◆13 魂を抜かれたカベチョロ野郎──目を覚まさせる手立ては?

【4日目】1975年(昭和50年)11月17日月曜日


 コウスケが懇願こんがんするので、『みどり公園』入り口付近の電話ボックスの前で降ろしてやり、自分はコウスケのアパートまで戻ると、バイクを置いて部屋に入った。

 朱鷺は焦っていた。

 ──このままではお春にコウスケを奪われてしまう!

 突然、朱鷺の脳裏に九太郎とよし子の姿が浮かんだ。オカメさんに九太郎はまんまと誘惑された。

 ──あの二の舞は避けねばなんねえ!

 ──なんとしても自分に振り向かせなくては……

 朱鷺は頭を巡らせた。

 狭い部屋の中に閉じこもっていたのでは、さっぱり名案は浮かばない。この際、外に出ることにした。 

 しばらく街なかを彷徨さまよい、名案が浮かぶのを待った。だが、こんな時に限って、頭は冴えない。

 『みどり公園』の入り口まで辿り着くと、考え続けるのも面倒臭くなって、またベンチで少し昼寝でもして頭を空っぽにすることを思いついた。トボトボと公園内に足を踏み入れる。丁度気候もいい。晴れた御空みそらを見上げながら、70年来利用してきたベンチのある場所へと通路を進んだ。

 大銀杏おおいちょう下のベンチが見えてきた。そちらの方へ目を向けると、コウスケが何やら赤いものを手に抱え、座っていた。目を凝らしてよく見ると、花束のようだ。ふと、前方に視線を向ける。誰かがこちらにやってくる。

 ──女だ!

「あれ……お春じゃねえか!」

 朱鷺はお春の姿を見つめたまま呆然と立ち尽くした。

 細身の肢体に、蜜蜂のようにくびれた高い腰あたりから真っすぐ伸びた長い脚線美。肩からスッと天を突く首に乗った小顔は気品に溢れ、まなこはいつ何時も潤み、キラキラと全ての光を集め反射して輝く。高からず、そうかと言って決して低いわけでもない鼻筋の通った鼻は気高けだかく、常に笑みをたたえた唇は濡れ、男を挑発するに足る武器と言える。普段は束ねた長い髪を、時折解いては色っぽくかき上げながら風になびかせる。それも男にはたまらなくそそられるらしい。

 ──なんともわざとらしい仕種だ!

 ──胸糞が悪くなるほど鼻につく!

 おまけに痩身そうしんのくせに形のよいふくよかな胸を突き出して歩く姿は、老若男女を問わず、振り返らせるだけの魅力と迫力を持つ。とにかく日本人離れした容姿の持ち主なのだ。言うなれば美人系と称しておこう。それが朱鷺には気に食わぬ。

 ──オラだって、どうしてどうして……

 ──向こうがそうくるなら、こっちは可愛い系で勝負してやる!

 と息巻く。

 ──オラだって中々のボインだ!

 ただ全体的にポッチャリした延長線上に乗っかっているのだが。

「けんどよぉ、ボインには変わりねえ!」

 朱鷺は譲らない。

 ──お春が日本人離れした美人系なら……?

 朱鷺はしばし頭を巡らせる。

 ──そうだ!

 ──こっちは純国産の大和撫子やまとなでしこだ!

 ──ポッチャリ型の方が可愛いに決まってる!

 ──向こうはこんな芸当はできまい!

 入れ歯を引ん剥いて満面の笑みで可愛さを強調してみせる。朱鷺は勝ち誇った気になった。だが、何となくまだ不満は残る。今一度、お春に勝るものを探ってみる。考えあぐねた挙句、一つだけ思い当たった。

 ──若さだ!                              

 ──自分は、お春よりも三歳も若いのだ!

 ──この真実は、お春がどう足掻あがこうとも変えられやしねえ!

 ──ざまあ見ろ!

 朱鷺はニンマリと頬を綻ばせ安堵する。と、突然我に返って、お春の行動に見入った。

 お春は、コウスケの元へ歩み寄ると、あろうことかコウスケに寄り添って座った。

 朱鷺は辺りを見渡し、二人から身を隠す場所を探し当てた。気づかれぬよう、砂利道から柵をまたぎ、芝へ進入すると、銀杏の木立の影を縫って近づき、背を屈めながら爪先立ちで右指をつき、落ち葉を踏んで音を立てぬようベンチの背後の大銀杏まで忍び寄った。大木の幹を隠れみのに、背を当て張りつくと、二人の会話に耳をそばだてる。

