◇24 春乃に胸ドキドキ──これって、恋じゃねえの?

【6日目】1975年(昭和50年)11月26日水曜日


「おう、コウスケ! 仕事を教えてやってくれ」 

 コウスケが出勤し、ロッカールームでツナギに着替え外に出ると、社長、目白春雄めじろ はるおの甲高い声がコウスケを追ってきた。

 振り向くと、身の丈五尺の小柄なずんぐりとした体躯を、蓑虫みのむしのように青いツナギに潜り込ませ、白髪まじりで角刈りの大きめの丸顔だけを表に出して、細いタレ目はシワの中に紛れ、人懐っこく笑っている。下腹辺りがでっぷりと出た中年の達磨だるまさんだ。が、コウスケは見下したことはない。社長は一角ひとかどの人物だと尊敬している。

 社長の両脇に首一つ半ほど飛び出て、若僧が突っ立っている。二人はほぼ同じ背丈だ。向かって右側のは青白い頬のこけた優男やさおとこ。左側のヤツは色黒でガッシリとした体型でポケットに手を突っ込んでふてぶてしくそっぽを向いている。

 社長はかいつまんでそれぞれの素性を明かした。二人にコウスケに対する挨拶を促す。

「僕、田村茂三たむら しげぞうと申します。先輩、よろしくお願いします」

 優男の甘い声が心地いい。帽子をとって深々と頭を下げる。七、三分けの短髪が爽やかだ。細い首に細面の尖がった顎を突き出して笑う。誠実そのものだ。中学を出て、ほかの仕事を幾つか経験してここにやってきた。16歳。中々の好青年、いや、まだ少年だなとコウスケは感心した。

 もう一方のヤツに鋭い視線を突き刺した。身だしなみには無頓着のようで、髪はボサボサでのび放題。太い首の上に角ばった顔を乗せ、えらの張った顎に無精ひげを蓄えている。鼻筋が通って高く、眼光鋭く威圧する。社長が小突くまでそっぽを向いていた。が、面倒だと言わんばかりに首を前に突き出しただけで、尚もふてぶてしく振舞う態度が、コウスケの神経を逆撫でする。しばらくヤツを見上げてにらんでいると、あろうことか舌打ちをした。思わず頭に血が上る。だが、社長の前だ。ここはこらえて、つとめて冷静に笑顔で対処する。

寺西純二郎てらにし じゅんじろう君だ。16歳」

 社長がすかさず紹介する。

 寺西は高校を退学になったという。何をしでかしたか興味はない。が、今の態度が全てを物語っている。

 ──覚えてろ、コノヤロー!

 ──コイツは思い切り可愛がってやるぜ!

 コウスケは奥歯を噛み締めながら、心の中で叫んだ。

 社長は、「頼むぞ」と一言だけコウスケに言い残して事務所の中へ消えた。それを確認してコウスケは二人の傍まで近寄ると、田村の前で立ち止まる。

「田村君はいくつだ?」

 先輩の威厳を示しつつ改めて優しく訊いてみる。

「はい、16です」

「そう、頑張れよ」

「はいっ、先輩」

 田村に歓迎の笑顔を送り、奥歯を噛み締め寺西の前に立つ。

「君、名前は?」

 奥歯を噛み締めたまま問うてみる。相変わらず横柄な態度だ。すぐには返答しない。鋭い視線で威圧し続け、そろそろ潮時しおどきか、と寺西の前を離れようとして一歩を踏み出した時、ようやく口を開いた。

「寺西純二郎」

 ぼそっと挑発的のようにも聞こえた。

「歳は?」

 コウスケの方も自ずと喧嘩口調になる。

「ジュウロ~ク……」

 ──敬語ぐらい使いやがれ!

 コウスケは背伸びをして寺西と背丈を合わせた。顔を近づけて目を覗き込むと、睨みを利かす。寺西は視線を合わせようとはせず、フンッと鼻先でコウスケをあしらった。

 ──バカにしやがって、今に思い知らせてやる!

