◆23 整ったお膳立て──ゲロゲロ蛙の大合唱!

【6日目】1975年(昭和50年)11月26日水曜日


「おめえ、オラのこと嫌いか?」 

「なんだ?」

 コウスケは具なしの味噌汁をすすろうとして、途中で碗を置いた。「嫌いもなにも、バアさんのことよく知らねえし……」

「ややっこしいなあ、ええいっ! オラでねえ、あの娘だ」

「はっ? なんでたびたび間違えるんだ。頭、大丈夫か?」

「年寄りは間違えるもんだ」

「そんなわけ……やっぱ、まだらボケか……」

 こっちに聞こえないように小声で言ったつもりだろうが、朱鷺の耳は感度抜群だ。徐に立ち上がり、コウスケとは反対の方へ行くと見せかけ、素早く方向転換すると、頭に一発爆撃した。スクランブル発進は叶わぬまま敵は大破した。

「誰がまだらボケだ!」

「ああ、クラクラする。コノヤロー、少しは手加減しろ!」

「年寄りにはそんな反射神経はねえ」

 ちゃぶ台を挟んでコウスケの向かいに胡坐をかくと、アッカンベーと舌を出す。

「ふん、都合の悪い時だけ年寄りか。あれが年寄りの力か? バカ力め! ああ、痛え……」

「もいっぺん試すか?」

 拳固をコウスケの目の前で振り上げる。

「暴力反対! ウーマンリヴくそ食らえ!」

「オナゴをバカにすっと痛え目に合うぞ」

 コウスケは碗を鷲づかみに味噌汁を一滴残らずすすって舌鼓を打つ。朱鷺はその様子に満足した。

「ごちそうさん」

「うまかったか?」

「まあまあだな……」

「ウソ言え、顔に書いてあるもの」

「ふん」

 コウスケはそっぽを向いた。

「それよりさっきのはなしだがよ。オラ、じゃねえ……あの娘のこと嫌いか?」

 コウスケは俯いて唸り出す。しばらく経ってから顔を上げた。

「嫌いとか好きとか言う問題じゃねえし……でもよ……」

「でも……なんだ?」

「可愛いよな」

「オラ、そんなに可愛いか?」

「お、おい、あんたが赤くなってどうする! バアさんじゃねえよ」

「分かってるって。おめえも満更じゃねえんだな?」

「オレは、ただ、可愛い、って言っただけだ」

「だから、あの娘を好いとるのよ」

「違うって」

「違わねえ。おめえはあの娘を好きなんだ!」

「もういい、やめてくれ、朝っぱらから」

「困ったヤツだな、まだ自分の気持ちに気づかねえとは……」

 朱鷺のはらわたは煮え繰り返ったが、ここはつとめて抑えた。「あの娘のなにが不服なんだ?」

「まだ、小娘だぜ。そんな娘ものにしてもよ……」

「おめえ、まだお春に未練あんのか? あいつだって似たようなもんでねえか」

「色気が違う!」

「バカか! 20歳やそこらで本物の色気が出るか。ぶってるだけよ、あの女狐は」 

「狐には見えねえけど……」

「化かされとんのよ。ヤツらの悪だくみ聞いたろうが? オラ、話してやったよな。まだ、分からねえのか……」

「組織とかの話か?」

「オラ、ウソ言わねえよ」

「ホントかな? 信じられねえし……」

「ホントだとも! 神に誓ってもええ」

「でもなあ……春乃さんの前に出ると、ときめくんだなあ……」

「そんなもん恋じゃねえ!」

 朱鷺は有無も言わせぬ迫力でコウスケを圧倒した。

「切ねえなあ」

 コウスケは足を投げ出し、両手を後ろについて天井を眺める。

 朱鷺には、二人を結びつける名案がトンと閃かない。

「おめえが考えてるほど、あの娘は子供でねえぞ、カマトトぶってるがな。なかなかどうして……」

「へえ……悪女か?」

「そんなこた言ってねえ!」

「あっそう」

 コウスケは関心なさげに窓の外に顔を向けた。

「あの娘はええ娘だ。そんじょそこらの小娘とはわけが違う」

「へえ」

 コウスケは朱鷺の声に反射的に相槌を打っているだけらしい。

 朱鷺はしばらく黙っていたが、息を大きく吸い込んで一気に言葉を吐き出した。

「あの娘を襲え!」

「あっそう」

 コウスケはちょっとだけ首を傾げてこっちに向き直った。「えっ、今なんて?」

「あの娘を襲え!」

「うん」

 コウスケは頷いた。「はっ? どういう意味?」

「ホテルにでも強引に連れ込め!」

「な、なに言ってんだ? 犯罪だぞ!」

