◇26 トキにドキドキ──婆さんに見間違えただけだけど……恋?

【6日目】1975年(昭和50年)11月26日水曜日


 終業後、私服に着替え事務所を出ると、すぐに背後から「コウスケさん」と呼び止められた。反射的に声の方向を見たら、背筋に悪寒が走ってその場に立ち尽くした。

 婆さんが目の前に突っ立っていたのだ。思わず、胸に手を当てた。

 ──ドキドキする!

 勇気を振り絞って目を凝らすと、婆さんではなく、トキが恥らいながら俯いている。コウスケは胸を撫で下ろす。

「い、いつから待ってたの?」

「たった今……」

 トキはそう言って礼儀正しく頭を下げた。「昼間はありがとうございました」

「い、いや、気にしないで……ハハハ……」

 真っ赤な顔を上げても伏目がちに身を縮めている。耳まで真っ赤だ。その何とも可憐な仕種にコウスケは目を見張った。次の瞬間、どこか見覚えのあるような、懐かしい感覚に襲われた。

 ──赤い赤い赤い顔、耳までマッカッカ……誰だっけ?

 幾ら考えても思い出せない。

「コウスケさんって、優しいのね……」

 トキは視線をまっすぐコウスケに向けてきた。優しげな眼差しで一瞬だけこっちを見て、すぐにまた恥ずかしそうに俯いた。唇に笑みを湛えたまま。

 コウスケはまだ胸に手を当てたままだ。胸は高鳴る。首を捻る。

 ──トキにドキドキ……

 ──恋?

「あ、あのう……今度……映画に……行きましょう……」

 トキは手持ち無沙汰なのかハンドバッグの握りを両手で絞りながら囁くように声を発した。

 コウスケはしばらく答えずにトキを見つめ続けた。

 ──いつかどこかで出くわした光景だ?

 どうしても、そう思えて仕様がない。

 ──単なるデジャブーにすぎないのか?

 トキは何度もチラッと上目遣いにこちらをうかがった。いつしか口元の微笑は消え失せ、顔をこわばらせているのが分かった。

「あ、ああ……い、いいよ……」

 ようやくコウスケが答えると、トキはまたさっきまでの笑みを口元に湛え、表情を緩めた。チラッとコウスケの顔を見て、ちょこんと首を縦に折ると手を振ってきた。コウスケもそれに応え手を振り返す。すると、トキはもう一度頭を下げると、恥ずかしそうに頬に手を当て駅の方角へ走り去った。

 コウスケはメジロ石油の敷地から前の歩道へと出て、トキの後姿を目で追った。気づけば自分もいつしか微笑んでいた。

 トキを見送ったあと、しばらくその場に佇んで足を家路へと向け一歩を踏み出した時、メジロ石油のコンクリート塀沿いの路地から、いきなり誰かが立ちはだかって、コウスケの行く手を塞いだ。街灯の明かりは届かず、顔は確認できない。化粧品のにおいで、女ということだけは分かった。

 コウスケは人影をかわして前へ進もうとする。と、人影はコウスケを遮って通せんぼをする。

「誰? バアさんか?」

 薄ぼんやりとしか見えない人影がこちらに迫ってきた。後ずさりしながら目を凝らす。人影は依然と迫ってくる。スタンドの前まで押し戻された。事務所のおぼろげな明かりが辛うじて人影の足元を照らす。コウスケは後ずさる。明かりは次第に足元から全身を照らし出した。

 人影はようやく姿を露にした。コウスケは息を呑んだ。言葉に詰まる。お互い見つめ合う。随分長い時間が経過したように思われた。相手の体は小刻みに震えている。

「イヤッ!」

 一言だけ言い捨てると、コウスケの胸を両手で突き飛ばしながら鳥の巣山方面へ走り去ってしまった。

 コウスケは一瞬よろめいたが、すぐに体勢を立て直し数歩だけ追いかけると、足は勝手に止まった。

「は、春乃さーん!」

 もう一度追いかけようとして諦めた。既に追いつけない距離だった。春乃の後姿とトキの消えた方角を交互に見比べると、コウスケは頭を抱え込んだ。「春乃さーん! 春乃さーん!」

 コウスケは叫び続けた。だが、春乃の名を呼ぶ度に頭の中で誰かが囁くのだ。

「逃げられねえよ……」

 声のする方を振り向いても誰もいない。声は次第に頭の中いっぱいに溢れてくる。

 コウスケは幻聴を頭から追い払おうと、両耳を手で塞いで大声でわけの分からぬ言葉を叫びながら、駆け足で帰途に就いた。

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