◇10 和式便所にしゃがんだら──後ろの正面ダ~レ?

【4日目】1975年(昭和50年)11月17日月曜日


 ラジオからは流行歌が流れる。

 コウスケはこのところ上機嫌だ。あの重苦しい数日間を思えば、この一週間は、

 ──ここはハワイかや!

 と見紛みまごうほど、爽快だった。楽園そのものだった。無論ハワイになど行ったこともないし、どんなとこかも知らない。だが、澄み渡った高い秋空を見上げる度に、気分は高揚し、

 ──たぶんハワイもこんな風に違いない……

 と想像を膨らますのだ。

 楽園=アグネス・ラム=ハワイ

 という潜在意識にインプットされた単純極まりない三段論法的思考ゆえである。

 ハワイになど憧れすらなかったが、アグネス・ラムの、スラリと均整のとれた肢体に、あの豊満なバストを見せつけられれば、男なら誰だって一度は行ってみたいと思うはずだ。コウスケの鼻の下は伸びる。鼻歌も自然と漏れるというものだ。

 畳に寝そべってぼんやりと空を眺めていたら、突然もよおしてきたので、起き上がりベルトを緩めながら便所に走った。戸を開け、後ろ手に閉め、“ダウンタウンブギウギバンド”の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を鼻歌まじりに和式便所にしゃがみ込む。

「……♪」

 コウスケがしゃがんだとほぼ同時に、後ろから風が吹いてきた。風は尻を掠めて吹いた。生暖かい。鼻歌をやめ、耳を澄ますと、風音が聞こえる。何かの息遣いにも似た音だ。

 ──便器の下からだろうか?

 俯いて確かめてみる。

 下からは吹き込んではこない。後ろを向く。天井と戸の上部が見えるだけだ。戸はピタリと閉まっていた。今、何かが尻に触れたような気がした。首を元に戻しかけた時、一瞬視界に何かが映り込んだ。またゆっくりと後ろを振り向いた。

