◆1 追いつめられたお春──手にしたナイフを!

【9日目】1975年(昭和50年)11月29日土曜日


 お春はみどり公園へ入った。大銀杏下のベンチに腰を押しつけると、俯いて頭を抱え込んだ。

 朱鷺は呼吸を整え、ゆっくりお春に近づいた。お春の正面まできて、仁王立ちで見下ろす。お春の手には、まだナイフが握られていた。朱鷺は隙を見て、ナイフを奪い取った。

 お春は朱鷺を見上げる。二人の視線が一直線上に結ばれると、突然顔を両手で覆って泣き出した。

 ──このに及んで泣き落としとは、どこまでも卑怯なヤツめが! 

 はらわたは煮え繰り返る。頂点を極めた怒りをぶちまけようと、お春の目の前にナイフをかざす。ふと先端に目が止まった。銀の光沢が剥がれ、中身が剥き出しになっている。銀色の剥がれかけたペラペラを摘まんでみた。

「物差しでねえか!」

 アルミ箔で巻かれた中身は竹製の物差しだった。

 朱鷺の膝元で激しく肩を震わせながら、お春は嗚咽する。しばらく黙ってその様子に見入った。

「お、おバアさん……どなたですか?」

「なして泣いてんだ! あんな真似しやがって!」

 朱鷺の怒声に、お春は一層声を上げて泣きじゃくる。

 もう一度、恨みごとでも言ってやろうと思っても、こう泣かれてはなす術もない。少々戸惑いつつ、機会をうかがってかなりの時間がすぎ去ったあと、ようやくお春は顔を上げた。朱鷺は、その顔を覗き込む。ベンチの真上の街灯にお春の顔がくっきりと浮かぶ。瞼は腫れ上がり、目は真っ赤だった。

「おバアさん……コウスケさんと……いらした……方、ですね?」

「そうだ!」

 腹の底から怒鳴った。

「わたし……わたし……バチが……当たった」

 お春はまた手で顔を覆って泣き出した。

「バチだと? どういうこった!」

 怒鳴りながらも朱鷺はいささか面食らった。

「わ、わたし……悪い……女……なの」

 途切れ途切れにしゃくり上げながら言葉を吐き出すお春に、

 ──そんなこと百も承知だ!

 と朱鷺は腹の中で叫んで、息を胸いっぱいに吸い込む。

「この性悪が!」

 腹の中に溜まった70年分のどす黒い塊を、たった今胸中に充満させた空気もろともお春の頭上からぶちまけてやる。と、意外にもお春は朱鷺の言葉に何度も大きく頷いた。

「おバアさんの……おっしゃる……通りです」

「嫌にあっさり認めんだな?」

 お春を見下ろしながら、朱鷺は、何度も首を捻る。

 二人の間にしばしの沈黙が訪れ、ようやくヒクヒクとしゃくり上げながら涙を手の甲で拭ってこちらに顔を向けたお春の顔が笑いかける。

「私って、バカな女……」

 お春は自ら語り始めた。「私、父を早くに亡くし、母は再婚したんですけど、それが気に食わなくて……私の気持ち分かって欲しかっただけなんです。取り返しのつかないことをしてしまって。義理のお父さんを一度だけ困らせてやろうと思って……本当にバカなことを……」

 そこまで続けてお春はうな垂れた。

「義理のお父さん……?」

「はい、この町の町長です。優しい人なんです。だけど、私、実の父の面影を忘れ切れなくて、ついつい辛く当たってしまうんです。そして、あんな酷いことを……美人局つつもたせなんて……私、死にたい!」

 そう告白すると、また顔を覆って泣き始める。

 朱鷺は驚いた。お春のこんな一面を見たことは未だ嘗てなかった。弱みを決して見せない女だとばかり思っていた。ふと、お春と藤九郎のレストランでの悪だくみのシーンが蘇ってくる。

 ──美人局の餌食えじきは義理の父親だったのか!

「死にたい、だと!」

「はい、バチが当たったんだわ。コウスケさん、きっと私の正体、知ったのね。私、あの人を心から愛していたの。あの人のためなら命も惜しくはないわ。それなのに、私から去った。悔しかった。コウスケさんを困らせてやろうと思ったの。それに相手の女の顔をこの目に焼きつけようと思って、それで、今日、映画館の前で待ち伏せしたんです。そしたら……」

 お春は声を詰まらせる。

「それで?」

「相手の女の子、私の知り合いだったんです。レストランで働いてて……とてもいいなんですよ。なぜかあの娘を見ていると、心がなごんで、勇気が湧いて、元気づけられて、心が洗われるようで……私もいい人間になれそうな気がするの。そんな娘なんです。妹のように思ってるの。あの娘に比べると、私なんか、嫌な女」

