◆29 朱鷺、晴れの舞台──若い二人を守らねば!

【9日目】1975年(昭和50年)11月29日土曜日


 今日は朱鷺にとって晴れの舞台である。

 今朝四時かっきりに目が覚めた。年寄りだからというわけではない。87のよわいをすぎて尚、たっぷりと10時間は寝る。地震、雷、火事、親父、何が荒れ狂おうとも大文字だいもんじの形を呈したまま朝まで往復でイビキをかき続ける。それが翌日のエネルギー源として蓄積されるのである。

 そんな朱鷺でも今日ばかりは純な乙女の気分だ。遠足か運動会前日と同様、徐々に神経は昂り、床入り後も興奮冷めやらぬ夜を過ごし、浅い眠りからの目覚めと共に飛び起きた。ソワソワしながら時が満ちるまで部屋で過ごす予定でいたが、結局みどり公園の大銀杏おおいちょう下のベンチに座り、貧乏揺すりで心の平安を保った。

 ──ハラハラ、ドキドキ、ウキウキ、ワクワク……

 朱鷺の血圧は一気に最高潮に上り詰める。だが、その感情とは裏腹にお春の行動が気にかかる。

 お春の性格は熟知しているつもりだ。このまま引き下がるわけがない。涼しい顔で近づき、相手を取り込む。あの美貌に、男はいちころだ。虜にするのは朝飯前というわけだ。腑抜けになった馬鹿どもを何人も知っている。自分も危うく丸め込まれるところだった。あの時、お春と藤九郎の悪だくみを耳にしなかったなら、恐らくお春の毒牙にかかっていたに違いない。どんな目に合っていたろう、と思うと背筋が凍りつく。

 ──ケツの毛一本残らず毟り取られかねねえ!

 お春とはそんな女だ。

 朱鷺の胸はお春への嫌悪感ではち切れんばかりに膨れ上がった。

 二人を守らねばならぬ。朱鷺にはお春がどんな怖ろしい企てを考えているのか、見当もつかない。が、今日、必ず何か仕掛けてくる。朱鷺は女の直感が働いた。今日は二人にピタリと張りついて、お春の不穏な行動を察知したら、

「積年の恨みを晴らしてやる!」

 と自ずと士気は高揚する。「あんなヤツにオラの恋路を邪魔されてたまるか!」

 朱鷺は電柱の陰から向かいのホテルをうかがっていた。時折、車が行き交う。

 さっき、二人が連れ立って──トキの姿はコウスケの陰に隠れて見えなかったが──映画館に入る後姿を見送り、すぐさま国道沿いの街外れにあるこの連れ込みホテルまで走った。朱鷺の足で10分程度の距離にある。3キロメートル強といったところだ。お春が何か仕掛けてくるのは、恐らく人通りの途絶えたこの場所だと踏んだのだ。

 朱鷺は二人を待ちながら、初めてのデートの模様をホテルの白い壁をスクリーンに見立て上映する。


   *


 映画を観賞したのち、

「少し歩きましょう」

 とコウスケを促してここまで連れてきた。

 寒風吹きすさぶ夕暮れだった。ホテルの手前までくると立ち止まり、手を揉みながら白い息を吹きかける。腕を交差させ肩をさする。

「寒いのかい?」

 コウスケが尋ねて、こっちは頷く。コウスケは皮ジャンを羽織らせてくれた。それを見越して、わざと薄着で外出したのだ。

 長袖の純白のポリエステル製のブラウス。真っ赤なミニスカートの丈は膝上10センチメートル。しかも素足でなまめかしさを強調した。

「立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿はブタのケツ」

 などとは誰にも言わせぬぞよ、と、白いハイヒールでモンローを気取る。

 映画館で座った時、スカートの裾から下着が見えそうで見えない。テクニックを駆使する。もちろん胸元は、はだけさて少しばかり見せる。時々、コウスケの視線が忙しなく上下していた。

 ホテルの前でまた立ち止まり、その場にうずくまる。

「どうしたの?」

 コウスケは心配して顔を覗く。

「めまいが……」

 と言って立ち上がろうとしてコウスケの胸に倒れ込む。コウスケは途方にくれた顔だった。すかさず額に手をあてがって、ホテルの入り口へとコウスケの体をなびき寄せる。と、またその場にうずくまったまま、しばらく身動きできない振りをして、コウスケの次の言葉を待った。

「ちょっと休もうか」

 ──シメタ!

 朱鷺はフラフラと立ち上がり、コウスケに従った。

 朱鷺のシナリオ通りに事は難なく運んだ。


   *


 朱鷺は思い出しながら声を上げて笑っていた。

 辺りはすっかり夕闇が迫っていた。ふと空を見上げる。厚い雲が垂れ込めていた。フーッと息を吐いてみた。

「おかしい?」

 首を傾げながら、もう一度おさらいしてみる。

 あの日は風が強かったはずなのに、今は殆ど風もない。また空を見上げる。やはり星は雲に隠れ、一つも見えない。息も白くはないし、寒くもない。記憶と全く符合しない。

 ──どういうわけだ?

 ──ナニかが変わってしまったのか? 

