◇28 待ち伏せ──殺してやる!

【8日目】1975年(昭和50年)11月28日金曜日


 コウスケは春乃に気づいていたものの、今は給油中で手が離せない。春乃は塀の影に見え隠れしている。

 一段落ついて塀沿いの路地を覗いてみた。が、春乃の姿は既になかった。

 春乃を見かけると、すぐに傍に寄ってみるのだが、春乃は遠巻きにこちらをうかがって、コウスケが一歩でも近づこうものなら、途端に身を翻しさっさと逃げてしまう。トキとの一件のあと、春乃の態度は一変した。コウスケにも春乃の考えは見当もつかない。話し合いも持てぬまま時間だけが無情に過ぎ去るばかりであった。

 コウスケはやり切れない思いを仕事にぶつけた。仕事に没頭することで春乃の面影を今だけは払拭しようと考えた。そのせいかもしれない。何かと寺西に当たり散らかしていた。

「コノヤロー! 先輩の言うこと聞けねえのか!」

「寺西、カゴノさんに謝れよ!」

 何度か殴りかかろうとしてその度に田村に止められた。田村は相変わらず素直なヤツだ。コウスケの言うことは何でも二つ返事で聞く。寺西と同い年だとはとても思えない。随分と大人だった。気も利いている。

 ──至れり尽くせりとはこういうことか!

 いつもコウスケの先回りをしてコウスケを唸らせた。

 ──田村の爪の先だけでも気を遣いやがれ!

 怒りの塊を喉の奥へとし込んだ。じきに辞めて行くヤツには知らん振りが一番だと思う。だが、堪忍袋にも限界があるらしい。

 コウスケは田村の手を振り解くと、寺西の胸ぐらをつかんだ。寺西は一瞬だけコウスケの目を見ると、目を閉じる。奥歯を食いしばって踏ん張った。コウスケは右の握り拳を肩の高さで振り上げたまま躊躇った。結局拳は振り下ろされることなく力を緩め、寺西の胸を掌で押し退けてその場を離れた。寺西はコウスケに押された勢いで数歩後ずさり、平然と仕事に戻って行った。

「カゴノさん、あとからよく言っておきますから」

 コウスケは田村に「おう」とだけ返して、事務所裏から表に出ると洗車を再開する。

 寺西はコウスケに何かと突っかかってくる。なぜかは分からないが、このところ寺西を見る度に向かっ腹がたってしようがない。

 ──今度こそ思い知らせてやる!

 いつもチャンスをうかがっているのだが、コウスケもどういうわけか寸でのとこで思い留まり、手を出せず仕舞いでいた。寺西の目を覗くと、何となく気持ちが萎えてしまうのだ。

「いまいましいヤツめ!」

 コウスケは洗車の手を休めることなく、寺西を見るなり独りごちた。


   *


「カゴノさん、お疲れ様でした!」

 田村は可愛いヤツだ。コウスケが帰り支度をしていると、真っ先にやってきて、頭を下げる。コウスケもねぎらいの言葉をかけてやり、職場をあとにする。

 メジロ石油を出ると、辺りを見回した。今日は何か物足りない気がすると思えば、婆さんの姿を昼間一度も見かけていないせいだった。コウスケは激しくかぶりを振る。婆さんの存在が当たり前になっている。怖ろしい習慣だと身震いした。

 コウスケは暗がりを重点に目を凝らした。あの妖怪がどこかに潜んでいるやもしれぬ。注意深く確かめながら家路へと足を運ぶ。

 大通りから人通りの少ない路地裏に入ってしばらく行くと、背後で小石が転がる音がした。この路地は舗装してないから、恐らく、誰かが歩きながらでこぼこ道に足を取られ小石を蹴飛ばしたに違いない、とコウスケはおずおずと振り返ってみる。気配だけで人影はない。

 ──バアさんか?

 ──だったら今度こそ仕返ししてやろう!

 咄嗟に電柱の陰に身を隠した。手を木製の電柱に添えてそっと後ろを覗く。ささくれ立った木のとげが掌に刺さって、声を上げそうになる。すぐに手を引っ込めて、患部に舌を這わせ応急措置を施す。鉄錆の味が鼻に抜けた。耳をそばだてると、誰かが近づく微かな足音だけがする。車一台分の幅しかない路地の反対側にともる薄暗い街灯の下に視線を置く。ここまでは光は届かぬゆえ、気づかれる恐れはないと踏み、大胆に電柱の陰から半身を乗り出して待ち伏せた。微かな足音が耳に届き、次第に接近する。目を凝らして待った。

 街灯の明かりにその姿が露になった時、コウスケは思わず路地の中央へ飛び出した。

「春乃さん!」

 コウスケは立ち尽くした。

 春乃は驚いた顔で目を丸くする。二人は見つめ合った。そのまま儚い時間が流れ、コウスケは春乃の傍へ寄ろうと一歩を踏み出した。 

「こないで!」

 春乃は激しい口調でコウスケを拒んだ。コウスケの足は自ずと止まった。

「春乃さん、オレ……」

「あんたなんか……あんたなんか大嫌い! ウソつき!」

 コウスケの言葉を遮って叫んだ。

「春乃さん……」

 言葉が喉につっかえた。一旦唾液を飲み込み胸に落とす。もう一度つっかえた真心を胸底から口元まで引き上げる。

「殺してやる!」

 一言だけ放って急に踵を返すと、春乃は走り去ってしまった。

 結局コウスケの真心は伝わらぬまま春乃の姿は視界から完全に消失した。

 その場に一人残されてしまったコウスケの頬を、冷たい晩秋の風は叩き続けた。

 コウスケは悟った。

 ──春乃との恋は終わった。


   *


 コウスケは夕食をそこそこに終えると、風呂に入りすぐに布団に潜り込んだ。

「おめえ、なんかあったのか?」

「なにも」

「でもよ……」

 コウスケは腕を枕にして婆さんに背を向け目を見開く。

「春乃さん……」

「おめえ、まだお春を!」

「終わった」

「なにが、終わったんだ?」

「春乃さん……去った」

「お春が、去った……どういう意味だ?」

「そういう意味だ」

「おめえから、去った、ってか? お春が……」

「そうだよ」

「信じられねえ。あいつが、すんなり引き下がっただと?」

「ああ」

「お春がそう言ったのか?」

「そうだ」

「おめえ、お春と会ったのか?」

「さっき、大通りから路地に入った所で」

「待ち伏せされたのか?」

「待ち伏せしたのはオレだ。てっきり、バアさんかと思ってよ」

「つけられてたのか?」

「そうみたいだ」

「おかしいな?」

「なにが?」

「お春の行動だ。おめえを狙ってる」

「そんなわけ……」

「いんや、おめえをバイクではねようとしたし……」

「そんなつもりはねえよ。できっこねえ! 春乃さんには」

 コウスケは自分に言い聞かせた。だが、春乃が昨日の朝、バイクで突進したあとに言い放った言葉を噛み締めた。

「絶対に許さない!」

 そして、さっきの言葉だ。

「殺してやる!」

 コウスケは目を閉じた。瞼に春乃の顔が浮かぶ。それは次第に遠ざかってゆく。やるせない気持ちを何にぶつけたらいいのか分からない。コウスケは胸をかき毟った。

「とにかく、おめえ、気をつけろ。ええな」

 コウスケは婆さんの声を無視して寝たふりをする。目を瞑っていると、自然と涙が零れ落ち枕を濡らした。

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