◆27 張り込み──ついでに船村巡査と遊びましょ!

【7日目】1975年(昭和50年)11月27日木曜日


 早朝の街は空気が澄んでいる。

 大通りに出てもまだ今の時間帯では車の台数は少なかった。

 朱鷺は早起きすると朝食の支度を済ませ、寝息を立てるコウスケをそのままにしておき散歩に出た。巣籠もり線を北へ歩きながら大きく息を吸い込む。さすがに空気は美味うまい。今朝はすこぶる気分もいい。ふと空を見上げると、東の方からうっすらと白み始めている。

 ──天高く晴れ渡って、今日も一日好天にちげえねえやい。

天晴あっぱれ~!」

 夕べ事の成り行きをコウスケから聞いた。

 トキはコウスケと映画に行く約束を取りつけただけだ。実際と何ら変わりなかった。過去は朱鷺が経験したようにしか、今のところは流れてはいない。

 ──だが、オラ自らがかかわらなかったなら……?

 ──この時代に介入しなかったとしたら……?

 ──なーんも進展はなかったはずでねえか!

 そういう意味で満足はしている。

 ただ、気掛かりなのは、お春が二人の仲を知ったことだ。

 ──なにかちょっかいでも出しはすまいか?

 少々心配だ。

 ──だがよ、そん時にはオラがなんとかしてやるで!

 拳を握りしめ、固く決心した。

 まだ暗いうちから街なかを歩き回り、二時間は経っただろうか、朝日が長い影を落としていた。街並みが、景色が、明瞭に目に映った。  

 朱鷺はのっそりとその場を離れ、路地を大通りへ抜け、メジロ石油から駅方面へ三つ目の交差点の角でコウスケを待つことにした。

 歩道の端で屈伸運動をしながらしばらく待っていると、コウスケが目の前を通りすぎた。こちらに気づく様子はまるでない。いっときその様子をうかがってからコウスケのあとを追った。追いついて横に並ぶと顔を覗き込む。

「浮かねえ顔だな?」

「なんでもねえ……」

 コウスケは視線を落としたままうつろな目をしている。

 朱鷺は黙って並んで歩いた。しばらく行くと、コンクリート塀にでかでかとメジロ石油のロゴが目に入ってきた。ロゴの真下に黒い人型が浮かんでいる。

 ──女だ!

 ──女が立っている!

 全身黒い皮のツナギを身にまとい、右手には真っ赤なフルフェイスタイプのヘルメットを握っていた。風に長い黒髪がなびく。乱れ髪が顔を覆うと、すかさず左手でかき上げながら。

「お春だ!!」

 さっきまでの爽快な気分も一気に吹っ飛んだ。

 朱鷺など意に介する様子もなく、ただコウスケだけに視線を浴びせかけている。

 朱鷺は、お春を無視しながらキッと前だけを睨んで通りすぎようとした。ふと横を見た時、コウスケの姿はなく、朱鷺の後方でお春と相対していた。朱鷺はあと戻りして、少し離れた所から二人の様子をうかがった。

「春乃さん……」

 お春はコウスケの声を聞いてから一度睨みつけ、横に止めたオフロードバイクにまたがってエンジンを吹かした。

 コウスケはお春の方へ歩み寄ろうと一歩を踏み出した。と、お春はコウスケの行動を確認するとメットを被り、塀沿いの細い路地を右折して歩道にバイクを乗り上げた。アクセルを全開にすると、コウスケめがけ突進した。寸でのところでブレーキをかけ接触は免れた。コウスケはその間微動だにしなかった。

 お春の声が聞こえてくる。メットの中にくぐもってはいたが、はっきり朱鷺には聞き取れた。

「許さない!」

 お春の肩が小刻みに揺れている。

 ──なにがおかしい!

 朱鷺はどうにも我慢ならなくなった。

 ──お春め、思い知らせてやる!

 激しく鼻息を吐きながら自然と足は駆け出していた。

 コウスケはしばらくバイクの前に立ちはだかっていたが、ゆっくりと歩道の端へと移動した。

 朱鷺はバイクのシートに手をかけようとした。だが、間に合わなかった。バイクは目の前から猛スピードで遠ざかって行った。朱鷺は舌打ちするとコウスケを睨みつけた。

「春乃さん……泣いてた……」

 コウスケはバイクの軌跡を悲しげな目で追い続ける。

「なにやってんだ!」

 憤怒を全身で撒き散らしながらコウスケに詰め寄った。「あいつが泣いてただと……目を覚ましやがれ! どこまでトンマなんだ!」

 コウスケはゆっくりと朱鷺の方を向いた。何も答えない。もう一度、お春が去った場所をいっとき見つめてから歩き出した。朱鷺が何度声をかけても振り向きもせず、そのまま事務所の中へと消えてしまった。


   *


 朱鷺の怒りは頂点を極めた。煮えたぎった頭から今にも噴煙が噴出する勢いで、怒りのマグマは腹の底から胸元を突き抜け頭頂部に上り詰める。

 怒りも頂点に達すると鎮める方法は一つしかない。朱鷺は藤野商店に走った。

 あんパンと牛乳を買い込んで交番へと通りを横切った。急ブレーキの音や罵声が飛び交う。

 ──そんなことなど知ったこっちゃねえ!