「あら、嬉しいわ、私に?」

「へへへ……」

「私、バラって好きよ。あなたのことも……」

「へへへ……オレも……」

 朱鷺はクルリと回って、掌を幹に吸いつけ、そっとコウスケを覗いた。

 ──なんとも腑抜け顔だ。

 ──魂を抜かれたカベチョロ(ニホンヤモリ)でねえか。

 両手を広げ、身をよじってデレデレしてやがる。

「今度、デートしましょうね。ありがとう。ホントに綺麗」

 お春は立ち上がった。が、すぐにもう一度座り直す。

 朱鷺は我が目を疑った。

 お春は、コウスケの左頬に唇をつけた。と、コウスケは、またカベチョロの走るさまを真似した。お春は立ち上がって、しばらく手を振りながら後ろ向きに、きた方向とは逆の出口へ向かった。カベチョロ野郎はお春の姿が消えるまで見送り続けた。接吻された左頬を撫でながらニヤけてやがる。

 朱鷺は木陰から出てベンチまで足を忍ばせると、コウスケの背後に立つ。

 コウスケはベンチの背もたれに両腕を引っかけながら深く背を埋める。

「ヘヘヘッ……」

 アホ面で思い出し笑いを始めたコウスケを、朱鷺はしばらく真上から覗き込んだ。全く気づく様子はない。コウスケの左肩にそっと右手を添えた。

 コウスケは首を回し、視線を肩に落としたあと、ニヤけた顔を上げ、上目遣いでこちらを見た。

 朱鷺は目を細め、無表情をつくる。視線は真っすぐ前方に向け、完全に動きを止めた。呼吸も止める。突然目を見開き、目玉だけをギョロリと転がしてコウスケを見下ろす。視線どうしがぶつかった。その瞬間、朱鷺は片方の口角を少しだけ引き上げる。

「ヘヘヘッ……」

 コウスケの口真似をする。朱鷺はコウスケの口元が一瞬引きつったのを見逃さなかった。「楽しいかい? ウゥー……ワンッ!」

「ウワアーッ!」

 コウスケは振り向き様立ち上がろうとして、すねをベンチの縁に引っかけた。腰が引けたまま勢いよく後ずさり、バランスを崩して尻餅をつくと、後ろに一回転してこちら向きに正座して止まった。

「なーにやってんの?」

 笑いかけてやる。

「ヘヘヘッ……」

 コウスケは頬を痙攣させながら下を向いて、リーゼントを整える。「さ、さ、さ、さて……と」

 朱鷺はベンチの背もたれをまたいで、その上に腰かけた。ふと、足元に赤い花びらを見つけた。摘まんで拾い上げ、目線にかざし首を捻る。

「なーんかな? 真っ赤だなあ。バラみてえだなあ……」

 もう一度笑顔を向け、首を捻る。「なーんでこんなとこに落ちてるのかなあ? 分かんねえなあ、さっぱり分かんねえや……?」

「さ、さて、と……か、帰ろうかなあ……」

 コウスケが正座を崩そうとした。

 朱鷺はすかさずベンチの上から、素早く飛び降りた。と、コウスケは背筋をピンと伸ばし正座し直す。

「暑いのか? 汗びっしょりでねえか」

「そ、そう、だな……い、いい、天気だ……なあ……」

 声には微妙にビブラートがかかる。

「全くだ」

 朱鷺はコウスケから視線を逸らさず顔を空に向けた。目玉だけを上下に瞬間移動させただけで空模様を確認すると、顔を上に向けたまま、コウスケを下向きに視線で射抜く。

 視線は逸らさず、ゆっくりと屈んで、適当な大きさの小石を拾い集め、手探りで選別すると、左手に三つだけ残し、姿勢を正した。

 一つを右手に持ち、上に放り投げてはキャッチを何度か繰り返す。ビー玉ほどの角ばった小石である。右手に小石を握ったまま、一度コウスケをキッと睨みつけたあと、そっぽを向いて静止した。耳に神経を集中させる。音でコウスケの動きを察知する。

 ──砂利がこすれ合う音がした!

 素早く首を回し、コウスケの方を見る。相手は右足を立てたまま静止した。また、そっぽを向く。今度はしばらくそのままの状態を保つ。耳を澄ます。

 ──砂利を踏む音が聞こえる。

 ──ゆっくりと、規則正しく……

 ──突然、音の間隔が短くなった!

