◆25 皮ジャン集団に襲われるトキ──その時、コウスケは!?

【6日目】1975年(昭和50年)11月26日水曜日


 朱鷺は昼前にレストラン『サンクチュアリ』にやってきた。

 いつもの窓際の席に着いてコウスケを待つ。店員の働く姿をつぶさに観察する。

 ふと立ち上がると、便所へ行く振りをして更衣室へ向かった。

 ドアの前に立ち、

 ──右、よーし!

 ──左、よーし!

 ──人気ひとけ、なーし!

 首を左右に捻りながらいちいち指差して不審人物がいぬことを確認すると、そっとドアを開けて首を突っ込み、中もすっからかんの空っぽ状態を見て取るや、すかさず忍び入る。抜き足差し足で自分のロッカーを目指す。

 扉を開け、予備の真新しい制服を拝借して急いで着替えた。

 ──全部自分の持ち物だ……

 ──犯罪にはならねえやい!

 トキのバッグから化粧道具をあさって厚化粧をする。ロッカーに放り込んだモンペのポケットから白のスカーフを引き抜いて口元が少し隠れるぐらいに首に巻き、束ねた髪を下ろして両頬に垂らす。コンパクトを高々と掲げ、上から下へと前身をくまなく映してみる。己の姿にウットリとした。

 濃紺のワンピースに白いエプロン。

 素足にピタリと張りついた黒いストッキングが“子持ちシシャモ”のふくらはぎを引き締める。

 ──黒ゆえに見た目を細く誤魔化せる……かも?

 朱鷺はほかのウエイトレスに紛れ、働き始めた。もちろん、トキと鉢合わせしないよう細心の注意を払いつつ。配膳口の上にかかった時計を見た。12時はとうにすぎている。

「ああ、ちょっと……」

 客から呼び止められた。

「はい、ただいま」

 中年の男性客の元へ行き注文を聞く。つとめて乙女の声色を真似る。「なにになさいますか?」

「オムライス……」

 客は不思議そうに朱鷺を見上げている。「君、いくつ?」

「はい、17です。イヤ~ン……」

 身をよじって乙女の恥じらいを演出する。顔を近づけウインクのサービスを追加した。

「あっ!」

 客はのけ反った。この世のものとは到底思われぬこの美貌に照れているのだ。朱鷺は己の容姿に一層自信を深めた。

「少々お待ちください」

 名残惜しむ客の傍を離れ、玄関に目をやると、コウスケの姿を認めた。今の客の注文を別のウエイトレスに押しつけ、急いで配膳口まで行き、水とおしぼりを補給すると、コウスケのあとを追った。

 コウスケがいつもの席に着くのを見届けて、すかさずそこまで歩み寄り、水の入ったコップを置く。そしたらコウスケは水を口に含ませ喉を鳴らしてから、カレーを注文した。

 朱鷺はその場にとどまったまま、じっとコウスケの様子をうかがう。コウスケはチラチラとこっちを見るが、正体に気づく様子は全くない。

「カレーね」

 コウスケが念を押してきたが、朱鷺は不動の体勢を崩さない。

 しびれを切らしたのか、コウスケはゆっくりと上目遣いでこっちを見上げた。朱鷺は屈んでその視線に自分のそれを重ねた。コウスケは目をしばたたく。朱鷺がニヤリとすると、同調してコウスケも真似る。

「イーッヒッヒッヒッ……」

 奇声を放ちながら朱鷺はコウスケに顔を寄せる。

 と、コウスケは尻を残したまま上半身だけを窓際までのけ反らせた。朱鷺はコウスケの顔の行方を己の顔で追いかけた。後頭部が窓ガラスにぶつかりそうになり、コウスケの逃亡はそこまでで終了し、そのまま二人の攻防も拮抗きっこうする。だが、しばらくしてコウスケの腹筋も限界と見えて、小刻みに体を震わせ始めた。攻防戦の終結は近い。

「ば、化け物……」

 声も震えている。

「ちょっくら、そっち寄れや」

 朱鷺は尻でコウスケを弾き飛ばし、この攻防戦にけりをつけた。

「な、なにやってんだよ?」

「働いてんのさ」

 朱鷺は胸を張る。

「よく採用されたな」

「いんや」

 朱鷺はゆっくりと首を横に振る。

「無断でか……制服はどうした?」

「ちょっくら拝借したのよ」

「しょっぴかれるぞ」

 コウスケは小声で脅してきた。「誰のだ?」

「あの娘のだ」

「早く返してこい」

「自分のだもの、別にええんじゃねえのか……」

「バカヤロー、見つからねえうちに早く行け!」

「どうだ、可愛いか?」

 朱鷺は立ち上がってポーズを決める。

「どういう神経してんだ……」

 コウスケは呆れ顔だ。「早く、着替えてこい!」


   *


 朱鷺はモンペ姿に着替えて戻ると、コウスケの向かいに座りトキを待った。

「おめえ、遅かったな?」

「ちょっとヤボ用で……」

 店内を見渡し、トキがこっちへやってくるのが見えたので、朱鷺は静々と窓際へ移動する。

 ──“607ロクマルナナの法則”で7日後に弾き飛ばされては事だ!

