◇12 猛禽類が暴くお春の正体──オレは 春乃さんを信じる!
【4日目】1975年(昭和50年)11月17日月曜日
木立が勢いよく後方へ流れる。
山道に入って、カーブを曲がる度にコウスケは目を閉じ奥歯を噛み締める。左は岩肌剥き出しの斜面、右は奈落の底。どちらに突っ込んだところで行き先は、地獄への一丁目。あの世と決まっている。
婆さんは右へ左へとバイクを倒しながら山道を猛スピードで登る。左へ曲がる時だけ、今にもコースアウトしそうなくらいわざと崖すれすれに大きく弧を描く。冷や汗が
次のカーブを左に曲がった時、コウスケの目は、前方に黒い塊を捉えた。次第に距離を詰めてゆく。
最後尾にピタリと張りつくと、すぐに追い越し、先頭で集団を率いるリーダー格らしき男と並んだ。長い足を通したブルージーンズの裾から黒のブーツが覗く。窮屈な黒いフライトジャケットの胸元ははだけて、厚い胸板を包んだ白いTシャツが日を反射して眩しい。“ホンダドリーム750CBフォア”、コウスケのバイクと同じだ。
婆さんはアクセルを吹かし挑発する。相手も難なく乗ってきた。
レースはコウスケの意志に反して始まった。
二台のナナハンは、カーブで抜きつ抜かれつを繰り返し、直線ではほぼ並んで峠を疾走する。峠の
二台は、いっとき、お互いアクセルを吹かす音だけで言葉を交わす。
男はジェットタイプのメットに黒のサングラスをかけている。徐にサングラスを外すと、大きな手で折り畳み、Tシャツの襟にテンプルを引っかけた。
「やるな」
低い声だ。「ネエさん、どこの族だ?」
「一匹狼さ」
婆さんはゆっくりと首を右に捻り男の方を向くと、右手の親指を立てる。
男はチラッとコウスケの方へ視線を送った。
「オレの女にしてやろうか?」
「バアさんよ、どうする?」
コウスケはクスクス笑いながら婆さんの左耳に囁いた。
「おい、兄さん、なにがおかしい?」
男は片眉を上げ、コウスケに矛先を向けてきた。落ち窪んだ眼窩の奥から、眼光が鋭く獲物を捉える。抜け目ない捕食者の目だ。
「い、いえ、なんでも……」
コウスケはギクリとして、頬を引きつらせた。所詮、猛禽類には到底敵わない。鷲は尚も睨みを利かす。
「相変わらずいい男だぜ」
婆さんは声色を変えた。
「オレに用か?」
鷲の目は婆さんに向けられた。ようやく捕食者の刺すような視線からコウスケは解放された。
「藤九郎のヤツ、どこに……?」
「トラブルか?」
「まあ、そんなとこ」
「女とつるんでんだろう」
「お春とか?」
「たぶんな。出稼ぎじゃねえのか、隣町で」
「お春の兄貴に聞いても、らちあかねえし……」
「犬と猿だな。連れ子どうしだろ?」
「あんたに聞いてもダメか……」
「隣町のホテルでも当たってみな」
「ホテルの名前は?」
「『城』だ」
「そうか、当たってみるか」
「おう、今日は楽しかったぜ」
「オラ……」
「オラ?」
「い、いや。こっちも楽しかった」
「そうか」
「あんがとな。じゃあ、また……」
婆さんはUターンしてブレーキレバーを握り締めた。
「ネエさん。名前は?」
「かごの……いや……トヤマトキ」
「いい名だ。覚えとくぜ。またな」
「ああ」
婆さんはブレーキレバーを握り締めたまま、峠を下り始めた。
コウスケは汗びっしょりで、注意深く婆さんの運転を見守る。婆さんの絶妙なテクニックにコウスケも舌を巻いた。ナナハンは無事峠を下り切り、再び喫茶店『龍』を右手に見た。左折して県道を隣町方面へ向かって加速した。コウスケは黙りこくって、婆さんの小さな背中を見つめる。
「どうした?」
突然婆さんが口を開いた。
「なにが?」
