◇14 お春の裸──ショックで幻覚が!

【4日目】1975年(昭和50年)11月17日月曜日


 左足のくるぶしがズキズキ痛むが、そんなことは構わない。コウスケは力いっぱい走った。

 公園の南門を出ると、正面に鷹鳥駅を望みながら細い路地が真っすぐ延びる。門を出てすぐ右に折れ、しばらく西へ延びる公園沿いの歩道を行き、三つ目の交差点の先に架かる『鷹鳥出会い橋』を渡って、もう一度右へ折れ、『羽音はおと川』を上流へと重い足を運んだ。土手沿いのでこぼこ道を、息を切らしながら走り続け、一度立ち止まって振り返ってみると、最早街並は消えた。これより先は山道だ。コウスケは土手に腰を下ろして、喘ぎながら仰向けに寝そべった。

 ──ここまではあのバアさんとて追いつくはずはない。

 ──確信できる!

 しばし休息をとったのち、膝を抱え、今一度、追っ手が迫っていないか、確認する。

 ──大丈夫だ。

 安堵して、疲れた体をいたわるように、そっとその場に身を横たえた。手を組んで頭を乗せ目を閉じる。だが、なぜか胸辺りがモヤモヤして、瞼の裏にあのケダモノの顔がチラついてしょうがない。不安に駆られ飛び起きた。

 ──そんなはずはない。

 いくら何でもこんなに早くここまで辿り着くとは考えにくい。

 ──犬じゃあるまいし……

 それでも油断は禁物だ。仕方なく、また上流へ向け歩き出した。

 しばらく行って山道へ入ると、紅葉は大分進んでいる。ひんやりした風が山から吹き下ろして、火照った身体を冷ましてくれた。爽快そのものだ。心も自然と浮き立つ。頭の中でメロディを奏でた。流行歌だ。ワンコーラスだけ次から次へと早回しで歌う。

 三曲目が終わってすぐ、犬の唸り声が聞こえたような気がした。セントバーナードか何かの大型犬のようだ。

 ──気のせいか……?

  耳を澄ましてみる。声はどこからも聞こえない。

 ──やっぱり気のせいなんだ!

 ホッと息をついた。また歩を進める。

 しばらく行くと、何か腑に落ちない。立ち止まってみる。また歩き出す。また止まる。一歩踏み出してみる。首を傾げる。足音がダブっているような音がした。もう一度試してみる。微妙に音がずれている。走ってみる。止まる。やはり足音は重なる。

 ──ナニかがいる?

 コウスケは唾を飲み込んだ。恐る恐る振り返った。

 凄まじい形相だ。思わず後ずさりした拍子に尻餅をついた。

 ──これでなん回目だ?

 我が尻をおもんぱかってやり、呆れながらケダモノを見上げると、舌を出しハアハア肩で息をつきながら徐々に詰め寄ってくる。立ち止まり、真上から真っ赤な顔でこっちを睨み、拳固に息を吹きかけた。敵の示威じい行為に、首を竦め、頭上高々と手をかざす。領空侵犯に備え、防衛体制をとった。ほぼ反射的に。

「おめえ、高校の時、100メーター18秒だったな」

「誰から聞いた?」

「オラにはお見通しよ。まーだ、やっか?」

「なにを?」

「追っかけっこだ」

「イヤなこった」

「オラから逃げ切れると、本気で思ったか?」

「年寄りのくせに、よく心臓もつな?」

「毛が生えとるのよ」

「速えーしよ!」

「12秒3じゃ。1、2、3じゃ。80歳の時じゃがな」

「ウソみてえ……」

「ほら、立て、おいちにぃ……昔はならしたもんよ。今はちょっくら遅うなってしもうたわ」

「どれぐらい? 衰えてねえみてえだけど……」

「ハテ? こないだ性悪猫、追っかけて捕まえたわ」

「人間か?」

「ま、コツがあんのさ」

「どんな?」

「猫の気持ちになんのさ」

「やっぱ、ケダモノだ!」

「おめえがトロすぎんのよ。おめえ、中学の時、同じ犬に2回ケツ噛まれたな」

「なんで知ってんだ? 言ったことねえ、親にも……」

「オラ、おめえのことは全部お見通しよ。なん度も言ってんだろ……分かっか?」

「バアさんよ」

「なんだ?」

「あんた、神様か?」

「なんだと? ま、それもええなあ……さあ、立て、行くぞ。お春の正体暴いてやっから」

 コウスケは、婆さんに首根っこを引っつかまれて渋々歩き出した。首が締めつけられたが、今回ばかりは婆さんのなすがままに、おとなしく従った。借りてきた猫のように。


   *


 ──なんの因果でこんな目に遭うんだ!?