「こんにちは」

 トキは快活に挨拶して深々と頭を下げる。「なにになさいますか?」

「カレーね。エヘヘヘ……」

 コウスケはトキを見上げて微笑む。

「かしこまりました」

 朱鷺はトキの尻を目で追いながら、やっぱり自分は最高に可愛いと思った。視線をコウスケに移すと、いきなり胸ぐらをつかんで引き寄せる。

「ええか、ビシッと決めろ!」

「イ、イッテーし……離せ!」

 手を離してやると、コウスケは首をさすり襟を整えた。「声かけるだけだろう? お友達になりましょう、って……」

「そんな悠長な……襲ってもええんだぞ!」

 立ち上がりながら我が願望を頭上から浴びせかけると、店内の客が一斉に振り向いた。

「バ、バカヤロー! 声がでかいって……」

 コウスケは小声でオドオドする。

「おめえのなすがままよ、あの娘は……」

 静かに腰を下ろしながら告白する。

「刑務所には行きたくねえ!」

「うううん、そんなこと、しないもん、イヤイヤ!」

 朱鷺は首を横に振りながら身悶えた。

「あのな、いい歳して、気持ち悪い真似するんじゃねえ!」

 今の言葉に舌打ちすると、コウスケを見据えた。

「男らしく決めてみろ!」

「分かった、分かった。心配するな、ちゃんとお友達になってやるよ。文句ねえだろ?」

「ああーん! なして分かんねえんだ……」

 両手で頭をかき毟りながら、目の前の鈍感な阿呆に腹を立てる。が、何の策も思い浮かばない。自然と溜息が漏れる。

 何かゴソゴソと音がしたので、そちらを向くと、突然ついたてが動いて視界が開けた。黒い皮ジャンの集団が二人のテーブルを取り囲むように陣を構えた。

 朱鷺は男達の行動をうかがう。 

 コウスケの後ろのテーブルに四人、朱鷺の後ろに二人、ついたてが消えた隣席には三人、合計九人のいかめしい男達の怒号が飛び交う。

 トキがきて、コウスケの元へ注文を置いて戻ろうとした時、隣席の一人がトキを呼び止めた。

「おねえちゃん、可愛かねえ、こっちこんね。注文ば聞いちゃってん」

 困惑した表情のトキに男達は一斉に手招きする。

「あのくさ、ライスカレーば三つ、大盛にしちゃらんね、よかね?」

 隣席から野太い声が店内に響き渡った。リーダー格らしい。ほかの客は皆、男を訝しげに見やった。

「カ、カレー三つ、大盛……ですね」

 トキは必死に伝票にメモをする。笑顔だが、頬は微妙に引きつっている。

キサン貴様たちゃ、なんにするとや?」

 リーダー格の男が怒鳴った。と、トキの体は即座に反応して大きく肩を痙攣けいれんさせた。

 ──さすが……若いだけあって敏感だ!

 ──今のオラにはとうに失われた能力かもしれん……

 朱鷺は自分の若さに嫉妬した。

「オレはオムライスたい!」

「オレもおんなじでよかじぇ!」

 朱鷺の背後から二人の声がたて続けに鼓膜をつんざいた。

「親子丼たい」

「カレーでよか」

「オレもカレーでよかじぇ」

「オレはくさ、どげんしょうかいな……」

 コウスケの後ろから、痩せで角刈りのタレ目男が迷いながら廣澤寅蔵ひろさわ とらぞうばりのだみ声で唸る。この席の四人は割と静かだ。

「早よーせんか! お前はお子様ランチでよかろうもん」

 リーダーがき立てる。

「勝手に決めやんな! あーもう、しぇからしかー、待っちゃりやい……」

「テキパキせんか!」

「ぐらぐらこいたー!(通訳:『あたまにきたー!』) カツ丼でよか」

「待ってんや、カレーが五つと、オムライス二つ……ねえちゃん、書きよるね?」

 リーダーはトキに確認する。「親子丼にカツ丼やったね」

「は、はい、親子丼とカツ丼……ですね?」

 トキの声はうわずっている。

「おねえちゃん、早よう持ってきちゃってん。腹へっとうけんね」

 トキは男達の荒々しい口調にたじたじになって、必死に注文をメモしてさがった。

「正真正銘の九州男児だぞ……」

 朱鷺はトキが戻って行く姿を見送ると、コウスケに耳打ちする。

「へへへ……そうらしいな」

 コウスケも食べながらヒソヒソ声で返す。

 コウスケの後ろのテーブルへウエイトレスがカレーを運んできた。二皿をそれぞれの客の前に置くと、さっさと戻って行った。

 隣席を見ると、向こう側の通路でトキがカレー皿を載せた銀盆を両手に持ち、テーブルの横に立っていた。一旦、片方の盆をテーブルに置いて、取り分けようと皿を手にした時、すかさず三人の男達は勝手にトキから皿を奪い取る。トキはもう片方の盆を大きく揺らしながら、落とすまい、と不安げな面持ちで慎重にバランスをとる。

 三人の男達は凄まじい勢いでむさぼり始めた。トキが二枚の盆を重ねる間に、既に平らげようとしている。その様子に目を丸くしながらトキは立ち去った。

「スゲーな、まるで野獣だな」

 コウスケが顔を寄せ、耳打ちした。

「んー、あれが九州男児っつうもんよ。豪快な連中だ、全く。ハテ……?」

 朱鷺は腕組みして首を捻る。「どっかで会った……ような?」

「どうした、知り合いか?」

「うんにゃ……こんな光景、見たような……?」

「おねえちゃーん、カツ丼はまだね?」

 コウスケの背後から、配膳口のトキに向かってタレ目男のだみ声が叫んだ。

 トキは振り向いてタレ目男の方をうかがった。配膳口で盆に丼を二つ載せると、朱鷺とコウスケのテーブルの横を通ってカツ丼と親子丼をそれぞれの男の前に置いた。

「お、お待たせしました」

 トキのさえずりは微妙に震える。

「バアさんよ。あの娘、怯えてるみてえだな?」

「んーんーんー……」

 朱鷺は腕を組んで唸り声を上げる。「なーんか、おかしい……?」

「どうした?」

「あのタレ目男……見覚えあんのよ」

「やっぱ知り合いか?」

「違う」

 朱鷺は錆びついた記憶を必死に引き出そうと、目を閉じて上半身を左右に揺らし始めた。

「おい、バアさん、大丈夫か?」

「あっ、そうだ!」

 突如、頭の中に記憶の断片がコロコロと転がり込んできた。一つひとつの映像が瞼に浮かぶ。朱鷺は一旦動きを止め、今度は上体を右回転させながら、頭を左に回した。何度か繰り返したあと、逆方向に同じ動きをする。