 交番の中へヅカヅカ入ると、入り口に折り畳み椅子を据えて腰かけ、メジロ石油の張り込みを始めた。

 あんパンを一挙に六つむさぼり、牛乳で胃袋へと流し込んだ。最後の一つに手を伸ばした時、自転車の止まる音がした。巡査が巡回から戻ってきたらしい。

 船村は中へ入ろうとして三歩後ずさると警棒に手を添えた。入り口に陣取って睨みを利かす朱鷺に気づいたのだ。

「なにやってんだ? まあ、入れや!」

 どすの利いた声で相手を威圧する。

「は、はい。ありがとう……ございます」

 船村は首を捻りながら当惑気味に答えた。

「ご苦労!」

「お、恐れ入ります」

 丁寧な物言いとは裏腹に、警戒心剥き出しの顔だ。

 ──鷹鳥町の行く末は安泰だ!

 警官らしく頼もしい面構つらがまえに、朱鷺は安堵した。つんつるオツムはこの際大目に見てやって、この町の暗部を照らしてくれるよう切なる祈りを捧げる。

 船村は朱鷺の横を手刀を切りながら中へ入った。

「ちょっくら失礼をばしとるよ」

 船村を一瞥して声をかけ、すぐさま張り込みを続行する。

 背後で椅子を引く音が聞こえた。背中に船村の蚊の刺すような視線を感じるが、ちっとも気にならない。痛くも痒くもない。

 最後の一つを味わいながら食らった。舌鼓を打ち牛乳で喉を潤す。終わりの一滴まで絞り尽くすと、牛乳瓶の口をグルリと舐め回した。ビンを床に置いて、あんパンの袋を一つずつ息で膨らませ、力を込めて叩く。パンッと7回ともいい破裂音が響いた。怒りの解消法の一つだ。それが済むと袋を全て丸めて牛乳ビンに詰め、立ち上がる。体ごと後ろに向き直り、船村を見つめた。

 船村も腰を浮かせては座り直し、何度も迷いながらも結局朱鷺につられ直立不動でこっちを見下ろす。

「な、なにか?」

「ゴミ箱はどこでしょう?」

 朱鷺は長身の船村を見上げながら、牛乳ビンを自分の目線にかざした。

 船村の動きは機敏だ。すぐにこちらに歩み寄ると、朱鷺からゴミを受け取りゴミ箱におさめる。いちいち動きに無駄がない。

 定位置に戻った船村を机越しに見上げ、朱鷺は感心して大きく頷く。一瞬だけ入れ歯を引ん剥いてニッと笑って、また表情を強張らせる。

 船村も表情を緩めたが、すぐにピクリと体を痙攣させキリッとした顔を作る。

 朱鷺は凛々しい船村に敬礼で感謝の意を表した。船村も体を硬直させ、気をつけで敬礼を返す。朱鷺は回れ右で直り、腰を下ろしてまた入り口を塞いでコウスケの様子をうかがう。


   *


 ケダモノの声が聞こえる。朱鷺は思わず目を見開いた。目玉をグルリと回し状況の把握に努める。日差しが顔に当たって眩しかった。既に太陽は高かった。

 ──ここはどこだ?

 しばらく状況をつかめなかった。仕方なく腕を組み、肛門にストローを突っ込まれ息で腹が破裂寸前のかわずの気持ちになってみる。朱鷺の腹も今しがた食したあんパンでパンパンに膨らんだばかりだ。我が肛門から脳天へ突き刺した心棒と、上頸部と頭頂部を結ぶ軸を平行に保ちつつずらし、左右交互に首をグルグル回転させてみる。

 ようやく状況を飲み込むことができた時、いつしか眠っていたことに気がついた。ケダモノの声だとばかり思っていたものは、自分のイビキだった。

 ──太陽があんなに高いということは……

 ──もう昼なのか?

 ──しまった!

 朱鷺は後悔した。

「うわああーっ!」

 無意識のうちに叫んで表に飛び出していた。

 交番の中から、ドタンと何かが倒れる大きな物音が聞こえたが、今はそれを探る余裕はない。コウスケの姿を捜す。コウスケはスタンドにはいなかった。通りの左右を注意深く確認すると、コウスケの背中が目に飛び込んだ。サンクチュアリの方角へ歩いている。

 朱鷺は交番の中へ入り時計を確認する。とっくに12時をすぎていた。

「あいたーっ!」

 船村の声が聞こえた。朱鷺の足元にハゲ頭が現れた。船村は四つん這いで床を這いつくばっている。

「どうしたんだ?」

「び、びっくりして……おバアさんが、いきなり……叫ぶから」

「あんた、愉快な人だなあ……人を心底笑わせるなんぞ、誰にでもできる芸当でねえよ」

 朱鷺はつくづく感心しながらしばし船村を見下ろした。

 船村は四つん這いのまま尻をさすっている。と、両膝をついて上体を起こし、照れ笑いを見せながらこちらを見上げた。

「イテテテテ……」

 ──さては、椅子から落ちたな……

 さっきの物音の謎は解けた。

 朱鷺は船村の前にしゃがみ込み両膝に頬杖をつく。上目遣いで船村の顔を見つめ、体を前後に揺らし始めた。静止するとゆっくり立ち上がった。手を後ろ手に組んで中腰になり船村を見下ろす。唐突に顔を寄せると、鼻と鼻がぶつかりそうになった。朱鷺は口角を引き上げた。