 期待は次第にそこはかとない胸騒ぎに変わり、不安のどん底へと気分は急降下する。

「オラ、本当にボケたのか?」

 朱鷺は家族の名を一人ずつ呟いてみる。全て言えた。今度は掛算の九九を暗唱する。何ら問題ない。ボケてなどいなかった。

 グルグルと首を回し始めた。脳ミソの片隅に固く巻かれた糸車から記憶の糸を手繰り寄せ、もつれた部分を何とか解こうともがいた。だが、脳裏に浮かんだものは、お春の顔だった。何度、初デートの場面を思い起こしてみても、必ず最後には、お春の顔が目前に大きく立ちはだかる。

「なしてだ? 今日は土曜日だよな……土曜日……」

 一旦静止し虚空を見つめ、側頭部を右、左と交互に掌で軽く叩き続けた。「ん!」

 突然、脳の中で神経同士がつながる音がして、微弱電流が脳ミソの回路を駆け巡った。ような気がした。記憶は、1975年(昭和50年)11月29日土曜日の扉を叩いた。だけでまだ開かなかった。

 今一度目を閉じ、側頭部を交互に叩きながら首を回した。目を開けた時、ホテルの白壁に細切れの活動写真が浮かんでは消える。

 ──映画館の入り口。

 ──女優。

 ──コウスケの横顔。

 次々と目の前でパラパラ漫画のように流れ去った。

 ──最後に、お春の顔!

 そこで映像は途切れる。

 朱鷺は映像と映像の間に、つじつまが合うように映像を差し込んでみた。何度も繰り返す。丁度オーケストラの指揮者のように手を振りながら。

 記憶の扉が開くのは唐突だった。

 朱鷺はトキの体から意識を抜き、俯瞰ふかんであの時の様子を覗いてみる。

 また突然、脳裏に雷鳴が轟いた。と同時に手を思い切り打ち鳴らした。パン、という大きな音は低く垂れ込めた雲に反射したかのように、朱鷺の鼓膜をつんざいた。

「そうだ、あの時!」

 しばらく呆然とその場に立ち尽くしていたが、気づくと、足は勝手に二人のいる場所へと向かっていた。「なして忘れてたんだ!」

 ──記憶にねえ部分を見届けねば!

 朱鷺は走りながら、ぐんぐん足を速めた。

 映画館の通りへ続く角をトップスピードで大きく弧を描いて左へ折れ、映画館の看板を目指した。


   *


 上映は済んで、出口から観客の波が押し寄せる。

 朱鷺は道路を挟んで出口の正面に立ち、二人を待つ。人の顔、顔、顔が右へ左へと分かれて行く。その中にチラリとコウスケの顔が見えた。まだ中にいて、今まさに外へ出ようとしている。コウスケの後ろにトキの姿も確認できた。

 トキは、青いワンピースを着ていた。

 二人は流れに身を任せながら、やっと外へ押し出されるように一歩を踏み出した。

 その時だった。どこからともなく、お春がコウスケの前に立ちはだかった。コウスケは目を丸くして、お春を見る。  

 お春の握っていた物が街灯に映し出された。

 朱鷺は目を見張った。銀色の光沢が光を反射する。

「ナイフだ!!」

 お春はいきなりナイフを振りかざし、コウスケに襲いかかった。すると、コウスケの背後からトキがフラフラと現れ、コウスケと並んだ。お春はトキにナイフを突きつけた。と、後ずさり、ナイフを下ろして何度も大きく首を横に振る。その表情は茫然自失といった具合である。

 ──恐らくトキの美貌に舌を巻いたのだろう。

 と朱鷺は推測する。朱鷺は心の中で勝ちどきを上げた。

 コウスケはトキとお春の間に割って入った。身を呈してトキをかばう。

 その瞬間、トキはその場にくず折れた。

 気絶して身を横たえたトキを、コウスケは抱き起こし、何度も、「大丈夫か!」と声をかけ続ける。キッとお春を睨みつけた。

「バカヤロー!」

 お春に一言だけ怒鳴って目覚めぬトキを介抱する。

 お春は、コウスケの怒号に一瞬肩をピクリと震わせて驚き、数歩後ずさってから急に身を翻すと、二人の前から走り去った。

 朱鷺は両手の拳を握り締め、お春のあとを追いかけた。

 あの時、朱鷺は、緊張の余り貧血で倒れたことをやっと思い出した。目覚めた時には病院のベッドの上だった。今の光景は全く覚えがない。お春があの場にいたことも。

 ──なるほど、意識の底にお春の顔は潜り込んでいたのか!

 ようやく全ての謎が解け、朱鷺は合点した。

 爺さんをホテルへと罠を仕かけ襲いかかったのは、2回目のデート、1975年(昭和50年)12月8日月曜日だ。  

 ──月曜日!

 やはりそこんとこだけは記憶違いではなかった。

 ──ボケてなどいないのだ、ざまあみろ!

 と声高に叫びたい気分だ。だが、自分としたことが、とんだ勘違いであった。ともするとお春の毒牙に若い二人を巻き添えにしかねなかった。

 ──ま、それはトキの美貌で寸でのところで免れたわけだし……

 ──この際なかったことにしようでねえの。

 と朱鷺はどこまでも前向きの姿勢を崩さない。己の失態は誰も手の届かぬ棚に上げ、朱鷺は真っ直ぐ前を向いて逃亡者を追跡する。

 お春の背を追いながら、沸々と怒りは頂点に達する。

 ──目に物見せてやる!

 朱鷺の頭の中で、お春をズタズタに切り刻むイメージが湧いた。と同時に安堵の笑みが漏れる。若い二人の行く末はこれで安泰というわけだ。何はともあれ、己自身が仲を取り持ったこの恋の顛末は、これにてひとまず終劇のくだりだ。

「メデテエやい!」

 朱鷺は思わず叫んで飛び跳ねていた。



†††「九太郎参上!」††† 


判定:ステージ1クリア


   次のステージへ飛べ、朱鷺よ! 



         《恋愛成就編 制覇》

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