「おい、器用な動きだなあ……なにやってんの?」

 頭の中のコロコロをシャッフルして、途切れた映像が突然つながった時、動きを止め、カッと目を見開いてコウスケを睨んだ。

 コウスケはこっちが放った視線から逃れるように顔をずらした。朱鷺の視線は“チョロチョロねずみ”の動きに従って追いかける。獲物はまた逃げる。朱鷺は追う。朱鷺の視線はコウスケを突き抜け遥か彼方を見ていた。

「やっぱり……そうだったのか!」

 突然、朱鷺のは獲物にフォーカスした。ねずコウの眼を捉えながら、腹の底から笑いの虫が「ムッシッシーッ!」と這い出てきた。

「うわっ! ど、どうした?」

「なんでもねえよ。そうか、今日か……」

 ふと視線をコウスケから外すと、どうやら九州男児達の昼食は済んだらしい。男達の様子をうかがう。

 トキを見た。トキはせわしなく店内を動き回っている。

 朱鷺は微笑みながら成り行きを静観することにした。

「ちょっと、さっきのおねえちゃん! 水くれんね」

 トキは水差しを手に、九人全員のコップに水を注ぎ足してやる。

「ねえちゃん、可愛かねえー。歳はいくつね?」

 トキが隣席の向こう側の通路に立ち、それぞれに水を注ぎ足し終えると、リーダー格の向かいに座ったポマードべっちょりのあんちゃんがトキに声をかけた。

「じゅ、17……です」

 か細い声である。

「ホント、可愛かー。こげなベッピンさん見たことなかー。博多人形ごたる……」

 背後からの声に振り向いた。短髪の丸顔の下で、黒い皮ジャンの隙間から白と赤のボーダーのTシャツの肉詰めがはみ出ている。ボンレスハムだ。

「今度、オレとデートしちゃらんね?」

 隣席のリーダー格の男の横に座った、リーゼント坊やが甲高い声でさえずった。朱鷺の右耳の鼓膜を激しく刺激する。

「キサン、なんば言いよっとや! ねえちゃん、コイツはほっときやい。オレの方がよかろう?」

 ボンレスハムがリーゼント坊やを怒鳴る。

「ボテクリくらさるうぞ!(通訳:『可愛がってやるぜ!』) オレが先やろうもん。キサンたちゃロンパールームでも見ときやい、丁度よかじぇ!」

 最初に声をかけたポマードべっちょりが一喝する。

「おー、ヤルとや!」

「キサン、泣かしちゃるけんね!」

「しぇからしかー!」

 店内に怒号が飛び交った。

 トキはさっきから震えながら男達のやり取りをうかがっていた。

 ──足がすくんでその場を動けなかった。

 と朱鷺は回顧する。

「おい、バアさんよ。コイツら、なにケンカしてんだ?」

「ケンカなんぞでねえ。まあ、見てなって。泣くぞ」

「誰が?」

「ほれ……」

 朱鷺が顎をしゃくって促すと、コウスケはトキを見る。と、トキはガタガタと震えながら泣き出した。

「あーあ、アイツら泣かしやがった……」

「おねえちゃん、どげんしたと?」

 トキを見つめながら、ポマードべっちょりがキョトンとする。

「キサンがそげん、えずか(通訳:『怖い』)顔見せるけんたい。キサンが泣かしたと!」

 ボンレスハムが冷やかす。

「あー、そげな言い方……グラグラこいたー!(通訳:『あたまにきたー!』)」

 ポマードべっちょりが立ち上がってトキの顔を覗き込んだ。「そげん泣かんでんよかよ。オレが悪かったねえ……」

「おめえ、どうしたんだ?」

 朱鷺はさっきからコウスケをうかがっていた。

「なにが?」

 食べ終え、つまようじで歯を突っつきながらとぼけ顔を向ける。

「助けに行かねえのか?」

「誰を、誰が?」

「あの娘を、おめえが……」

「なんで?」

「そう、なってんだ!」

「バカ言え! 触らぬ神に祟りなしだ!」

 コウスケは窓際に寄ると、窓枠に頬杖をついて知らんぷりで外を眺め始めた。

「なにぃっ!」

 朱鷺の煮え繰り返したはらわたから噴煙が上り始める。拳を握り締め、立ち上がって気合を入れる。テーブル越しにコウスケのツナギの胸元をつかんだ。と、コウスケを持ち上げ力いっぱい放り投げた。

 コウスケは宙を飛んだ。隣のテーブルの縁に太腿を打ちつけ、テーブルに手をつく。腿をさすりながらポマードべっちょりと顔をつき合わせ睨めっこの最中だ。

 トキはコウスケを見て、表情が明るくなった。手の甲で涙を拭いながら、息をする度にヒクヒクと肩を震わせる。

「兄ちゃん、なんね?」

 ポマードべっちょりが訝しげに上目遣いでコウスケを睨む。

 コウスケはドギマギしながらこっちを振り向いた。が、朱鷺はソッポを向いて知らんぷりを決め込んだ。

「な、なにを……するん……とです……か? 泣かせたら……いけない……と……ばい……」

「はっ、迫力ねえ……」

 朱鷺は思わず顔を覆った。

「なんね、あんたも九州ね?」

 リーダー格の男が訊く。

「は、はい、です……たい」

「どこね?」

 ポマードべっちょりの表情が幾分和らいだ。

「はかた……たい……です……ばい」

 コウスケの声にビブラートがかかる。無理矢理こさえた笑顔も引きつった。

「そうね、こっちきて座りんしゃい。早よーせんね、おいでおいで……」

 ポマードべっちょりが、コウスケの腕を引っ張って強引に隣に座らせると、自らはコウスケの背後に立ってその肩に手を置いた。

 はす向かいの位置からこちらに視線を向け睨むコウスケに、朱鷺はニタニタと笑いかけながらゆっくりと顔を背けた。

 男達は全員隣席に集まってコウスケを取り囲み、一斉にコウスケの顔を覗き込む。

「あ、あのう……そ、そのう……」

「なんね、はっきりしんしゃい、九州男児やろう?」

 コウスケは一瞬トキの顔を見た。

「ああ、そうやったと……あんたのこれね?」

 コウスケの視線の先のトキを一瞥して大きく頷きながら、ボンレスハムが横からコウスケの目の前に小指を突き立てる。

「早よう、言わんもん。おねえちゃん、すまんやったね。彼氏がきとったったいね。いやね、あんまり可愛かったけんが、こりゃあ、声かけとかんと、バチでんあたるっちゃなかろうかっち思うてくさ。知らんぷりしたら失礼やもんね、こげん、きれか(通訳:『綺麗な』)とに……」