 朱鷺はセットからクイックモーションで振り向き様、コウスケの足元めがけ小石を投げた。

 小石は逃亡するコウスケを一直線に追いかけ、10メートルほどの地点で、おじぎはしたものの、見事にコウスケの左のくるぶしを直撃した。小石は跳ね上がり、低く放物線を描いて着地すると、ほかの砂利に紛れ込んだ。

 朱鷺の牽制けんせいに刺されたコウスケは、走りながら左足を一度上げて手でさすると、バランスを崩した。それでも走ろうとしたせいで、前につんのめりそうになる。こちらを振り返りながら尚も逃亡をはかる。足元はおぼつかない。とうとう左のかかとで右の爪先を踏んで前屈みになる。足がもつれる。足がついて行かない。足だけを後方に残し、ばたつかせ、転びそうになった時、両手をつこうとした。と、砂利で足が滑って地面から跳ね上がり、そのまま両手を高く頭上に伸ばしながら砂利道を滑り込んだ。胸でしばらく滑走すると、無事ブレーキは利いた。尚も逃亡せんとして、慌てふためいた様子でいっとき両の手足をばたつかせカベチョロの逃げる様を真似ていたが、観念したらしく、ゆっくりと上体を起こすと、その場に座り込み、胸についた埃を手ではたき出す。

 朱鷺は着陸地点まで歩み寄り、真上から見下ろす。と、コウスケは足を広げて放り出し、後ろに両手をついた。こちらを見上げて笑っている。

「いやあ、今日はいい運動した。最近運動不足で、体なまってたもんで、へへへッ……いやいや、いい汗かいた。すがすがしいなあ。ああ、いい天気だ。スポーツの秋ってな。来年こそ、チョーさんに頑張ってもらってな……優勝だ」

「おめえも引退すっか?」

 朱鷺は歯を剥き出しにして笑う。入れ歯がガタガタと鳴る。「永久不滅にしてやろうか?」

「ど、どう、いう……意味、かな?」

 不安げなコウスケの表情に、朱鷺は笑いながら2球目を右手に用意した。

「殺してやる」

 朱鷺は囁く。口元の空気を微かに振動させ、コウスケの耳へ思念を届けてやった。

「な、なんて……言った?」

「聞こえなかったか?」

「うん」

「あのな……よっく聞けよ」

「うん」

「殺してやるー!」

 朱鷺は叫んで大きく振りかぶった。「こういうこった!」

「や、やめてー!」

 コウスケは尻で後ずさった。

「やめねえー!」

 そう吐き捨て、コウスケめがけ思い切り投球した。小石はコウスケの股間すれすれに地面を引っぱたいてはね返った。

 コウスケの体は一瞬大きく痙攣した。震えながら目を見開いて、怯えた表情をこっちに向ける。

「お、おい。当たったら、どうするんだ!」

「今のは、わざと外したのよ」

「コ、コントロール、いいっすね……」

「もいっぺん、試してみっか?」

「け、結構です」

 朱鷺は最後の一石を投じようと、またモーションに入った。

「わあー、待て、待ってくれ!」

「それで?」

 朱鷺はワインドアップモーションに入ったまま静止した。

「な、なにが?」

「諦めな」

「な、なにを?」

「お春」

「お、お言葉ですが、オレの勝手……だと思うんだけどな」

「なんだと?」

「なんで、そうオレに構う? 赤の他人のくせに」

「なにぃ!」

 朱鷺はモーションを再開する。

「ワアーッ! 話せば分かる!」

「そんなら話せ」

「なにをだ?」

「今、おめえが言ったんだ!」

 朱鷺は怒鳴った。

「え、えーとー……なにから話せば……」

「おめえの将来だ」

「オレの……将来?」

「そうだ。おめえは、あのと一緒になる。そして、幸せにする」

「誰を?」

「おめえの家族をだ。当たりめえのこと聞くな!」

「オ、オレは、あの娘とは……」

「なんだと!」

「オレの人生はオレが決める!」

「おめえが決められねえから、オラが手伝ってやってんでねえか」

「手伝う?」

「そうとも。おめえはあの娘にプロポーズする。今すぐ!」

「無茶な! 分からねえ。オレとあの娘をくっつけてどうする?」

「そうしねえと、オラが困る!」

「どうして?」

 朱鷺は首をグルグル回すと、左肩を右の拳で叩いた。

「理屈はこねるな! 嫌われる!」

「なにも、理屈こねてるわけじゃ……」

「つべこべ言うな! こうだぞ!」

 朱鷺は三度みたびモーションを起こした。

「分かった。分かったから、そんなもん捨てろ!」

「ホントか?」

「ああ」

「よし、そんなら行くぞ」

「どこへ?」

「決まっとる。あの娘のとこさ」

「なんで?」

「プロポーズしに」

 朱鷺は小石を放り、手をはたいて顎をしゃくった。

「こっちだ。ついてこい!」

 強い口調で促すと背を向けた。その途端、逃げ去る足音が聞こえた。振り返ると、コウスケは反対方向に遠ざかって行く。その後姿を眺めながら、朱鷺はせせら笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る