「大きな桃じゃねえか!」

「ウワーッ!」

 コウスケは両足を振り子代わりに勢いよく身を右半転して、便所の床に尻を思い切り打ちつけた。心臓が破裂寸前に激しく脈打つ。あまりのショックで声も出ない。

「ありゃ、どこだ? さっきまで、サンクチュアリにいたのに……」

 コウスケはしゃくり上げるように呼吸をする。まだ、声は出ない。二人は黙って見つめ合った。

 どのくらい沈黙が続いただろう。コウスケにはとてつもなく長い時間に思われた。やっとこさ荒い呼吸を強引に鎮めて、腹の底から声を振り絞ってみる。

「ななななな……」

 鼻から息が漏れてうまく声を吐き出せない。一旦喉につかえた固まりをゴクリと胃に落とす。「なんで……」

「ありゃ。おめえ、どうしたんだ?」

「ででで……ろ……」

「なに言ってんだか全然分かんねえ。さっきまでサンクチュアリにいたよな、おめえも一緒だったな」

「シッシッ……」

 言葉が通じぬのなら、と、手で追い払おうとしてみる。

「気がついたらよ、目の前に、こーんな大きな桃が……」

 婆さんは手を広げてサイズを表現する。「ハアーッ! ドンブラッコ、あってよ……」

「お、おい! で、出てけ!」

 やっとの思いで叫んだ。が、鼓膜を心臓の拍動が大きく振動させ自らの声を遮る。相手に伝わったかどうかも疑わしい。

「おめえ、なにしてんだ?」

「べべべ……べべべ……」

「アッカンベー……ってか?」

 婆さんは舌を出す。

「べべべ……べえ。べべべ……べえ」

「ベベベ……ベエ ♪ ベベベ……ベエ ♪」

 婆さんは口演奏する。「運命か? おめえ、ベートーベン好きか?」

「べん……」

 大きく深呼吸をする。「じょ!」

「ベン……ジョ? どういう意味だ?」

「こ……こ……ここ……べんじょ!」

「ベンジョ? ベンジョ、って……あの便所のことか?」

 婆さんはじっくり便所を見回す。「あれ、ホントだ。おめえ、便所でなにしてんだ?」

「バ、バカヤロー! き、決まってる……べ、便所だ……ここ……」

 婆さんはこっちをまじまじと見ていたが、いきなり両手を合わせる。

「あれまあ、ありがたや、ありがたやー!」

「な、なに、拝んでんだ?」

「だってよ、ほれ、ご対面だー……」

 婆さんはそのものの方へ顎を突き出して示した。

 コウスケは俯くと、慌てて下ろした着衣を上げ、ズボンのチャックを閉めようとしてはさんだ。

「イッテーッし!」

「コラッ! 大事に扱わんか。使いもんにならねえようになるぞ。どうすんだ?」

「ど、どうやって入った? こんなとこまで……」

 コウスケは必死に痛みを堪え、顔をしかめる。

「知らん」

 婆さんは何度も首を捻る。「気がついたら、いたのよ。桃かと思ったら、おめえのケツだったとは……」

「バカな! このエロババア!」

「早よう仕舞わんか、風邪ひくぞ。ハテ? やっぱ冷やした方がええのか、そこんとこは?」

「指、差すな!」

 コウスケは悪戦苦闘して、ようやくナニをおさめ、チャックを閉めた。「このクソババア!」

「クソはおめえだろうよ。もう終わったのか?」

「ひ、引っ込んだ!」

「おかしな尻じゃのう……」

「な、なにしにきた?」

「知らん」

「とぼけんな、このデバガメ!」

「オラ、出っ歯と違うよ、イーッ」

 婆さんは歯を剥き出しにして見せる。「入れ歯じゃけどな」

「出てけー!」

「ああ、そうじゃった。こんな所にはおられんわ、くそうてかなわん」

 婆さんは鼻を摘まみながらドアを開け、ようやく出て行った。

 コウスケはそれを確かめると、ベルトを締めながら自分も便所の外へ出た。

「バアさんよ、どうやって入った!」

 コウスケは婆さんの背後から怒鳴った。

「ハテ? オラにもトンと分からんのよ」

 婆さんは振り返る。「なんでかなあ……いっつも、おめえのケツばっかし追っかけてんだな?」

「ちゃんと、鍵……かけてた……よな……あれ、どうだったっけ?」

「それより、まあ座れ」

 婆さんはさっさとちゃぶ台の前に腰を下ろすと、顎をしゃくって命令した。

「なんだ?」

「どうなったか、喋ってみろ」

「なにを?」

「あの娘、誘ったか?」

「それどこじゃねえ」

「誘わんかったんか? バカッタレ!」

「どこに消えやがった? バアさん手品師だろ」

「消えた……オラがか?」

「どんな手品だ、引田天功の弟子か?」

「どうして?」

「オレの目の前で、しゃがんだと思ったら、そのまま……どこにもいやしねえ」

「ハテ?」

 婆さんはポカンと口を半開きに、ちゃぶ台に左手で頬杖をついて、右の四本指でピアノの演奏のようにちゃぶ台を叩いて、テンポよくリズムを刻む。目玉は右斜め上方を見ている。

「とぼけやがって」

 コウスケは舌打ちをして、鏡像のように婆さんと同じ姿勢で目玉を左斜め上方に向け、空を見た。「ま、こっちはほっとしたけど。なんで戻ってきた?」

「ハテ?」

「家に帰ったのか?」

「いんや」

「だったら、どこほっつき歩いてた? 一週間も……」

「一週間?」

 婆さんは背筋を伸ばし、まるで狐にでもつままれたような顔をこっちに向けた。

「サンクチュアリで消えちまって、今日で丁度一週間だ」

「7日も経ってんのか?」

「まさか、覚えてねえの?」

 コウスケも背筋を伸ばし、婆さんの面を拝みながら「クッククック」と鼻先で嘲笑してやった。頭の中に『青い鳥』(歌:桜田淳子)のメロディが流れた。

「一瞬だったしよ、7日も経ったなんて……」

「やっぱ、ボケてんのか……」

 納得して大きく頷き腕組みすると、真顔で心配してやる。「病院連れてってやろうか?」

「よいしょっと」

 婆さんはゆっくり立ち上がって、腰を伸ばすと、つかつかとこちらに向かってくる。コウスケを見下ろして笑う。コウスケも仕方なく上目遣いで唇を緩める。いっとき二人は見つめ合った。

「イッテーし!」

 いきなり拳固は振り下ろされた。

「年寄り扱いしやがって。ボケてるだと!」

「年寄りには違いねえだろうよ。心配してやっただけだろうが!」

 婆さんはしゃがむとコウスケと面と向かい、右手をコウスケの右肩に乗せ、手の甲で頬を軽くはたいた。コウスケは一瞬ピクリと肩を震わせる。煮詰めた渋皮付き栗顔が、コウスケの顔の下から上目遣いでこっちを威嚇する。

 ──なんとおどろおどろしいことよ!