 コウスケの背後に立っていたポマードべっちょりが、屈み込んでコウスケの肩に手を回した。「あんた、幸せもんたい。こげな可愛かおねえちゃんと、よか仲でくさ。誰かほかにおらんね? おったら紹介しちゃってん」

 コウスケは黙って首を横に振ると、ポマードべっちょりは肩を落とす。

「そうね、残念やねえ。こん町はきれかねえちゃんばっかしたい……」

 リーゼント坊やがさえずった。相変わらず朱鷺の右耳の鼓膜を刺激する。思わず耳に指を突っ込んでほじくった。

「そうたい、オレこん町に住もうかいな……」

 今まで黙っていた、痩せのタレ目男のだみ声が一節ひとふし唸る。

「キサンが住みよったら腐るったい!」

 ボンレスハムが顔をしかめた。

「なんでや?」

「足が臭か! そげな足で歩きよったら、なんもかんも踏んだあとから腐ってしまおうもん!」

「とさかにきたー!(通訳:『あたまにきたー!』) ねえ、兄ちゃん、そこまで言わんでもいいと思わんね?」

 タレ目男がコウスケに笑いかけると、コウスケも愛想笑いを送った。

「なんね、これからデートね? そうやろう?」

 ポマードべっちょりが屈んで、コウスケの腕を肘で小突いた。「羨ましかねえ! これから、どこ行きんしゃると? 映画ね?」

 コウスケは首をちょこんと折った。

 ──頷いた!

 ──もう逃げられねえ!!!

 朱鷺はほくそ笑んだ。

「はあーっ、この店、暑かと思いよったら、兄ちゃん達のせいたいねえ。こげな店おられんばい、あつーしてくさ……」

 ボンレスハムが手で顔を扇ぐ仕種を繰り返す。

「さあ、行こうや。ねえちゃん、いくらね?」

 筋骨質のいかり肩に黒の皮ジャンを引っかけ、彫りの深い目がトキを捉える。濃い太い眉がピクリと持ち上がった。角刈りで広い額が立ち上がったリーダー格の男が皆を促した。

「は、はい……これ……」

 トキは伝票を恐る恐る見せる。

「釣りは要らんけん、ねえちゃんが取っときんしゃい。デートの足しにしたらよか」

 リーダー格の男は財布から一万円札をトキに渡した。

「兄ちゃん、よかねえ、この色男が! 朝まで寝られんめえが!」

 また、コウスケはポマードべっちょりから小突かれる。

「冷やかしやんな。行こうや」

 リーダー格の男が言うと、男達は皆従った。

 朱鷺は満足して男達の後姿を見送った。あとに残された若い二人に温かな眼差しを向ける。

「あのう……」

 トキはコウスケの横でモジモジする。

「へへへっ……」

 コウスケはトキを見上げて笑う。

「あ、ありがとうございました」

 トキは手の甲で涙を拭いながら頭を下げる。「わ、わたし、トヤマトキです」

 コウスケはポカンと口を半開きにトキを見上げるだけで固まっている。

 朱鷺は身の回りに何か手ごろな物でもないか探した。植木鉢が横にあった。さっきの男達がついたての上から床に置いたのだ。手を伸ばし豆粒大の小石を一つ摘まんでコウスケの頭めがけて投げた。小石はコウスケの額に当たって跳ね返ると、灰皿の中へおさまった。

 右手で額を押さえながら、また朱鷺を睨むコウスケに顎を何度もしゃくって、

 ──トキに答えてやれ、ウスノロ!

 と朱鷺はコウスケを促す。

 コウスケはムスッとした顔を見せたが、トキに向き直ると笑いかけた。

「オレ、カゴノコウスケ。へへへ……」

 朱鷺はコウスケの不甲斐なさに失望したが、

 ──コウスケにしては上出来な方か……

 と諦めて二人の様子を傍観することにした。

「いいお名前ですね」

「ハハハ……あんがと、エヘッ……」

 コウスケはリーゼントをしきりにいじくり回す。せっかく整えた前髪が少々乱れた。かなり動揺しているらしい。

「今度、お礼に……なにか、その……させてください」

 トキは顔を真っ赤にした。

「い、いや、気にしないで、エヘヘ……」

 コウスケは首を横に振りながら愛想笑いをトキに送るばかりで依然リーゼントをいじくり回す。

「あのう……私と映画に行きませんか!」

 トキは大きく深呼吸をしたあと、叫ぶように一気に言うと、表情を硬くして下を向いた。モジモジしながら右の爪先でトントンと床を蹴る。

「えっ! い、いや、いいよ。気にしないで……」

 あろうことか、せっかくのトキの申し出を断った。そこで、朱鷺はまた小石を投げつけた。今度は少し力を込めて。コウスケは額に手を当てこっちを見る。朱鷺は睨みを利かす。

「ご迷惑ですか? ほかに……その……決まった人でも……いるんですか?」

 トキは言い終わると、銀盆を小脇に挟み両手を頬に当てる。

「い、いや……」

「ダメ……ですか?」

 コウスケは頭をかきながらキョロキョロするうちに、朱鷺と視線が合い、目を丸くする。朱鷺は立ち上がって、既に投球モーションに入っていたところだ。

「い、いや、分かった!」

 大きく振りかぶって小石を離す寸前、コウスケは朱鷺に叫んだ。

「あら、本当ですか、私、嬉しい……恥ずかしいわ!」

 トキはコウスケにそう言い残して去って行った。

 コウスケは口を半開きに呆けたように、しばらくトキのいた場所を見つめてから、こちらのテーブルに戻ってきた。ぐったりと手足を投げ出し、椅子に尻を預けて憔悴しきった様子で背もたれに深く背中を押しつける。