 合点いかぬまま婆さんの言いなりになった。隙を衝いて逃げ出す気力も失せていた。

 テーブルを挟んで、婆さんの監視の目が光る。苛立たしげに腕を組み、右足で貧乏揺すりを繰り返す。

 コウスケは婆さんと視線を合わすまい、と四方八方に顔を向ける。配膳口の上の時計はもうじき3時を刻もうとしている。客は疎らだった。

「おめえはニワトリか?」

 コウスケは無視を決め込んだ。

 二人のテーブルへ例のウエイトレスがやってきた。

「なにになさいますか?」

 コウスケは彼女を一瞥しただけで、すぐにそっぽを向き、視線を合わせぬと決めた。

 ──自分がなんでこんな小娘を相手にするんだ!

 ──しかも、結ばれる……だと!

 ──断じてあり得ねえ!

 ──天地がひっくり返っても絶対にねえ!

「カレー」

 コウスケはすまして窓の外を見ながら横柄に言い放った。

「か、かしこまりました……」

 小娘は去った。

「こらっ! 無視か、ええ度胸しとるのお!」

 婆さんは巻き舌で捲し立てる。

 コウスケは無視する。

 ふと、視線を入り口の方へ向けると、春乃が入ってきた。コウスケは立ち上がって手を振ろうとして、寸での所で思いとどまった。春乃のすぐ後ろから雉牟田藤九郎の姿が目に留まったからだ。

 コウスケは膝に肘をついて頭を沈めた。

 二人はついたて越しにコウスケ達の隣のテーブルに向かい合った。

 そっと、顔だけを右手のついたてに向け、様子をうかがった。二人の顔はついたてに阻まれ、見えない。少しだけコウスケは頭を上げた。ついたての上に置かれた植木鉢の隙間から二人の表情が見て取れた。お互い微笑んでいる。藤九郎の顔をじっと見つめた。目、口、鼻はちゃんと並んでいた。だが、その位置と形が少々滑稽なだけだ。丸顔に円い目はお互い離れて垂れ下がり、ちょこんと二つ穴が開いた鼻はこれまた丸々とした団子そのものだ。おちょぼ口は鼻から大分下で両端をつり上げいつも笑っている。いかにもお人好しで正直者といった印象を受ける。コイツが悪党だとは俄かには信じがたい。

 コウスケは息を殺し、耳に神経を集中した。二人の声は断続的にコウスケの耳に届いた。ヒソヒソ話の所々で、“金”とか“脅す”とか、春乃の口から漏れ聞こえる。

 人の気配がして顔をそちらに向けると、婆さんの顔が間近に迫って、思わず声を上げそうになった。婆さんと一緒だったことをすっかり忘れていた。

「しっ!」

 婆さんは左手の人差し指を口に当てると、その掌を広げ、今度は耳に当て、顎をついたての方にしゃくって二人の話を聞くよう促してきた。

 コウスケはもう一度、二人の方を覗いた。少し椅子から尻を浮かせる。

「手はずは整ってるの……さっき、ホテルに忍び込んで準備万端よ」

「それで、どうすれば?」

「あんたは電話かけるだけでいい」

 春乃はハンドバッグに指を忍ばせモゾモゾやったあと、何かを取り出してテーブルに載せた。

 藤九郎はそれを手に取ると、目の高さにかざす。

「なんだ?」

「証拠写真よ」

 コウスケは椅子を離れ、ついたての影に隠れながら、植木鉢の隙間から藤九郎の手元をうかがった。中々確認することはできなかったが、一瞬だけチラッと見えた。コウスケは息を呑んだ。

 春乃と中年の男が写っている。男は横を向いて寝ている。春乃は男の上にもたれかかり、目線はカメラを見ていた。腰辺りまで布団ははだけて、春乃の剥き出しの背中が生々しい。春乃は裸だった。その白い肌が何とも悲しくコウスケの目に焼きついた。

「気が乗らないな……」

「今更、なに言ってんの? 手伝うって約束したくせに、根性なし!」

 春乃は藤九郎に物凄い形相で迫った。

「分かった!」

 少し間をおいて藤九郎の声がコウスケの鼓膜をつんざいた。「これっきりだぞ!」

「ええ、ありがとう。頼んだわよ」

 春乃は椅子に深く身を沈め足を組んだ。

 例のウエイトレスが春乃達のテーブルの横に立った。彼女はコウスケに気づいて目を丸くする。コウスケはドギマギして椅子に戻ると、愛想笑いを彼女に送った。向こうも微笑みを返してきた。