 朱鷺はお春の横に腰を下ろした。殆ど全身の筋肉から力が抜け落ちて、とても立っていられはしなかった。

「あんた、あの娘をそんな風に……?」

「はい、おバアさんもご存知なんですか?」

「あ、ああ。まあ……」

「私、あの娘が大好き。トキちゃんっていうんですよ。素敵な名前でしょ?」

「ハハハ……そ、そうかい?」

 朱鷺は苦笑した。

「トキちゃんが相手では仕方ないわね、私が身を引くしか……」

 お春の目から次々と涙が溢れ出す。

「あんた、そんなにれてんのかい?」

「フフフ……でも、フラれちゃった。自業自得ね」

 そっとお春の横顔をうかがった。遠くを見つめ、愁いに沈んだ顔が優しげで、とても美しかった。

 お春を悪女だとばかり思ってきた。70年間ずっと。お春は朱鷺に何かと優しい言葉をかけてくれたし、気遣ってくれた。爺さんが死んだ日、家にきて慰めてもくれた。一緒に泣いてくれたのだ。それを下心の裏返しだと疑わなかった。こんなお春の姿を目の当たりにして、

 ──もっと早く、お春の心、悲しみを分かってやっていたのなら……

 と朱鷺の後悔は尽きなかった。根性が曲がっていたのは自分だった。

「お春……い、いや、春乃さん、だったね……」

「はい」

「人間、生きてりゃ、結構面白いことがあるもんさね。きっと、あんたにもね。あの男だけが男じゃないよ。もっと、ええ人が現れるさ。あんた、器量よしだもの。今に見ててごらんよ。だから、死にたいなんて、言っちゃダメだ。あんただって、幸せにならなきゃ」

「でも……」

「失恋して、女は女になってゆくのさ。もっと魅力的な女にね。あんたは今でも十分魅力的だけどさ……」

「そうかしら……」

「ああ、でもね……」

 朱鷺はお春の顔を覗き込んで笑いかける。「あたしみたいな女は滅多にいないけどね」

 お春の顔が笑った。その眼差しは何とも慈愛に満ちている。素直な心で見ると、お春の真の姿が浮かび上がった。

「おバアさん……」

 朱鷺の顔を覗き込んだお春の目からまた涙が零れた。

「さあ、涙を拭いて、ええ女が台無しだ。胸張るんだよ。あんたには文才があるしね。今に大作家になるよ」

「ええっ! 私が……作家に……ですか?」

 目を丸くして訊き返したその表情が穏やかに笑みをたたえている。朱鷺は思わず抱き締めてやりたい衝動に駆られた。 

「そうさ。自信を持って生きるのさ。小説家志望だろう?」

 朱鷺も眼差しに無上のいたわりを込めた。

「そんなこと、夢にも思ったことは一度も……」

 お春は首を横に振りながら微笑む。「私に文才なんて……」

「そうなのかい? 一度も考えたことは……ないのかい?」

「はい、全く」

「あたしゃ、てっきり……」

「でも……おバアさんが、そうおっしゃるなら書いてみようかしら? 気持ちも少しは楽になるかも……」   

 一旦自らの足もとに落とした視線をゆっくりとこちらに向けた時、お春のは輝いていた。「私、やってみます。おバアさん、アドバイスありがとうございます」

「い、いやあ。お礼言われるほどでは……」

 お春が、ある日を境にサンクチュアリに原稿用紙を持ち込んでは時間も忘れてなりふり構わず一心不乱にペンを走らせ続けていた姿を思い起こした。朱鷺はその光景を幾度も目撃してきた。注文を聞きに行った時、自ら小説家志望だと告げたお春を、酷く訝しんだものだった。だから、これまで、お春という女はどこまでも上昇志向、欲の塊みたいないけ好かないヤツだとばかり思ってきた。だがそれは間違いであった。お春は己が苦しみを原稿用紙にぶつけることで、少しでもそれを解放させてきたに違いない。

 ──そう仕向けたのは自分なのだ!

 朱鷺は悟った。今、すまない気持ちで胸が締めつけられる。

「でも、私、お義父とうさんに酷いことを……」

 またお春は悲しい目をした。

「そうだね。きちんと謝るんだね。分かってくれるよ」

「はい、そうします。私、どんな報いでも受けるつもりです。一つだけ、既に……」

「なんだい?」

「コウスケさんを……失ったこと」

 言葉を詰まらせながらその目にはみるみる涙が溢れ、頬を伝って次々に流れ落ちた。

 朱鷺はモンペのポケットから真っ赤なハンカチを出し、そっとお春の頬にあてがってやると、お春は朱鷺の胸に顔を埋めてきた。思わずその肩に腕を回し、ギュッと抱き締めてやった。

 ──なんて、かわいそうなことをしてしまったのか!

 悔恨は尽きない。心の中で手を合わせ、お春に詫びた。もし、戻ったら、お春に頭を下げようと決意した。

 自ずとお春の亭主の顔が目の前にチラつく。お春の亭主は悪党だ。

 ──きっとあいつが、お春を悪の道へと引き込んだに違いねえ!

 ──なんとか手を切らせねば!

 朱鷺は頭を巡らせる。お春への、せめてもの罪滅ぼしだ。

 雉牟田藤九郎きじむた とうくろうというロクデナシに、朱鷺は怒りの矛先を向けるのだった。

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