「イーッヒッヒッヒッ……」

 前後に首を振りながら白目を引ん剥いて、朱鷺は金切り声でさえずった。

「ウウウッ!」

 船村は咄嗟に後ろに手をついてのけ反った。その時、机の角で頭頂部を思いっきり打ちつけた。船村は両手で頭を抱え込み床にうずくまる。

 船村の頭を覗き込むと、指の隙間から縦に3センチほどの窪みが、肉づきのいい頭の丁度テッペンにくっきりと浮き出ていた。と、次第に薄らと血が滲んでくる。何とも痛々しい。

 朱鷺はふと思い出した。犯人と格闘した時の名誉の傷だ、と船村は吹聴していた。真面目な船村の言葉を、誰一人として疑う者はなかった。

「あんた、ウソはいけねえよ。ウソつくのは泥棒だもの。あんたは警官でねえか。けんど、まあ、恥ずかしくって本当のことはとても言えねえよな。大目に見てやっか……」

 朱鷺は手を伸ばして、終生消えることのないハゲ頭の傷をそっと人差し指でスウッと手前になぞってみた。すると、船村は悲鳴を上げ、上体を起こし立ち上がろうとしたが、前方につんのめると床に額を打ちつけた。両手はもちろん頭頂部を押さえていたので、額で体を支えるしかなかったのだ。膝をピンと伸ばし、尻を天高く突き出して『へ』の字を作ったまま、呻いている。

 もう一度傷をなぞった。今度は少し力を込めて指を往復させてみた。そしたら船村は『へ』の字のまま子供のように地団駄を踏んだ。

 朱鷺は泣き叫ぶ船村をそのままにして静かに交番を出ると、コウスケのあとを追いかけた。


   *


「またカレーか? 毎日毎日よく飽きねえな……」

 いつもの席に座るや開口一番、朱鷺はコウスケの食生活に難癖をつけた。

 コウスケは黙々とスプーンで土手を崩しながら口に運ぶ。食べ終わるまで一言も口を利かなかった。水を一気に喉に流し込むとコップを置いた。

「なんか用か?」

 コウスケは思い詰めた顔を向けた。

「どうしたんだ、お春になんか言われたか?」

「辛えんだ……」

 首を横に振り振り、がっくり肩を落とす。

「誰が?」

「オレが」

「なして?」

「罪だよなあ……」

 一旦顔を上げたコウスケは、愁いを帯びた表情でまた視線をテーブルに落とす。

「人でも殺したか?」

「できるか!」

「なにが、どうなって、そうなんだ?」

「オレが」

「なして?」

「好かれて」

「誰に?」

「二人の女に」

「誰に?」

「春乃さんとあの娘に」

「それで?」

「辛え!」

「なして?」

「モテすぎて」

「誰が?」

「オレが」

「誰に?」

「バアさんよ。オレに喧嘩売ってんのか!」

 コウスケは声を荒げるとまたすぐにうな垂れる。「ああ、色男は辛えなあ……」

「おめえ、鏡持ってるよな?」

「鏡?」

「鏡、覗けば疑問はピタリと解決よ」

「なんで?」

「おめえは色男でもなーんでもねえ。断言してやる」

「二人の女から思われてんだぞ!」

「二人だけだろうが。ほかにはいねえよ、とんだ勘違いだ」

「なんで?」

「おめえな、ええか。つらでねえよ。おめえのええとこは、誰にも分け隔てのねえとこさ。優しい心根だからよ。面はお世辞にも、ええとは言えねえ!」

 朱鷺はコウスケの顔をまじまじと見つめ大きく頷く。

「なんだよ!」

「トンマ顔だ!」

「トンマ顔……だと!」

「男は見たくれでねえのさ」

 コウスケは窓の方へ寄った。明るすぎて微かにしか映らない己の容姿を、ガラスの向こうに透かして見る。一度納得したように頷くと、朱鷺の正面に座り直し、片手を上げて掌をこちらに向け、手を振ってきた。朱鷺も手を振って応えてやる。コウスケは人差し指を突き立てる。そして中指も仲間に入れVサインを送ってきた。朱鷺もVサインを送り返す。