「ああー……」

 コウスケはうつろな目を天井に向けたまま、大口を開け深呼吸を繰り返す。

「おめえ、やったでねえの。上出来よ!」

「ああー、まあだ……」

 コウスケは胸に手を当てた。「ドキドキしてる」

「それが恋というもんよ。よっく、覚えとけ!」

「コイ?」

「そうだ、恋だ! おめえは、あの娘に恋したんだ!」

「コイって、なんだ? 分からねえ……ああ、疲れたー……頭の中、真っ白だ」

 朱鷺は身を乗り出して、コウスケに囁き始めた。

「そうだ、ふかーく息を吸って……はい、止める!」

 朱鷺はテーブルをリズミカルに叩く。「ゆっくり息を吐いてー、そう、ゆっくり、ゆうっくり……」

「ハアー……」

 コウスケは朱鷺の指示通りに従った。

「もう一度吸ってー……」

 テーブルをコツコツと指で打つ。「はい、吐いてー、目を閉じてー、ほーら、あの娘が笑ってるぞ、よーっく顔を見てみろ、可愛いなあ、綺麗だなあ、もう忘れられねえなあ、オラが三つ数えると、おめえは一遍であの娘に恋をするぞー、ええか、数えるぞー……サン~、ニイ~、イチ~、ハイッ!」

 朱鷺はコウスケの耳元で指を鳴らした。が、鳴らなかった。仕方なく己の額をパチンと叩く。

「へへへ……婆さんよ」

 コウスケは目を見開いて、首をグルグルと回す。

「なんだ、かかったか!」

「そんなわけねえだろう。天功みてえにはいかなかったな」

「クソッ! 単純なヤツほどかかるはずなのによー……」

「残念だったな」

「ま、ええか」

「嫌に素直だな?」

「ウッシッシッー……」

 コウスケに熱くねちっこい視線を送る。

「な、なんだよ……」

「なんでもねえよ。おめえ、もう逃げられねえもの……」

「なにから?」

「イーッヒッヒッヒッ……」

 朱鷺は、目を細め、ついでに背を丸め、首を前方に突き出すと、小刻みに肩を揺らした。笑いが止まらない。

「や、やめろって! 妖怪みてえな笑い方」

「オラからは逃げられねえよ……オラ一途だもの。だって、オラ、おめえに恋してるんだもの。イーッヒッヒッヒッ……」

「うわっ! ムカムカしてきた……」

 コウスケは顔を背けながら胸をさする。「バアさんよ、頭、大丈夫か? オレはバアさんの亭主じゃねえぞ。分かるか? ボケんじゃねえぞ……」

「誰がボケるんだ」

「あのな、オレに恋されても困るの!」

「なして?」

「バアさんとオレではつりあわねえだろ、な?」

「そんなこたねえよ」

「いいか……バアさん、幾つだ?」

「オラ、87だ、文句あっか!」

 朱鷺は胸を張る。

「オレと幾つ離れてんだ?」

「二つだ! おめえはオラより二つ上だ。間違いねえ!」

「オレはジイさんじゃねえぞ。オレの顔よく見な。どこにシワあるんだ?」

「おめえはまんだ若えよ。当たりめえでねえか、なーに、たわけたこと言ってんだ?」

「あのなあ……ああ、疲れんだよなあ、やめた、もうやめた!」

 コウスケは頭をかき毟り出す。

「おかしなヤツだな……」

 阿呆はほっといて、朱鷺は店内を見回しトキを捜した。

 今日が全ての始まりだった。

 あの日、コウスケに助けられ、男達が去ったあと、約束を交わした。あの日の光景を目の当たりにして、今、ようやく思い出すことができた。

 ──だが、しかし、ハテ?

 朱鷺は首を傾げた。何か腑に落ちない。

 あの時、自分がコウスケに小石をぶつけなかったら、約束を交わすこともなかったのだ。そしたら、何も始まってはいない。あのままコイツはお春に取られたのかもしれないのだ。そう考えると、怒りが込み上げてきた。こんな腑抜けとは露知らず、これまで頼り切ってきた己をもはがゆく思われる。

 朱鷺の尻が自ずと椅子から浮き上がる。その場に仁王立ちでコウスケを見下ろした。こめかみの血管は膨張し、ドクドクと耳元で音を立てる。床を一歩一歩踏みしめて移動し、コウスケの横に立った。一瞬全身の力を抜く。それに伴って顔の筋肉も緩める。傍目には能面か、はたまたのっぺらぼうにしか見えないだろう。静かにコウスケに視線を落とす。と、ニカッと入れ歯を剥き出しにして笑う。コウスケも上目遣いにニヤついた。朱鷺は右の拳に全身の力を集め、持ち上げると、全体重をかけて、ゆっくりと振り下ろした。ドスンという音に近かった。あるいは音はしなかったのかもしれない。拳は跳ね返らず、そのままコウスケの頭に居座り続けた。

 下界から低い呻き声だけが、そびえ立つ朱鷺の耳に木霊する。コウスケは頭を抱え、座ったままよろめきながら頂を見上げる。大きく開いたまなこからの一滴が、一筋の流れを形成して、あわれ零れ落ちた。

 雫の行方を目で追いつつ、朱鷺は休戦して帰還した。席へ戻った朱鷺は、頭を抱え込み、うずくまるコウスケを尻目に今一度トキの姿を捜した。ふと、背後に人の気配がして振り向くと、トキが近寄ってくる。慌てて窓際へ身を寄せた。