「なにになさいますか?」

 彼女の声がした。

 コウスケの耳にその声は、幾分ぶっきらぼうに聞こえた。彼女の表情は、どこか腹立たしげにも見える。

 春乃は何も注文せず、その断りを言って立ち上がると、藤九郎と出口へ向かった。

 コウスケは春乃の後姿を見えなくなるまで目で追った。脱力して深く椅子にもたれかかり、うな垂れた。

「分かったか?」

 どこからか声がするが、コウスケの耳には入らなかった。

 コウスケは肩を揺すられた。いつ席を移ったのか、隣に婆さんが座っていた。婆さんはコウスケの背中をさすった。コウスケは背筋を伸ばし天を仰ぐ。

「バアさんよ。知ってたんだよな……」

「ああ」

「どうすりゃいいんだ! 分かんねえ……」

「泣きてえか? オラの胸貸すぞ」

「チェッ、誰が……」

 コウスケは婆さんをチラッと横目で見て笑う。また天井を見る。コウスケの視界にあの娘の姿が入った。彼女はカレー皿をコウスケの前に置いた。満面の笑みをコウスケに向けると、婆さんには目もくれず戻って行った。コウスケは隣の婆さんの顔を見て、首を傾げる。

「なんだ、オラそんなに美人か?」

「ちっとも……バアさんよ」

「なんだ?」

「あの娘、冷てえなあ……」

「なんだと!」

「だって、そうじゃねえか」

「どういうこった?」

「バアさんに注文聞いたか?」

「ハテ?」

「だろう? こないだもそうだ。バアさんには見向きもしねえし……」

 コウスケはまた首を捻った。「見えねえみてえ……」

「見えねえ?」

「ああ。バアさんよ、あんた足あるか?」

「なして?」

「化けもんかと……」

 コウスケは鼻先で笑う。

「しゃらくせー!」

「バアさん、食うか?」

 コウスケは婆さんの方へ皿を滑らせた。

「おめえは?」

「食う気分じゃねえし……」

 コウスケは深く溜息をつくと、一気に水を喉に流し込んでテーブルに頬杖をついた。

 ──春乃があんな女だったとは……

 ──この世に神も仏もいやしねえ!

 ──もうなにも信じられねえ!

 ──なにも信じるもんか!

 そう固く決意して、婆さんを見た。既に平らげようとしている。コウスケは婆さんの凄まじい食欲に恐れおののいた。自分も餌食にならぬよう気をつけねば、と視線を外すと、手が伸び水差しから水を注ぎ足してくれる。あの娘だ。

「ありがとう」

 一言だけ礼を言って、ふと彼女の顔を見た時、思わず呻きながら、のけ反って婆さんに背中がぶつかった。

「おめえ、どうした?」

 コウスケは振り向く。

「ウワアーッ!」

 もう一度、反対方向にのけ反ったら椅子から落ち、床に尻餅をついた。

 コウスケは交互に二人の顔を見比べながら頭が混乱する。

 婆さんが制服を着て立ち、娘がコウスケの隣に座っている。

 ──婆さんの顔が娘で、娘の顔が婆さんで……?

「あの、大丈夫ですか?」

 その声の主を目を凝らして見る。娘の顔に戻っていた。婆さんはツマヨウジを咥え、こちらを覗き込んできた。

「だ、大丈夫、へへへ……」

 娘が手を差しのべると、無意識にその手を握る。ハッとして手を引っ込めた。ビビビッと電流が脊髄を駆け巡った。娘を見上げて椅子に座り直した。と、娘は真っ赤な顔で、小走りに戻って行った。

「どうしたんだ?」

「ワッ!」

 婆さんを見たら今度は背筋にビリビリ悪寒が走る。

「なに、ビクついてんだ?」

「な、なんでもねえ」

「おかしなヤツだなあ」

 コウスケは噴き出る汗を手の甲で拭った。

 ──ショックが大きかったせいだ。

 ──春乃のあんな姿を目の当たりにしてしまったからだ。

 ──そうに違いない!

 ──それで幻覚が見えた!

 コウスケは無理矢理自分をそう納得させた。

 婆さんを見ると、どこか満足げに勝ち誇った顔でこちらをうかがっている。その表情が何とも不気味に映った。不安をあおる目の色だ。コウスケは落ち着かなくなった。早く目の前から消えてくれるよう切に祈った。この時ばかりは、神頼みだ。こんな妖怪を相手にしたら、誰一人として身は持つまい。

 ──亭主はどんなジイさんだろうか?

 ──この婆さんに殺されたのかもしれない……

 ──きっとそうだ!

 コウスケは爺さんの顔を見てみたい衝動に駆られ始めた。

 ふと、婆さん越しに窓を覗いた。コウスケは念入りに手櫛でリーゼントを整える。窓ガラスに映る己の姿をまじまじと見つめた。

 また婆さんに視線を移すと、こちらに顔を向けたまま動きを止めた。こんな妖怪の餌食になった爺さんの生涯を心底哀れんで、心の中でそっと合掌してやった。

 ──ナ~ム~……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る