「バアさん、見えるのか?」

「あたりめえだ」

「これなん本だ?」

 コウスケは薬指をもう一本突き立てた。

「三本だ」

「老眼だろ?」

「そうだよ」

「よく見えるのか?」

「おめえバカか。老眼っちゅうのは遠くはよっく見えるんだ」

「そうか?」

「なしてだ?」

 コウスケは窓の方を向いて顎をさする。

「自分で言うのもなんだけどさ。オレって、歌舞伎役者並みだぜ」

 窓ガラスにあらゆる角度で己のトンマ顔を映し、眉をひそめて気取ってポーズをとる。

 朱鷺は口をポカンと開けて、しばらく身動きできず阿呆の顔を眺めた。よだれをすすって我に返り口を閉じる。

「本気……じゃ、ねえよな?」

「本気も本気! オレって母性本能くすぐる顔してんだな、きっと……」

 御本人は腕を組み大きく頷いて納得顔だ。

「めでてえ脳ミソしやがって……」

 朱鷺は呆れ返って言い放った。「幸せなヤツだ、全く」

「幸せだ!」 

 コウスケは真顔でうな垂れる。「でも、罪作りな男だ、全く」

 こんな阿呆はほっとくのが一番だ。

 ──そのうち悟るだろう。

 朱鷺は店内を見回してトキを捜した。

「いねえなあ?」

「あの娘か?」

「ああ……」

「今日は昼からだってさ。もうすぐ出勤してくるって」

「おめえ、誰かに聞いたのか?」

「ああ、注文取りにきた子に……」

「ほほう、やっぱし気になったのか?」

 朱鷺の声は弾んだ。

「一応はな」

「コーヒーでもたのむか? おごってやるぞ」

「そうか……ん? あっ、やめとく」

「なして? オラがせっかく……」

「くすねた金じゃねえか」

「借りただけだ!」

「いつ返す?」

「そのうち」

「いつ頃?」

「返すって言ってんだろ! 泥棒見るような目しやがって、コノヤロー!」

 朱鷺は立ち上がって怒鳴った。「男のくせに細けえことぬかすな!」

 客が一斉に二人に振り向く。コウスケはビビリまくった様子で、両手で頭を押さえ椅子の上で膝を丸めた。

「わ、分かった、落ち着け、座れって……」

 朱鷺は舌打ちしながら、コウスケの言う通りにしてやった。

「コウスケさん、こんにちは」

 トキの快活な声が朱鷺の背後から飛び込んできた。

 コウスケはトキに、右斜め下方から左斜め上方へと、流し目で挨拶を返した。

 トキは二人のテーブルの横を通りすぎ、奥のテーブルで注文を聞いている。注文を取り終えると、わざわざ遠回りでこのテーブルの横を通ってコウスケの方をチラリと見ながら戻って行った。

 さっきから注意深くコウスケの様子をうかがっていたが、トキを見る目が心なしか以前とは違うような気がした。たぶんトキに引かれ始めた、トキめいてきたに違いないとピンときた。

「で、どうなんだ?」

「ん、なにが?」

「あの娘とうまくいきそうか?」

「ハハハ、いい娘だよな、トキちゃんって……」

 ──トキちゃん、ってか!

 ──名前で呼んでくれるのか?

 ──ええぞ、その調子だ! 

 朱鷺の表情は崩れ出した。自分でも制御し切れない。

「イーッヒッヒッヒッ……」

「うえっ!」

 コウスケは顔を窓の方へ背けた。「人間の顔じゃねえ……」

 朱鷺は聞き流してやった。

「よっ、この色男!」

「へへへ……そうだろ? やっぱ、そうだよな。オレって怖えよな。罪作りな男だ、全くよお……」

 コウスケはニヤけ顔で小刻みに首を縦に揺らして納得しながら、顔をこっちに回転させた。

「勘違いだけどよ、ま、大目に見てやっか」

 ふと顔を上げると、朱鷺の目にトキが映った。前方からこちらに歩いてくる。

「コウスケさん、おさげしますね」

 トキはカレー皿を銀盆に載せると、メモを代わりに置いてコウスケにウインクした。コウスケもニンマリと目尻を垂らしてトキと視線を合わせる。

 ──コイツも満更でもないようだ。

 朱鷺の目にコウスケはそのように映った。

「『今度のお休みはいつですか? 私はあさっての土曜日があいてます。トキ』 さあどうする?」

 コウスケは表情を強張らせ、一瞬黙りこくった。

「おい、また見たな! それとも、バアさんの差し金か?」

「とんでもねえ、勘よ」

「全く、油断も隙もあったもんじゃねえや」

「オラ、見てねえって!」

「もういいや」

「おめえ、決めんだぞ!」

「なにを?」

「ちゃんと襲うんだ!」

「バ、バカヤロー……できるか!」

「そうはいかねえ、ま、開けてビックリ玉手箱だ。なんも言うまい」

「わけ分かんねえ……」

 コウスケはまたソッポを向いた。

「おめえ、あさってどうすんだ? 休み取るよな?」

「さあ、どうだか」

「ハテ? オラ、初めてのデートで……襲ったっけか?」

「バアさんよ、男を襲ったのか! すげえことするな」

「土曜の夜だっけかなあ? オラ、てっきり月曜日だとばかり……70年前だもんな、オラの思い違いだったのかなあ?」

 朱鷺は記憶を引っ張り出そうと足掻あがいた。だが、どうしても朱鷺の頭の中と食い違う気がして、胸辺りにもやがかかり、すっきりしない。

「めんどくせえ!」

 突然、一言叫んで、口から胸のモヤモヤを遥か彼方へと吹き散らした。

 コウスケは立ち上がると、テーブルを離れようとした。

「便所か?」

「帰るんだ」

「どこへ?」

「仕事場」

「そうか、オラも行く」

 朱鷺も腰を上げ、あとを追う。

 コウスケがレジの前に立つと、すかさずトキが現れた。コウスケは500円札をトキの手に渡した。釣りを受け取り精算を済ませ店を出ようとしたコウスケを「お待ちになって!」と芝居じみた口調でトキは呼び止める。

「夕方、寄ってもいいかしら?」

 トキは恥じらいを見せる。

 ──我ながら名演技だウッシッシ!