「借りてきた猫でねえか」
「なんでもねえ」
「分かったか?」
「なにがだ?」
「お春の正体だ!」
「黙れ!」
「今に思い知る。仕事場に行ってみるぞ」
「仕事場……? 誰の?」
「お春のだ」
「もういい!」
コウスケは激しくかぶりを振った。
「『城』ってホテルだな」
「行かねえ!」
「おめえ、覚悟決めろや」
「やめろ!」
「目、覚ませ!」
「オレは……オレは……信じる! 春乃さんを」
「男と組んで
「聞きたくねえ!」
コウスケは婆さんの腰をグイッと引き寄せる。「停めろ!」
「危ねえでねえか!」
「停めろって!」
もう一度、コウスケが婆さんの腰を揺らしながら手前に引き寄せた時、婆さんはバイクを左に倒し、丁度急カーブを曲がる寸前だった。バイクはバランスを崩し、大きく左へ傾いた。婆さんは車体を立て直そうとして、バイクは左右に揺れる。
その時、前方から大型ダンプを追い越してきた
コウスケは転がり続け、車道の真ん中で止まった。咄嗟に起き上がり、慌てて婆さんの行方を捜す。婆さんは路肩に仰向けに倒れていたが、すぐに上体を起こすと腰をさすり出す。コウスケは四つん這いでそちらへ移動した。
「あいたたたー……」
「バ、バアさん、大丈夫か!」
コウスケは叫んでいた。
「なんともねえ。おめえは?」
「肘、すりむいただけだ」
コウスケは歩道の縁に座り込んで左腕を折り曲げ、皮ジャンの破れた箇所から覗く肘を触って確認してみる。指をこすって付着した少量の血を乾かす。
婆さんは立ち上がると、こちらに歩み寄った。
「馬鹿なことを……」
穏やかな口調だった。
「すまねえ」
コウスケはがっくりと肩を落とした。また殴られるかと覚悟したが、意外にも婆さんは何もせずバイクの方へ行った。
幸い、お互い大事に至らずに済んで、コウスケは胸を撫で下ろした。
「さあ、どっちだ?」
婆さんは、隣町と鷹鳥町へ続く方向を交互に指差して、コウスケに選択を迫った。
「もういい。そんな姿……見たくねえ」
「分かったのか?」
「ああ、かわいそうな人なんだ……」
「なんだと?」
「やっぱ、一人ぼっちなんだ」
「ハァーンッ?」
「連れ子どうし、って……あの人言ってた。いじめられてんだよ。そうに決まってる。だから……」
「フンッ、呆れたヤロウめ! アバタもエクボってか?」
「やっぱ、オレ……オレは……」
「なんだ? はっきり言え!」
「春乃さんが好きなんだ!」
コウスケは腹の底から叫んだ。「春乃さーん、好きだー!」
「ナ、ナニィーッ! おめえの、おめえの好きな女は……」
婆さんは転倒したバイクの横で仁王立ちで拳を握り締めた。顔は真っ赤だ。目は血走っている。全身が震え出す。婆さんはナナハンを軽々と起こして、左手でハンドルを右手はシートの尻をつかんだ。ナナハンは宙に浮き上がり一瞬にして方向を変えた。
コウスケは目を瞬いて、呆然とした。婆さんはナナハンを持ち上げた。それも軽々と。
──確か、二百キログラムを超えるはずだ?
己が目には、最早ナナハンが自転車にしか見えなくなった。コウスケは身震いした。
──こんな婆さんとは、とても互角には渡り合えまい。
コウスケが悟りを開いたところで、日は大分高くなってアスファルトにくっきりと短い影を落としていた。バイクにまたがった婆さんの顔を、真昼の日差しが照らした。
「なんて可愛いんだろう」
コウスケは思った。首を捻る。激しくかぶりを振って、今、心によぎった感情を弾き飛ばすことに躍起になった。
「バアさん、あんた、ナニモノだ?」
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