 トキはコウスケの肩をポンッと軽く叩いて、自分に気づいて顔を向けるコウスケに微笑んだ。トキはカレー皿を盆に載せると、代わりにメモを残して去って行った。

「なんてことしやがる! このババア!」

 やっと口が利ける状態に戻ったコウスケは悪態をついてきた。

「ほれっ……」

 朱鷺が、メモだ、と顎をしゃくって示したら、コウスケは渋い表情で乱暴にメモを摘まみ、目を通してオドオドし始めた。

「ど、どうしよう……」

 懇願する表情に変わり助けを求めてきた。

「今日、仕事帰りに寄ります。待っててね。トキ」

「ん、なんで知ってる?」

「自分が書いたもの忘れっこねえもの」

「これ、バアさんが書いただと……」

「違う。オラ知らねえ。あの娘が……」

「バアさんのさしがねか! なんで内容知ってる?」

「ハテ? なしてかなあ……」

 朱鷺は言いわけを考える。「勘だ!」

「ふん、よく当たる勘だこと」

「おめえ、もう逃げられねえ!」

「またかよ。バアさんにホレられても困るぞ、間違えんなよ、オレはジイさんじゃねえからな、分かるな? ここ、大丈夫か?」

 コウスケは自分の頭を突っついた。

「コイツ、また、おみまいすっぞ!」

 朱鷺は睨んだ。

「やめろ!」

 コウスケは顔色を変え、防御態勢をとった。頭隠して尻隠さずだったので、折角だから尻をつねってやると、飛び跳ねた。イルカ並みのあまりの見事さに、

 ──コイツは調教次第で如何ようにも転ぶ。

 と腹の中で踏んだ朱鷺は自信を深めた。

 ──コイツの恋心は頂きだ!

 内心ほくそ笑みながら勝ち誇った顔をコウスケに向ける。

「あの娘から逃げられねえのよ」

「あの娘?」

「そうだ。初めっから言ってんだろうが……全く、おめえのオツムはどうなってんだ?」

「はあっ? あっそう。あの娘ね……」

「そう言ってんのに、おめえときたら……」

「バアさんが間違えるからだろうが、紛らわしいこと言いやがって……」

 コウスケは口の中でモゴモゴ言葉を噛み砕く。

「おめえ、ドキドキしたよな?」

「ああ、九州男児って、みんなあんなに怖えのかな?」

「いんや、おめえのドキドキはあの娘が好きなせいだ」

「違うって! オレ、あいつらと喧嘩にでもなったらどうしようかと思ってさ……」

「それでドキドキしたわけでねえのよ。おめえは気づいてねえようだが、オラには分かったんだ」

「なにが分かった?」

「おめえがよ、あの娘を見る目がまるでケダモノだったのよ。物欲しそうな目つきしやがってよ。あの娘はそれを悟ったのさ。ああ、この人は私のことが好きなのね、って」

「ま、まさか、そんな……」

「人にはな、潜在意識っつうもんがあるだろう? おめえの心の奥底には、あの娘がたまらなく好きだ、欲しい、っつう意識が眠ってんのさ。だから、無意識に顔に出るんでねえか」

「オ、オレ、そんな顔してた?」

「誰が見ても分かるこった。あの九州男児だってよ、すぐにおめえ達を恋人同士だって思ったでねえか」

 朱鷺はコウスケの表情の変化をうかがいながら、先を続けた。「それに比べて、おめえが、お春を見る目はよ……」

「ナニ、ナニ?」

 コウスケはテーブルに身を乗り出してきた。

 朱鷺はコノヤローと思いながらも怒りをおさめて平静を装って先を続けた。

「嫌悪感に溢れてんのさ」

「そ、そうか?」

 コウスケは訝しげな目を向けると、腕を組んで首を捻る。

「だから、オラ、おめえを助けようって気になったのさ。人はな、自分では気づかねえことってあるもんなんだ。まかり間違えると人生を台無しにすることになんのよ」

「人生を、台無しに? 大袈裟だな……」

 背もたれに深く背をうずめながら、コウスケは鼻先で笑う。

「大袈裟でねえよ。仮にな、おめえが間違った相手と一緒になるとする。どうなると思う?」

「さあ……」

「オラ、たくさんそんな連中を見てきたんだ。だてに87まで生きてきたんでねえのよ。聞きてえか、ソイツらの話?」

「聞きたい」

「あんまり話したくもねえんだがよ……」

「どうして?」

「残酷すぎんのさ。それでも聞きてえか?」

「聞く!」

「分かった」

 朱鷺は物語の構想を練り始めた。「オラ、10組、そんなカップル知ってんだけど。みーんな家庭はメチャクチャよ。3組は一家心中。4組は互いに傷つけ合って、刃物ではないよ、言葉やらなんやらでさ、心はズタズタよ。どちらか一方が自殺したり、両方とも心の病で入退院を繰り返したり、生活できなくなるのさ。かわいそうなのは子供よ。殺人を犯したり、父親を殺したヤツもいたな。親から殺されたのもいた。な、かわいそうだろう? それから、残りの3組だが……」

 そこまで話して朱鷺はうな垂れた。段々プロットが見え始めた。

「どうした?」

「いや、オラ、その場に居合わせたのさ。胸が詰まって、うまく喋れねえなあ……」

「なにがあったんだ?」

「聞くか? でも、ああ、ダメだ、どうにかなりそうだ……」

 朱鷺は両手で顔を覆った。指の隙間からコウスケを覗く。

「むごいのか?」

「ああ、むごいと言えば10組ともむごたらしいんだが。オラ、目撃したもんで、この3組の結末をな。やっぱし、話しといた方がええか、おめえのためだもんな、オラが我慢すればええことだし……」

 朱鷺は深呼吸を繰り返した。最後にフウッと大きく息を吐く。第1話。「あれは50年前だった。その夫婦とは仲良くしてたんだ。オラ、果物もらった礼に菓子折り持って訪ねたのさ。そしたら、部屋の中はメチャクチャで、畳が血の海でよ、その上に折り重なった二人の死体を発見して通報したんだ。夫婦喧嘩の果ての惨劇よ。お互い25の若さだぞ」