 朱鷺は改めて感心する。

「いいよ、じゃあ」

 コウスケは振り向き様低い声で一瞬だけニヒルな笑みを作って顎を引き、左肩越しに流し目でトキに視線を送った。右手の人差し指と中指を二本立て、眉毛の上につけ敬礼すると、トキに背を向けドアを押し開ける。外に出ると、ツナギの胸ポケットから銀色の櫛を出してリーゼントを整え、それをまた元に戻す。両手をツナギのポケットに突っ込んで背を丸め、リズミカルに肩を揺らしながら一直線上に気取って足を運ぶ。

 ──顔に似合わねえことしやがって、コノヤロウ!

 朱鷺は、ケツでも蹴り上げたくなったが、ここは我慢してコウスケのケツを見つめながら後ろを歩いた。


   *


「じゃまするよ」

「はっ!」

 船村が立ち上がってピストルに手を添えた。

 朱鷺は机の上に一抱えの菓子パンをドサッとぶちまけた。モンペの左右のポケットから牛乳とコーラを一本ずつ出してそれらも机に置いた。

「ちょっくら借りるよ。あんたもどうだい?」

 朱鷺はあんパンを一つ船村に差し出した。「遠慮はいらねえよ、たくさんあるからな。腹が減っては職務遂行は無理じゃろ?」

「はっ……お、恐れ入ります」

 遠慮なく素直に行為を受け取った船村は、頭を下げると早速袋を破ろうとする。

「汚職?」

 朱鷺は穏やかな口調で首を傾げる。「──にはなんねえよな?」

 何か疑惑でも抱いたのか、船村の動きが一瞬止まった。船村が思考を巡らさぬうちに間髪入れず、朱鷺が満面の笑みで強く勧めると、どこか戸惑いつつも行為を快く受け取った。

「あ、ありがとう……ございます」 

 まなこを天井に向け、首を捻りながらまだ幾分腑に落ちぬ表情を見せる。

「収賄!」

 腹の底から叫んでみた。「なーんちゃって!」

 船村の巨体が地べたから跳ね上がり、手にしたあんパンは机上に転がった。

 あんパンが三つ、ジャムパンが四つ、クリームパンが二つ、モスラ(コロネ)が二つ、机上一面に広がる。

 船村が落としたあんパンを拾って、朱鷺は何度も勧めたが、船村は頑として拒否した。

「け、結構ですから……」

「遠慮せんでもええのに」

 不安を取り除いてやろうと、小声でウインクしてやる。「オラ誰にも言わねえよ。口は堅えんだ」

「い、いいえ、結構です……」

 船村は遠慮がちにしきりにイヤイヤをする。

 ──なにをおびえてやがる?

 ──それならば!

 朱鷺のイタズラ心が疼き出す。

「これでなんか買って食いなよ。ほら、手出して……」

 千円札をモンペのポケットから抜くと、船村に差し出した。と、たちまち船村は青い顔をして受け取らないものだから、仕方なく制服のポケットに突っ込んでやった。

「い、いけましぇーん!」

 今度は、悲鳴を上げながら摘まんで放り投げる始末だ。伊藤博文はヒラヒラと机上に舞い降りた。

 朱鷺は再び手にすると尚も差し出してみる。船村は手を後ろに組んで首を横に振る。激しくイヤイヤをするが、心とは裏腹のはず。

「オラの好意を……はぁーん、無にするってえのか!」

 一喝して睨みつけたら、船村はビクッとして、後ずさった。壁に背中と頭をぶつけ、その拍子に帽子が滑り落ちる。

 ──さもありなん、滑りのええつんつるオツムなのだから……

 朱鷺は大きく頷いて納得した。

 船村は両手で帽子をつかもうとしたが、つかみ損ね、あえなく床に落下した。それを拾おうとして、しゃがんだ時、木製の椅子の背の縁で右の眉毛の上をぶつけて手を添える。しばらく突っ立ったまま患部をさすって、椅子の背と机の縁に手を当て、今度は俯かず顔を上げたまま注意深く腰を落として確実に帽子をつかみ頭に載せると、ゆっくりと立ち上がった。無駄な衝突は避けられた。

 ──さすが警官、学習能力は猿よりも勝るな。

 感心しつつ、朱鷺は笑いを堪えながら千円札をモンペのポケットに押し込んだ。

 折り畳み椅子を入り口に用意して片手にコーラ、もう一方の手に菓子パンの群れを引っさらうと、船村を一瞥してから腰を下ろし、入り口を占拠する。と、堪え切れず声高に笑いながら袋を破りかぶりつく。

 モスラのケツからべっとりと朱鷺の手に茶色い臓物ぞうもつが飛び出した。それを舐め、綺麗に舌で拭き取ったあと、次のに取りかかる。

 ──今日は長丁場になるぞ。

 覚悟を決める。

 ──まあ、昼飯も3時のおやつも用意したし、文句はねえ。

 朱鷺は椅子に腰を深々と落ちつけた。

 モスラ、ジャム、クリーム、あんを一つずつ平らげ、もう一匹のモスラを狙う。注意深くモスラの細い方からクルクルと口で解いて、最後にたっぷりとチョコクリームを頬張って舌鼓を打った。懐かしい味だ。これだけでも買って帰ろう、爺さんにも食わしてやりたいと思う。爺さんの好物だったから。だが、爺さんはこの世にはいないのだった。

 ──なして死んだんだ、チクショウ!