「違う。あの娘も喜んでおめえに従う。おめえにゾッコンよ。早くなんとかしてやらねえか! おめえが男ならな……」

「バカ言え! バアさん、どんな頭してんだ?」

「じゃあ、あの娘の気持ち確かめてみな」

「どうやって」

「そんなこと、自分で考えろ」

「やっぱ、やめとく」

「どうして?」

「こっちに、その気はねえ」

「バカッタレ! 気づいとらんだけよ。おめえもあの娘にゾッコンよ」

「なんとも思わねえ。ドキドキしねえもん」

「ドキドキだけが恋じゃねえ!」

 朱鷺は何とか気を引く方法はないものかと頭を捻った。「おめえ、男になりたかねえか?」

「オレは男だ」

「ばーか、女知らねえくせに」

「そ、そんなこと……」

「よーく考えてみな」

「なんだよ?」

「汚れきった女と……ええか、方や、生娘きむすめだ。おめえ、どっちがええ?」

「生娘」

 コウスケは即答した。

「な、そんなら決まりだ」

「なにが?」

「あの娘は生娘だ。オラが保証する」

「なんでバアさんに分かる?」

「本人だもの」

「バアさん……あんた、生娘かい?」

「ううん、違うってば……」

 朱鷺は身もだえした。

「また気色悪い真似を! ゾッとする……」

「それに比べて……お春の男遍歴知ってっか?」

「し、信じねえぞ!」

「あいつは、とんだ食わせもんよ。どんだけの男がヤツの毒牙にやられたと思う?」

「ま、まさか」

「ヤツのことならよっく知ってんだ。だから、手遅れにならねえうちに、ヤツと手を切らせてえのさ。年寄りの言うことは聞くもんだ」

 朱鷺は真剣な眼差しをコウスケに突き刺してやる。コウスケはいつしか胡坐をかいてうな垂れていた。顔色をうかがうと、不安な面持ちで何度も首を傾げている。

 ──しめた!

 と思った。

「オレ、分からねえよ……」

 コウスケは頭をかき毟った。

「ごめんな。おめえに辛え思いさせてよ。だがな、現実を見つめて欲しかったんだ。この通り、すまねえ……」

 朱鷺は正座すると、両手をついて深々と頭を畳にすりつけた。戦法を変え、下手に出ることにした。

「な、なんだよ、いきなり。おい、頭、上げろ」

 頭を下げたままコウスケの様子をうかがった。コウスケも正座して対面している。朱鷺は、今一層深くこうべを垂れると、ペロッと舌を出してほくそえむ。

「許してくれっか?」

「わ、分かったから、頭上げろ。調子狂うじゃねえか……」

 ニヤけた表情を整え、真顔に戻して頭を上げた。もう一度真剣な眼差しを目前の阿呆に送る。

「老婆心なんだ。親心だと思って、堪忍してくれっか? オラ、不器用な女だから、ああいう手しか思いつかなかったんだ……」

 朱鷺はもう一度、頭を垂れる。「すまねえ」

「もういいよ。やめてくれ」

 顔を上げコウスケを見ると、こっちに優しい笑みを向けていた。爺さんが生きている、と実感した。爺さんのこんな穏やかな表情を見たのは、どれくらい振りだろう。自ずと胸の奥から熱いものが込み上げてきた。指で鼻をこすりながら、クシュンと鼻をすする。

「おめえは本当に優しい男だな。だから、女はほっとかねえんだ」

 朱鷺の本心である。

「よ、よせ。そんな歯の浮くような……」

「お世辞じゃねえよ。オラ、事実しか言わねえもん。おめえは女にモテモテよ」

「い、いやあ、そ、それほどでも、自信ねえし……ハハハ……」

 コウスケは気をよくしたようだ。朱鷺は心の中で勝ち鬨を上げた。

「自信がねえ? まさか! おめえは九州男児だもの」

「い、いや、九州男児、撤回」

「いんや、正真正銘、男の中の男だ!」

 朱鷺は声に力を込める。「おめえは大した男よ!」

「褒めすぎだって」

 コウスケは満更でもない表情だ。

「うんにゃ、おめえは命がけで大切なものを守るのよ。大した男だ!」

 今言ったことも朱鷺の本心だ。朱鷺はいつもそう思ってきた。爺さんは家族のために身を投げ出して尽くしてくれたのだから、と。

「大袈裟だよ」

「大袈裟でねえ! 持ちもんは、ショボイけどよ」

「なんのこと?」

「それ……」

 笑いながらコウスケの股間を指差す。

「ほ、ほっとけ!」

「なあ、ためしに、声だけでもかけてやってみねえか?」

「本気でオレのことを?」

 ──乗ってきたのか?