「バアさん、第一発見者だな……」

「それから4、5年後だった……」

 朱鷺は膝に両手をついてうな垂れると頭を捻る。第2話。「あれは、夏の盛りだった。暑かったな。オラの実家の隣の隣のそのまた隣の家だ。子供はなかった。女房はまだ20はたちだった。美しい人だったなあ。そこの亭主が死んで、42だった。葬式に行ったんだ。見てしまったのよ、オラ。20歳の未亡人が……」

「美人の未亡人が……どうした?」

「食ってんのよ!」

 朱鷺は小声になった。

「なにを?」

「亭主を!」

「うえっ!」

 コウスケは叫んだ。

「変な声出すなや、しっ!」

 朱鷺は人差し指を口に当てコウスケをたしなめた。

「だって、そんなことを……」

「誰だって信じられっか。オラ目を疑ったね。生で食らってたんだもの。あとでよ、誰もいなくなった時、勇気振り絞って、布団めくってみたんだ。そしたら、死体から切り取られてんだ……」

「どこを、切り取ったんだ?」

「ほれ、そこよ、そこ……」

 朱鷺は視線で教えてやった。

「痛えだろうなあ……」

 コウスケは股間を押さえた。

「未亡人はな、死体損壊の罪でしょっ引かれてよ、獄中で首くくって死んだんだ」

「バアさん、そんな事件に出くわしたのか……」

「世の中には考えられねえことが起こるもんだ。みーんな、間違いで一緒になった連中だ。お互い好きだと思い込んでよ。悲劇だ!」

 朱鷺はフウッと大きく溜息をついて、しばらく黙りこくった。

「それから?」

「もう、よそうか?」

「話したくねえのか?」

「おめえがどうしてもって言うなら……」

「バアさんがよけりゃ、無理強いはしねえよ」

「おめえはホントに優しいな」

「それほどでも……ハハハッ……」

 朱鷺は、全く単純なヤツめ、と心の中で呟いた。

「最後のひと組だが……」

 朱鷺はそう言って、しばらくコウスケの顔をじっと見つめる。

「うん、どうなった?」

 コウスケは身を乗り出し、興味津々だ。

 最終話。

「二人は夫婦ではないんだ。男はまだ19で、女は一つ年上の20歳。男は女の前に出るとドキドキしたそうだ。ある日、男はバラの花束を女に贈る。女は男の頬にチュッと接吻する。男はカベチョロみてえに身をよじって有頂天になる。だが、女は男心をもてあそんだにすぎねえ。たらし込んで骨の髄までしゃぶり尽くそうって魂胆なんだ。男のことが好きだっていう可愛い娘がいてな、男も本当はその娘が好きなのに気づかねえ」

 朱鷺はここで大きく首を横に振る。「年上の女は、うまーくたらし込んだとほくそ笑む。情けねえな、自分にとってどっちが大切な女か気づこうともしねえ。いや、気づいてはいたけど、心にフタをして塞いでしまったんだ。バカなカベチョロ男だ。男は年上の女とつき合うようになった。男も次第に分かってきたんだな、この女じゃねえって。だが、その時には手遅れよ。女は別の男と組んで……」

 朱鷺は突然話の腰を折り、かぶりを激しく振った。両手で顔を覆う。左右の小指の先を口に咥え、唾液をつける。俯き加減で顔をこすりながら、小指を目尻から頬っぺたにかけて這わせ、厚化粧を落とした。「ウウッ」と大袈裟に呻く。

「お、おい! どうした?」

「辛すぎてよう……」

 朱鷺は一旦顔を上げ、テーブルに肘をつき、手を組んで顎を乗せ、拝む振りをして頬っぺたの二本の筋が、コウスケに確認し易いように顔を寄せた。

「泣いてんのか?」

「まだ続けるか?」

 朱鷺はそう言うと顔を覆って嗚咽する。

「い、いや、もういいよ。たくさんだ……」

 朱鷺はコウスケの意思とは裏腹に先を続ける。

「おめえ、生命保険……入ってっか?」

「ああ、まあ、一応な。大した額じゃねえけど」

「そうか、オラの言いてえこと分かっか?」

「な、なんとなく……」

「そういうこった!」

 朱鷺は大きく頷いた。

「そ、その男、どうなった?」

「そういうこった」

「や、やっぱり、そういうことか?」

「そういうこった」

「女はどうなった?」

「どうにも……」

 朱鷺は首を横に振った。

「捕まったんじゃねえのか?」

「一度は疑われた。けんど、そこは用意周到だもの、逃れる手立ては考えてあんのさ」

「今、どうしてんだ?」

「生きてる。のうのうとな……」

「怖え女だなあ……」

 しみじみとした声の響きだ。

「この歳になればな、なんでも見通せるんだ。おめえの心の中もな。オラにははっきり分かってんだけど……」

「分かんねえ……」

 コウスケは腕を組んで顔をしかめると、首を傾げながらうな垂れた。

「心配すんな! 気楽につき合ってみろ。友達づき合いでええんだから。そしたら、分かっから。念を押すがな、なんも深えつき合いしなくてもええんだ」

 コウスケは顔を上げた。何か吹っ切れた表情が見て取れた。

「分かった! そうするよ」

 ──落とした!!!

 朱鷺は心の中で叫んだ。

 ──もう、こっちのもんだ!

 ──誰だと思ってる!