 心の中で朱鷺は叫んだ。それにしても、モスラはうまかった。

 藤野商店で借りた栓抜きでコーラの栓を抜いて、一息で飲み干す。直後、「ガーッ」と雄叫びを上げる。ゴジラか、と自分でも驚くほど大きなゲップだった。背後でゴトッと音が聞こえた。聞き耳を立てる。コーラ瓶をそっと床に置く。

「だ、る、ま、さ、ん、が……」

 朱鷺は少しだけ腰を浮かせ、態勢を整えた。「ころんだ!」

 叫びながら立って後ろを向く。

「なにか?」

 船村は机の縁を両手でしっかり握ってニヤッとする。

「はあ、どうも……」

 座りながら朱鷺は笑顔で頭を下げる。

 ──どう料理してやろうか?

 どっしりと尻を椅子に落ち着けると、頭を捻る。

 振り向くと、船村が残りの菓子パンを差し出す。

「もう、よろしいんですか?」

 したり顔だ。

 朱鷺は微笑んで、も一遍頭を下げると、背もたれに背を押しつけ、腕を組んで空を見上げる。

「あんたは、ホンに、ええ人だなあ……」

 朱鷺は耳をそばだてる。

「いいえ、それほどでは……」

 船村の声のトーンは自信に満ちた響きだ。

「確か、名前は……龍介か龍司? 苗字は、分かんねえ、忘れた。ま、ええ、カマかけてみっか……」

 朱鷺はモゴモゴと独りごちた。

「なんです?」

 船村が尋ねる。快活な声だ。

 朱鷺はグルリと首を回し凝りを解すと、徐に足を組んだ。

「あんたのこと話しとくからな」

「どなたに……です?」

「そりゃ決まっとるわな。龍ちゃんだ」

「りゅうちゃん……ですか。どなたです?」

「オラのおいっ子だ。あんた刑事志望だったよな?」

「はい、それが?」

「龍ちゃんが、なんとかしてくれるかもしれねえし……」

「ええっ、どうしてです? ハハハ……」

 船村は声高に笑い出す。

「龍ちゃん知らねえのか! あんた、警官だろ?」

「おバアちゃんの甥子さんでしょ、私が知るわけが……」

「いんや!」

 朱鷺は船村の言葉を遮って叫んだ。「知らねえはずは、ねえ!」

「どうして?」

「県警のトップって誰だ?」

「本部長ですが……」

「名前は?」

鳥飼龍太郎とりかい りゅうたろうです」

 ──ああ、龍太郎か!

 朱鷺は思い出す。

「そういうこった」

「それがなにか?」

「分からねえのか?」

「はい、全然……」

「あんた、龍ちゃんのこと知ってるのに……おかしな人だなあ」

「りゅうちゃん?」

「そうだよ」

「りゅう……ちゃん。龍太郎? 鳥飼龍太郎……りゅうちゃん?」

「そういうこった」

 朱鷺の耳に椅子が倒れる音が聞こえた。

「し、失礼しました!」

 ──振り返るまでもないが、応えてやらねばなるまい。

 朱鷺はゆっくり立ち上がって船村の方を向く。凛々しい敬礼姿の船村に敬礼を返した。と、船村ももう一度胸を突き出して敬礼をし直す。

「よーし、もうええぞ。なおれ!」

「恐れ入ります!」

 船村は手を下ろした。パタンと音を立て、ズボンの縫い目に沿って指を伸ばす。直立不動で視線は一直線上を見る。

 朱鷺は机の傍まで歩み寄り、机上の牛乳をモンペのポケットに落とす。残りの菓子パンは全てブラウスの襟から押し込んだ。袋の角が腹に突き刺さり痛痒いが、この際気にすまい。折り畳み椅子を入り口から机の横に据えて表に出た。入り口付近に立って、船村と対峙する。大きく息を吸って、一気に腹の底から叫んだ。

「なーんちゃって!」

 朱鷺は拳で天を突きながら勝ち鬨を上げた。「えい、えい、おう!」

 船村は帽子を脱ぐと、頭を撫でた。傷に手が触れたのか、顔をしかめる。激しく顔をこすって帽子を被った。ゆでダコのように真っ赤だ。目も血走っている。いきなり帽子を机に叩きつけた。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。朱鷺を注視したままで。と、折り畳み椅子を蹴っ飛ばし、椅子は床にバタンと折り畳まれた。椅子のパイプに爪先を引っかけたことにも気づかず、尚も船村は足を前に出す。そしたら足を取られ前方に倒れ込んで、両手を床についた。そのまま足に絡みつく椅子を外そうと、犬のようにケンケンと片足を上げる。椅子も踵に引っついて持ち上がる。船村は無防備にもハゲ頭をこっちに向けている。

 朱鷺はすかさず船村の傍へ寄った。相手は目前の朱鷺にまだ気づいていない。そっと手を伸ばし、頭頂部の傷を人差し指で、渾身の力を込めてグイッと手前に滑らせた。時間をかけて丁寧に、行ったり来たりを繰り返してやった。摩擦で指が温かくなる。