 コウスケの表情をうかがう。

「好きなんだ。寝ても覚めてもな……分かっか? この乙女心を……」

「オレ、そんなに思われてんの?」

「かわいそうなくれえな。見ていられねえよ」

「ふーん」

 コウスケは思い詰めた表情を見せた。

「おめえもあの娘も、まだ若えんだ。気楽によ……つき合えってわけじゃねえのよ。友達みてえによ、接してやってくれたら……あの娘、友達もあまりいねえし」

「寂しいだろうな……」

「そうよ、そうなんだ。一人ぼっちでよ……」

「そうか、分かった。オレが友達になってやればいいんだな?」

「そうとも、深えつき合いしろってわけでねえのさ」

「だったら、初めからそう言えばいいのに。オレもこんなに意固地にならねえで済んだんだ」

「す、すまねえな。オラ、昔から、不器用でよ」

「そういうわけか……なんかすっきりしたぜ」

「オラ、昼にまたサンクチュアリに行くんだけどよ……」

 そっとコウスケの顔を覗き込んだ。

「いいよ、オレも昼飯食いに行くし……やっぱ、パンと牛乳じゃな、力出ねえもんな」

「ああ、そうとも、ええ心がけだ。偉えよ、おめえは」

 朱鷺は大きく頷くと声高に笑う。

 ──これでお膳立ては整った。

 ──あとはどうやってコウスケの気持ちをこっちに向けるかだ。

 ──なんとかしてみせる!

 名案は浮かばなかったが、正座した膝の上で拳を握り締め、朱鷺は意気込んだ。

 コウスケの湯呑にお茶を注いでやった。

 ──なにか策はないものか……?

 無意識に入れ歯を外す。徐に立ち上がった。

「バアさん、どうかしたか?」

「便所だ」

「そうか、ごゆっくり」

「あんがとよ」

 頭を捻りながら入れ歯をちゃぶ台の上に置くと、ポチャンと音がした。コウスケは依然としてこっちを見ている。お互いの視線がぶつかった。朱鷺は湯呑をコウスケの前に置いて、優しく微笑んでやる。「どうぞ」

「ああ、あんがと」

 コウスケは湯呑を握ると、お茶をすすりながらこっちに笑みを返す。朱鷺はその表情に満足した。

 朱鷺が便所のドアの前に立った時、急を告げるコウスケの悲鳴が轟いた。

 ──なにごとか!?

 と急いで駆けつけたら、左手を畳につき、右手は喉元を押さえながら、げえげえ、むせ返るコウスケの姿が痛々しく目に焼きついた。

「どうした! 気分、悪いのか? 毒でもあおったのか!」

 朱鷺の問いかけにコウスケは指を差すだけだった。

 コウスケの指に顔を近づけ、その指し示す方向を注意深く確認する。指の先にはコウスケの湯呑しかなかった。朱鷺は首を捻り、湯呑を握って中を覗いてみる。

「おえっー!」

 コウスケの悲痛な叫び声が耳をつんざいた。

「あれっ、入れ歯でねえか?」

 朱鷺は湯呑に沈んだ入れ歯に見入った。「ハテ? なしてこんなとこに?」

「の、の……飲んだ!」

「あれま、飲んだってか? 大丈夫だ。オラ病気はねえもの」

 ──なして、入れ歯が独りでにこんなとこまで……?

 朱鷺は考えながら湯呑の中に指を突っ込んで摘まむと口を開けた。入れ歯は、本来おさまるべき場所にきちんと据え置かれた。入れ歯を噛み合わせてみる。カタカタと鳴った。コウスケの目前で入れ歯を引ん剥いて見せた。と、コウスケは朱鷺の口元をチラリと覗くと、尚一層激しくむせ返り出す。

 用を足し終えて戻ると、コウスケの前に腰を下ろした。優しく微笑みかけたら、手で口を押さえる。今度は大口を開け、豪快に笑ってみせる。自ずと入れ歯が音を立てる。そしたら、コウスケはまた、ゲロゲロと蛙の真似で大合唱を始めた。

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