「カゴノ、出世したな」

 先輩の一人がコウスケを冷やかした。コウスケは声の方を向く。

「はあ、せいぜい可愛がってやりますよ」

 寺西に向けて言い放った。

 もう一度、敵意剥き出しで睨みつけてやった。


   *


 後輩のお守り役を仰せつかって、仕事を教えるのも楽じゃなかった。

 田村は手がかからない。

 しかし、寺西は聞く耳を持たない。

 ──どうせ、すぐに辞めていくに決まってる!

 そう確信していたから真剣には接しなかった。が、寺西はタバコを吹かしながら給油する始末だった。

「バカヤロー! どこだと思ってる。爆発したら、皆お陀仏だ!」

 コウスケは咄嗟にタバコをはたき落とした。火は点いてはいなかった。よっぽどぶん殴ってやろうかと思ったが、寸でのところで手は出さず、口だけにとどめておいた。

 ──未成年のくせに!

 コウスケとて他人のことは言えた柄じゃないが、ここは先輩の威厳を見せつけておくべきだ。

 昼近くになると、どっと疲れが出た。

 ──神経の使いすぎか?

 それでも寺西から監視の目を緩めることはできなかった。

「よりによってなんでオレが……あの不良め!」

 事務所の椅子に腰かけ、悪態をつきながら何気なく掛け時計を見た。とっくに12時を回っていた。「さてと……」

 昼休みにしようと、先輩に断りを入れるため立ち上がった。事務所のドアを開けようとしたら春乃がこちらに向かってくる。身を隠そうかと思ったが、あっちがコウスケに気づいて手を振っている。コウスケも仕方なく手を振り返す。脳裏に婆さんの言葉が引っかかる。

 ──性悪。

 ──女狐。

 ──組織。

 ──悪だくみ。

 まるで催眠術で洗脳でもされたかのように、頭の中で誰かが連呼する。

 春乃はドアを開け入ってきた。

「こんにちは」

 澄んだ声である。

「こ、こんにちは……」

「一緒に、昼食でもどうかしら?」

「あっ、あ、あのう、そ、そのう……」

「どうかしたの?」

 春乃は手を後ろに組んで笑いかける。

「オ、オレ……今日は……先約が……」

「あら、そうだったの。ごめんなさい。でも、残念……」

「ご、ごめん……」

 コウスケは頭をかいた。

「あら、あなたが謝ることないわ、フフフ……じゃあ、また今度ね」

 コウスケは首をちょこんと折って頷く。

 春乃は手を振りながらドアを開け外に出ようとした。

「あっ、ちょっと……」

 コウスケは慌てて春乃を呼び止めるとロッカールームへ急いだ。

 重箱を持って戻ると、春乃に差し出す。

「あら、急がなくてもよかったのに……」

 そう言いながら重箱の包みを受け取った微笑に、たちまち身も心もとろけそうになる。自然と溜息が漏れた。

「あ、ありがとう……」

 コウスケも笑顔で礼を言ったが、少しばかり頬が引きつってしまった。

「どうかしたの? 今日は、なにか変よ。いつものコウスケさんとは違うみたい……」

「な、なんでもない、よ」

「そうかしら?」

 春乃は軽く首を傾げて踵を返し、ドアを押し開ける。

「う、うまかった……」

「あら、嬉しい。また作ってあげるわね」

 もう一度満面の笑みを向け、そう言い残すと春乃は帰って行った。

 コウスケは春乃の後姿を見えなくなるまで目で追った。身は膠着状態を保ち続けたにもかかわらず、心臓が過剰なまでの運動で破裂寸前まで打ち、ようやく治まりかけたら全身の力が抜け落ちたように、その場にへたり込みそうになる。思わず膝に両手を当て、屈み込んで深い溜息をついた。春乃を前にすると自ずと胸は高鳴ってしょうがない。

「ああ、ドキドキする。これって、恋じゃねえの? 女って分かんねえ。あんな人が……本当かよ。もう泣きてえや……」

 コウスケは頭をかき毟りたい気分だ。「ああ、神様!」

 天を仰いだが、誰も答えてはくれない。真っ青な空が、やけに悲しく切なく映った。

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