 船村は悲鳴を上げながら両手で頭を防御した。が、朱鷺は隙を衝いて、わざわざ船村の手を持ち上げてやり、もう一度指を往復させ船村を撃沈した。

 後ずさり、外に出るや一目散にその場から逃亡を企てた。

「チクショウ! くたばれー! クソババア!」

 交番の中から船村の警官らしからぬ怒声どせいが漏れてきた。

「やっぱ、船村さんはええ人だ」

 朱鷺は笑いを抑えるのに苦心しながら歩いた。愉快な昼休みは終わった。「さてと、お春のヤツ、現れねえみてえだな……」

 朱鷺は大欠伸をすると、公園へ足を向けた。ベンチで一眠りして、またこようと決めた。

 公園への道すがら残りの菓子パンを六つとも平らげ牛乳を半分ほど飲むと、ノラ猫の鳴き声がした。俯いたら三毛の子猫が一匹足元にすり寄ってくる。朱鷺はしゃがんで牛乳を少しずつ掌にこぼし子猫に舐めさせる。ふと、空き地の隅を見ると、母猫がこっちをうかがって唸り声を上げる。みどり公園の一角を縄張りにしている三毛のメス猫だ。普段はおとなしいヤツだが、こいつもやはり母親だな、と朱鷺は親猫の心情を慮ってやる。子猫は母猫の心配をよそに朱鷺に甘えながら牛乳をせがんできた。朱鷺は全部なくなるまで与えてやると、大きく伸びをして公園へと向かった。


   *


 西の空に日の名残はあるものの辺りは既に暗がりだった。

 ──昔はこんなに暗かったのか……

 自分の生きる時代と比較してみる。今では夜中でも明々と街灯がともり昼間同然だ。暗がりなどどこにもない。ここも眠らぬ街に変貌を遂げている。

 昼寝のあと、朱鷺は大欠伸をすると公園を出て、コウスケの勤務先へと急いだ。

 メジロ石油までくると、コウスケはまだ仕事中だった。通りすがりのサラリーマンに時間を尋ねる。7時をすぎていた。朱鷺はコウスケの傍まで歩み寄り、声をかける。

「ご苦労だな。おめえは働き者だな」

「おう……」

 振り向き様コウスケは仕事の手は休めずこっちを見る。「なにしてた?」

「散歩だ。邪魔はしねえよ」

「今日はもうあがりだ。待ってろ」

 朱鷺は歩道沿いのコンクリート塀の角に、言いつけ通りおとなしくしゃがみ込んで待った。程なくして私服に着替えて現れたコウスケと肩を並べて帰途に就いた。

 しばらく歩いていたら、コウスケが何度も後ろを振り返る。

「どうしたんだ?」

「うん、いや……」

 朱鷺も歩きながらコウスケの視線の先をうかがった。

「誰かいるのか?」

「気のせいか……?」

 コウスケは首を捻る。

「警察か?」

 コウスケの顔を覗いて笑う。「なんかしでかしたか?」

「そんなわけねえだろう!」

「そうだな、そんな度胸はねえな」

「バカにしやがって!」

めとんのよ。悪事働く度胸なんぞいるか! おめえは善良な小心者よ」

 真顔で大きく頷いた。

「ん? 褒めてくれてんだよな?」

「そうだよ」

「なーんかそんな気しねえんだよな……」

「素直に喜べ。ケツの穴の小せえのは一生もんよ」

 高笑いで善良な小心者を慰める。

「ほっとけ!」

「おめえ、あさって、どうすんだ?」

「社長が休みくれた。昼からだけどな」

「そうか、やっぱ映画だよな?」

「約束したしな」

「おめえ、あの娘のこと……」

「いい娘だよな……」

 トキの話をするコウスケの声が、心なしか弾んでいるように朱鷺には聞こえた。同時に気のせいかもしれない、とも案じる。

「そう思うか?」

「なんだか、前にも会ってるような気がしてな」

 コウスケは星空を見上げながら唸って考える。「誰かに似てるような……」

「ふーん」

 己の顔を朱鷺は向けてやる。目と目が合う。

「時々よ、バアさんと見間違えるんだ。あの娘の顔がバアさんに見えてよ。目引ん剥いて見ると、可愛い顔してんだ。けど、なんでだ? 怖えよなあ……もしかして、オレに催眠術かけてねえか?」

