! ありえねえ、絶対にねえ!」

「おめえ、なーんも分かってねえな。女が行き着く先はみーんな同じよ。ま、ええ、おめえにも悟る日が必ずくる。飯食えや、今日は休みか?」

 コウスケは目覚まし時計を見て慌てたが、すぐに冷静に戻った。婆さんがまた小細工したに決まっている。

 ──9時をすぎてるなんて……

 ほっと胸を撫で下ろし、ちゃぶ台の前に座った。


   *


「バアさんよ。春乃さんが、あんな女だとは思わなかったぜ」

 朝食を終えると、寝転がって婆さんに呟く。

「なに言ってんだ?」

「バアさんの言う通りだってこと。ありゃ性悪だ。とんだ女狐だな」

 婆さんはコウスケの傍まで膝で歩み寄ると、この頭を優しく撫でてくれる。と、次の瞬間、目に閃光が走った。頭のテッペンを押さえながら、のた打ち回る。

「イッテーし! なんてことしやがる!」

 怒鳴った勢いで起き上がった。

「お春の悪口言うからだ! 性悪だ、女狐だと……あんなええオナゴの悪口はオラが許さねえ!」

 婆さんのこめかみの血管がピクピクと波打っている。

「な、なにぃ? てめえが言ったんだぞ!」

「オラ、お春の悪口言った覚えはねえ!」

「はあーん?」

 コウスケは頭をさすりながら、思ったことをついつい口にした。「ボケてんだ……」

「ヘヘヘッ……」

「ヘヘヘッ……」

「ボケた……誰が?」

「い、いや……そんなこと、誰が言った?」

「しらばっくれるのか?」

「オ、オレが? と、とんでもねえ、バアさんのことじゃ、ねえんだ……よ」

 婆さんは細目でコウスケを見据える。笑って誤魔化すことしか思いつかなかった。頬が激しく引きつる。

「ガアーッ!」

 婆さんは吠えながらつかみかかろうとしたので、慌てて後方へ引っくり返り、頭を抱え防御する。だが、婆さんは途中で襲いかかるのをやめ、定位置で空を見上げた。

「お、おバアちゃん……」

 畳に仰向けになったまま恐る恐る呼びかけてみる。

「おめえ、オラの親友の悪口言うなや」

 婆さんがボソッと呟いた。

「親友……って、誰?」

「お春に決まってる」

「いつから!」

 反射的に上体を起こし胡坐をかきながら叫ぶ。

「ずーっと昔からだ」

「ん! ん! ん! 散々、春乃さんをこき下ろしといて……」

 思わず声を荒げそうになったが、必死に気持ちを静めて呟いた。「今更なんだ、このババア……」

「聞こえたぞ。おめえ、今朝は嫌に落ち着いてんじゃねえか」

「まだ、早いだろうが」

「ほれっ」

 婆さんの視線が目覚まし時計を指し示した。そちらに目を向け鼻先で笑ってやる。

 ──既に10時を回っているなんて……

「細工したんだろ? もうその手には乗らねえよ」

「お天道様見てみな」

 婆さんは窓の外を指差す。

 コウスケは舌打ちしながら窓から空を見上げた。ほんで、目覚ましをもう一度確認する。婆さんを見る。婆さんは大きく頷く。

「これ、合ってる……の?」

「時計は正確さが肝心だ! おめえの口癖だったな」

「は、早く言え! ああ、どうしよう、大目玉だ。遅刻だ!」

 慌てて着替えを済まして、婆さんを睨みつけ玄関を出た。もう一度婆さんを見るとバカにしたように舌を出し、知らん振りを決め込んでいる。コウスケはドアを力いっぱい閉めた。大きな音がして、部屋の中から婆さんの笑い声が漏れてきた。

 ──コンチクショウ!!!

 はらわたも煮え繰り返ったが、最早それどころではない。急いで階段を下り、ポケットをまさぐってバイクのキーを探した。が、どこにもない。仕方なく階段を上り、玄関のドアを開けた。そしたら玄関先で婆さんがキーをかざして待っていた。それを引っさらうとバイクの元へと走った。

 バイクにまたがりエンジンをかけ、左右を確認して路地に出ると、トキが呼び止めた。声の方を向くとトキではなく婆さんが窓から手を振っている。

「気をつけて行っといでー」

 婆さんの声は背筋を凍てつかせる。一度身震いすると、その振動で背骨は自ずとピンと伸びる。その場から逃げるようにバイクを走らせた。


   *


 コウスケが事務所に入ると、案の定、社長が待ち構えていた。こちらが口を開きかけた途端、声は喉の奥へと押し戻された。

「言いわけするな!」

 社長の声は小柄な体に似合わずでかい。有無も言わせぬ社長の迫力に押されっぱなしで、自ずと身は縮こまり、只々コメツキバッタ同然に首を小刻みに上下させ、平謝りに謝るのがコウスケには精一杯だった。

 直立不動のコウスケを窓越しに覗く視線があった。

 ──寺西だ!

 ──ウッスラ笑ってやがる!

 ──あのヤロー、いつか見てろ!

 コウスケは腹に力を込め、寺西に復讐を誓いながら社長のお小言に頷き続けた。

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