「ええ度胸だな、年寄りのオラと力くらべしてみっか?」

 穏やかな口調で笑っているが、眼光は鋭い。まさしく獲物を射程圏内に捕らえた輝きだ。コウスケは唾を飲み込んだ。

「い、いやあ……ハハハ……」

 笑って誤魔化すしか策は思いつかなかった。

「おめえは可愛いボンじゃのお、よしよし……」

 渋皮栗ババアはコウスケの頭を優しく撫でる。コウスケの背骨が次第に真っすぐに伸びて、頭蓋に突き刺さった。首は固定され、回らない。

「お、恐れ入ります……」

 やっと渋皮栗ババアはコウスケの傍を離れ、定位置に腰を据えた。コウスケはフウッと一つ溜息をつく。

「で、オラが消えたあと、どうなった?」

「どうにも」

 コウスケはゆっくりと首を横に振ると、一度大きくクルリと回し、強張った首筋をほぐす。

「あの娘、おめえが店出る時、駆け寄ってきたよな?」

「ああ……あれっ、バアさん、どこで見てた?」

「どうでもええ。おめえ、あの娘になんて言った?」

「なにも……」

「あの娘が駆け寄って『ありがとう』と言う。おめえは、ドアに手をかけ、振り向き様に笑う……それだけか?」

「やっぱ見てたな。どこに隠れてやがった?」

「んー、おんなじだ。オラ、しくじった!」

 婆さんはシェイクスピア劇でも演じているのか、大袈裟に頭を抱えると、天を仰ぎながら両手を高々と掲げてお手上げのポーズで締め括った。

「なに、一人芝居してやがんだ?」

「なんでもねえ」

「これで終わりにしようぜ。もうオレにつきまとうな」

「そうはいくか!」

「所詮、実らぬ恋よ……」

「なに、実らねえだと! おめえの努力不足だ、アンポンタン!」

「オレ、なんとも思ってねえもん」

「おめえが気づかねえだけだ!」

「どうしてだ? 本気でオレがあの娘を好きだと思ってんのか?」

「あたりめえだ。早くテメエの気持ちに気づきやがれ!」

「気づいてるさ。オレは春乃さんが好きなんだ。人の恋路、邪魔するんじゃねえよ」

「目を覚ませ! おめえが惚れてんのは、お春のボインだけだ。アグネス・ラムにいかれちまいやがって。オラだって相当なもんだ! 見るか?」

 婆さんは呆れ顔でこっちを見据えると、ブラウスのボタンに手をかけた。

「それ以上動くな!」

 コウスケは咄嗟に叫んで制した。

「せっかく、オラのお宝、拝ましてやろう、ってえのに……」

 婆さんは舌打ちして諦めたようだ。

「春乃さんとなら一緒になってもいいなあ」

 捨て身で婆さんに挑んだあと、深呼吸して恐る恐る敵の次の一手を待った。春乃とラムのボインがダブった。

 婆さんはまた立ち上がった。

 コウスケは、

 ──そらきた!!!

 と反射的に両手をスクランブル発進させ、頭を防衛する。

「よし、おめえの目ん玉覚ましてやる!」

 婆さんはコウスケの横をすり抜け玄関へ向かった。「ついてこい!」

「どこへ?」

「ええから、こい! 言うこと聞かねえヤツは……」

 コウスケの足は、己の意志とは関係なく、立ち上がった。立ち上がった瞬間、しばし考え込む。

「ちょっと待て!」

「なんだ?」

 婆さんは振り返って、腰に手を当てまた舌打ちをする。

「もうガマンならねえ!」

 コウスケは心底堪え切れず、怒鳴った。

「上等だ! 相手になってやる。かかってこい!」

 玄関先に陣取った婆さんは声を荒げ、身構えた。

 コウスケは突進した。危機は目前に差し迫っている。最早猶予は許されぬ。婆さんの前を……通りすぎ、便所に駆け込んだ。便所のドアに引っかけ鍵を落とし、しっかり確認すると、慌ててベルトを緩め、しゃがみ込んだ。

「さっきの続きか?」

 ドアの外からケダモノが吠える。

「あっち行け! 邪魔するんじゃねえ!」

「ああ、たんと出してこいや」

 コウスケは膝を抱えながら楽園の日々を懐かしんだ。もう遠い過去になってしまった。

 ──また、あの幸福な日々が帰ってくるんだろうか……?

 両の手で頭を抱え、掻き毟る。同じ手は無意識に這いまわり、乱れたリーゼントを整えてくれた。

「なんて運がないんだ!」

 思わず嘆くと、ウンウン唸りながら己の運命を呪った。

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