 視線を重ねたままコウスケは不振そうな目つきで朱鷺の顔を覗き込んできた。

「オラ、そんな芸当持ってねえよ」

「だったらなんでだろう、不思議だよな?」

 腕を組んで考え込む。

「あたりめえだ。本人だもの」

「はあ?」 

 コウスケはしかめっ面を見せた。「また、わけ分かんねえことを……」

「それより、おめえ、あの娘のこと好きか?」

「い、いやあ……そのう……そりゃあ……どうだろう?」

 こちらに照れ笑いしながら首を傾げるだけで、煮え切らぬ返答しかしない。

「運命だ!」

 その態度に業を煮やした朱鷺は言い放った。

「う、運命?」

「間違いねえ! おめえ、前に会ったことある、と言ったよな」

「ああ、そんな気がする」

「前世から二人はつながってんだ!」

「前世……」

「そうだよ、デジャヴーでねえよ。確かに、おめえ達は生まれ変わって、また出会ったんだ!」

「そんなこと……」

「ある。ある! 絶対にある!」

 コウスケの言葉を制して、朱鷺は強い口調で断言した。次第に朱鷺は興奮し、発言の語気は強くなる。

「そうか?」

 コウスケは何度も首を捻りながら呟いた。「不思議だな、信じられねえけど……」

「おめえ、逃げられると思うか?」

「誰から?」

「運命からだ!」

「運命って変えられねえの?」

「そんなこたできねえ! 生まれる前から決まってんだ!」

「ホントか?」

 また怪訝な顔でこっちを見る。

「おめえ、小指出してみろ、ホレ」

 朱鷺は自らの小指を立ててコウスケを促す。コウスケが渋い顔で言うことに従って小指を立てると、朱鷺はその指に自らの小指を絡ませた。

「なにしてんだ?」

「分かるか? つながってんだぞ!」

「ああ、オレ……と……バアさんか?」

「そうだ、おめえとオラは赤い糸で結ばれて一生離れねえんだ!」

 朱鷺はコウスケに強烈な熱い視線を送る。

「い、嫌だ! 離せ、離せって!」

 コウスケは指を切った。「気持ち悪いだろうが! なんでオレがバアさんと赤い糸なんだ!」

「ああーっ、めんどくせえ!」

 朱鷺が怒号を上げると、コウスケの体はピクリと物理的反応を示す。

「大声出すな、ビックリするだろうが!」

「あのな、あの娘とおめえは赤い糸なんだ!」

「そう言え! 紛らわしいことしやがって」

「初めっから言ってるでねえか、全く、トンマ!」

「すぐこれだ。てめえが間違えてんだろうに……」

 コウスケは明後日の方を向く。「嫌だねえ、ボケ老人はよ……」

 コウスケの放った言葉は尻すぼみに小さくなって、仕舞いには口の中で何やらボソッと呟いた。こっちには聞こえまい、と高を括っているようだ。が、

 ──そうは問屋が卸すかいなアンポンタン!

 とばかりに咄嗟に両手を耳の後ろに当てがってアンテナをコウスケの方へ向けると、声の振動を拾うことに集中した。朱鷺は立ち止まる。

 コウスケはどんどん先を行く。朱鷺はその距離を目測する。

 ──これぐらいでええ!

 頷いて尻に照準を合わせダッシュした。コウスケにぶつかる寸前に朱鷺は体を左に倒し、右足の甲で尻を思い切り蹴飛ばした。と、ヤツは弓なりに反り返り、オットット、とつんのめり、バタンと両手を地べたについてうつ伏せに倒れた。朱鷺の放ったシュートは見事ゴールを決めた。すぐさまヤツの前に回り込み、しゃがんで頭を見下ろす。

 しばらくコウスケは地べたにうつ伏せで両肘をつき、顔色一つ変えず手を揉み始めた。頭を撫でてやると、顔を上げうすら笑いを浮かべるコウスケに、入れ歯を引ん剥いて満面の笑みを返す。

「運命だ! オラとおめえは、つながってんだな」

 何事もなかったかのようにコウスケは立ち上がると、そのまま歩き出した。すまし顔だ。

 しばらく並んで歩いていると、朱鷺は不穏な空気を察知した。コウスケの行動をいちいち確認しながら防御態勢をとる。

 ──コノヤロー!

 心の中で叫ぶ。

 敵は何食わぬ顔だが、ソワソワし始めた。朱鷺はそれを決して見逃さなかった。そっぽを向いて知らぬ振りを決め込んだ。防御態勢から戦闘態勢へと移行した。

 突如、敵はこちらに顔を向けた。朱鷺を大声で脅かすつもりなのは初めから承知だ。すかさず敵の背後に回り込む。敵の戦術は失敗に終わった。コウスケは大声を出し損ねた。朱鷺の消えた場所を、まるでカベチョロの逃げる様でも真似たようにあたふたと敵の姿を求め、いつまでも探し続ける。口を半開きの阿呆面が何とも痛々しい。

 朱鷺は背後からコウスケの股ぐらに手を突っ込むと、ギユッと握り締めた。と、虚をかれたコウスケの腰は引け、内股で数歩ヨチヨチ歩きをしながら笑い出す。

「まいったか?」

「ま、まいった! へへへ……」

「オラにかなうと、思うのかい? あんちゃん」

「わ、分かった! こ、降参!」

 朱鷺はゆっくりと力を緩めてやった。コウスケのフウッという吐息が聞こえた。

「ああ、楽しいなあ……な? また遊んでやっからよ」

「い、いや、もう……結構、です!」

 通りを轟音を立てバイクが横切った。前方にテールランプの赤い色が静止した。二人が近づくと、バイクはまた走り出す。それを何度か繰り返し、バイクは駅の方向へ走り去った。

「春乃さんだ!」

「お春だと、今のバイクか?」

「うん」

「あいつ、なんのつもりだ?」

「春乃さんだったのか……」

「さっきの気配か?」

「ああ」

「おめえ、まさか……」

「辛え! オレって罪深え男だな、全く、うん!」

 コウスケはうな垂れながら、歌舞伎役者気取りでいる。

「バーカ。おめえを殺しにきたんだ、ヤツは!」

「バカ言え!」

「おめえを取り込むのにしくじったからだ。組織の掟よ!」

「信じねえ! あんないい女が、そんなわけねえ!」

「なんだと! おめえ、あの娘のことどうすんだ?」

 朱鷺は指の関節を鳴らし始める。「泣かしたら、オラが、オラが殺してやる!」

「わ、分かったって!」

「おめえは……あの娘のことが、好きなんだ!」

 朱鷺は大きく息を吸い込んだ。「ええっ、はっきり声に出して言ってみろ!」 

 コウスケは真っすぐ前を向いたまま返答しなかった。

 その後、二人は一言も口を利かぬまま、肩を並べてコウスケのアパートまでの道のりを辿った。

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