 ──あとは、トキに任せておけばええ……

 ──絶対に逃げられやしねえ。

「さすが、九州男児! 博多っ子!」

「やめようぜ、オレ行ったこともねえし……」

「いんや、大した男だ!」

「よせやい、テレるぜ」

 朱鷺は目の前の阿呆に熱い視線を送った。しばらく、朱鷺が黙って見つめていると、手持ち無沙汰なのか、コウスケは、ぎこちなくリーゼントを整え出した。

「おめえ、今夜、決めてもええんだぞ」

「なにをだ?」

 コウスケは穏やかな面持ちでこっちを見た。

「オラを抱いてくれ! おめえに抱かれてえのよ!」

 朱鷺は腰を浮かせテーブル越しにコウスケに迫る。

「うっ!」

 コウスケはのけ反り、怯えた表情を向けた。

「おめえ、なに、ブルってんだ?」

 朱鷺は首を捻る。「おかしなヤツだなあ……」

「あ、あっち……行け!」

「なーによ……」

「顔、近づけんな!」

「おめえ、汗かいてんぞ、暑いのか?」

 朱鷺は浮かせた腰を椅子に押しつけて足を組んだ。

「バ、バアさんよ。本気じゃねえよな?」

「なんのこった?」

「だ、抱いてくれ、抱かれてえって……」

「ああ、そうだよ。あの娘はそう思ってんのさ」

「あの娘? あっそう、あの娘ね……」

「そうだよ」

「あっそう。あのな、今、オラを抱いてくれって、言ったぞ」

「ああ、言ったよ」

「また、間違えたんだ……」

 コウスケはフウッと息を吐いた。

「ま、おんなじことだからよ。気にするこたねえ」

「ん? おんなじ……こと……どういうこと?」

 コウスケは目を瞬いた。

「ハテ、深え意味はねえ。聞き流せ」

「バアさん、時々ドサクサに紛れて変なこと言うよなあ……」

 コウスケは目を細め訝しげな表情を向けた。

「ま、ええから、ええから……」

「バアさんに……そう言った……のか?」

「そうだ」

「あの娘が?」

「そんだけ、おめえを愛してんのさ」

「い、いやあ、いきなりっつうのはよ、ヘヘヘッ……」

 コウスケはニヤける。

「おめえは、予行演習が必要だ!」

「どういう意味?」

「おめえ、いきなりじゃ、フニャフニャゴロンチンよ。修行しねえとなにごともうまくいかねえもんな」

 呆れ気味に首を横に振る。

「ん、なんだ?」

「だから、ほれ、そこんとこよ」

 コウスケの大事なとこに視線を向け、顎をしゃくってニヤッとする。

「な、なんだと!」

 コウスケは顔を真っ赤にして憤慨する。

「おめえ、自動車会社の面接でなんて言った? 面接官から志望動機を聞かれて、『死亡したら動悸は止まります』って……笑っちまうな、全くよ」

「な、なんで知ってんだ?」

「おめえから聞いたのよ」

「オレ言ったか?」

「言ったとも」

「あれっ、やっぱ、オレ脳ミソやられてんのかな? 記憶にございません」

「とにかく、おめえは緊張したら力の半分も発揮できねえ。だから練習が必要なんだ」

「ハハハ……どうやって?」

「練習相手か……」

 しばし考えてから膝をポンッと叩いた。「オラでどうだ?」

「な、なんだ?」

「丁度ええと思うんだがなあ。ダメか?」

 入れ歯を引ん剥いてニヤニヤしながらコウスケに迫った。

「け、けっこう……」

 コウスケは椅子に手をついて腰を浮かせた。逃亡体勢のようだ。

「そうか? 遠慮せんでもええのに。ま、しっかりやれ!」

 コウスケの肩をポンと叩いてエールを送る。

「今日は……と、友達になるだけだ……」

「あの娘が迫ってきたら、どうすんだ?」

「い、いやあ……そんなこと……」

「イーッヒッヒッヒッ……」

「うっ! ビ、ビックリするだろうが!」

 朱鷺は立ち上がって通路をコウスケの横まで移動して耳に唇を寄せ、

「しっかりやんな」

 と一声囁いて背筋を伸ばすと首をグルグル回し、交互に両肩を拳で叩いて凝りをほぐす。「まあ、一安心だ。そんじゃ、オラ帰るぞ」

「バアさん、自分の家、思い出したか?」

「バカ言え! オラの帰る場所は決まってんだろうが」

「やっぱな、聞くんじゃなかった。夢も希望も消え失せた……」

「取り憑いてやる!」

 恨めしくコウスケにいきなり顔を寄せた。

「バ、バカヤロー! 怖ろしいこと言うな!」

「待ってるぞ。帰ったら、今夜の話聞かせろや。じゃあな」

 そう言い放ち出口を目指した。そしたら、目の前に鏡が置かれてあった。鏡に映る己の姿を立ち止まって注視した。だが、鏡像はどんどんこちらに迫ってくる。ハッとして後ずさる。ぶつかりそうになって、床に突っ伏した。寸でのところで回避すると、しばらくトキの姿を目で追った。

 ──やはり、向こうからはこっちが見えてないらしい……

「どっこいしょ」

 起き上がってもう一度トキの行く手に立ってみる。トキは朱鷺には気にも留めずヅカヅかと向かってくる。朱鷺はトキの歩く速度に合わせて後ずさった。60センチメートルの距離を保ちつつ。再びコウスケの向かいに座った。

「なにやってんだ? おかしなことやってんな……」

 コウスケが不振そうな目でこちらをうかがう。

「おめえ、オラの姿見えてんだよな?」

「なにっ! とうとうきたか、ここに?」

 コウスケは自分の頭を突っついて笑う。

「オラは見えるのに、向こうからは見えねえ……」

 首を何度も傾げながら考える。「ま、難しいこと考えてもしょうがねえな……」

「おい、なにブツブツ言ってんだ?」

「おう、オラ、帰るぞ」

 ようやく無の境地に達した朱鷺は席を離れ、ついでに警策きょうさく代わりに拳固を落としながら、修行不足のコウスケからお春という煩悩を一つ解脱げだつさせてやった。「誰がボケてんだ!」

「ボケたなんて言ってねえ……」

 コウスケは頭をさすりながら見上げる。二人の視線がぶつかった。朱鷺は一瞬だけ睨みを利かす。

「ウラメシヤー!」

 入れ歯を引ん剥いてガタガタ言わせながら、ゆっくり顔だけにじり寄った。

「うわっ、地獄の番人か!」

「ええな、うまくやんな!」

 コウスケにもう一遍最後のエールを送り、トキの姿を目で追った。トキと鉢合わせしないように、トキが出口から遠ざかって行くのを確認しながら朱鷺は店を出た。


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