◆9 60センチメートル──目の前に大きな桃が!

【3日目】1975年(昭和50年)11月10日月曜日


「今朝はいやに早えでねえか?」

「眠れなかった」

 コウスケは朱鷺が作ってやった朝食を口に放り込みながら欠伸をする。

「ええ若えもんが寝ぼけた面してみっともねえ。シャキッとしねえかシャキッと!」

「夕べから神経尖がりっぱなしよ」

 コウスケの声は尻すぼみに小さくなる。「誰のせいだと……」

「なんか言うたか?」

「い、いや、別に」

「仕事はなん時に終わる?」

「仕事はねえ」

「失業したのか、アンポンタン!」

 コウスケの頭を軽く小突いた。

「なにすんだよ? 人が飯食ってんだぞ、いい加減にしろ! イッテーし……」

「クビになったのか! 社長に詫び入れてこい!」

「そう怒鳴るな!」

 コウスケは声を荒げたが、すぐにしおらしくなる。「今日は休みだ」

「おめえ、サボる気か?」

「昨日出ただろうが、日曜だぞ。だから今日は休日」

「最初からそう言えばええのに」

「バアさんよ、オレは今日一日ここでゆっくりするからな。そろそろ帰んなよ」

「ほう、か弱い老人を追い出そうって寸法か? ええ度胸しとるでねえか……」

 朱鷺は指の関節を鳴らした。

「お、おい! まだ居座る気か?」

「人聞きの悪いことぬかすな。ここは浅間山荘か?」

「鉄球の下敷きになりやがれ」

 コウスケは小声で何やら囁いた。

「鉄球がどうした? はっきり聞こえるように言え!」

「なんでもねえよ」

「それより、今日一日、オラとつき合うんだ」

「どうして? 嫌なこった……」

「ええから言うこと聞け、さもねえと……こうだ!」

 朱鷺は拳固をコウスケの目の前に突きつける。

「どっか行くのか?」

 コウスケは頭を押さえながら訊いてきた。

「昼飯食いにな」

「どこで?」

「あの娘のとこだ。決まってんだろうが」

「バアさんよ。どうしてもオレとあの娘をくっつけるつもりか?」

「おめえのためよ。オラがちゃんとお膳立てしてやっから、心配はいらん」

「よーく聞け。オレはあの娘のこと、なんとも思ってねえんだ。だから無理だ!」

「まあだ、心にもねえことを……まあええ、今に分かる」

 コウスケは味噌汁の碗を口に持ってゆくと碗越しにこちらを覗く。朱鷺は鋭い目つきでヤツの目を射抜く。味噌汁を飲み干しても碗を置く気配はない。朱鷺は一旦視線を逸らしてメザシを摘まむと、頭から噛み千切って、唇の片端を上げた。するとヤツの手から碗が滑り落ち、ちゃぶ台の縁に弾かれ畳に転がった。朱鷺は碗の行方を目で追って、膝元を通過寸前に捕まえた。空っぽの碗をすする振りをして、人差し指を突き立て、もう一杯どうかと合図を送った。

「い、いや……けっこう」

 コウスケは慌てて首を横に振り、俯いて視線を外す。

 朱鷺は思わず大きなクシャミをした。その瞬間、コウスケの肩と首がピクリと跳ね上がり、目ん玉を引ん剥いた。その様子をつぶさに観察していた朱鷺は、隙を衝いて今度は吠えてみた。すると、ヤツは丸めた背中をピンと伸ばした拍子にそのまま後ろに倒れ込み、正座した脚を投げ出すと、ちゃぶ台の裏を思い切り蹴り上げた。幸い、ちゃぶ台はビクともしなかった。朱鷺が両肘をつき、全体重を預けていたお陰だ。多少食器のぶつかり合う音はしたが、飛散は免れた。が、コウスケにとっては悲劇だったようだ。固定された硬い天板に、嫌というほど右足の親指を打ちつけ、関節が見事な高音域の音色を奏でたのだから。口と目を大きく見開き、ハ行の発音練習をしながら顔をしかめている。まなこからポロリと零れた滴が、一筋の道を頬に刻んだ。

「遠慮せんでええんだぞ。もう、ええのか?」

 朱鷺は優しい口調で微笑みかける。

「はぁひぃひゃぁー!」

 コウスケは右足を両手で抱え前後に体を揺らす。

「なーに言ってんのか、ぜーんぜん分かんねえ? もいっぺんはっきり言ってみんしゃい」

「ひぃ、ひぇー」

「なんだ……?」

 朱鷺は放たれた言葉をよく咀嚼して翻訳を試みる。「……そうか! 『痛え』ってか?」

 コウスケは首を小刻みに上下して頷いた。

「もう、ごちそうさんか?」

 今一度優しい口調で微笑んでやる。

「は、はひぃ……」

「……『はい』ってか?」

 コウスケは頷く。

 患部をさすりながら、また背を丸める姿が朱鷺の目に何とも哀れに映ったので、

 ──こりゃいかん。

 とばかりにもう一度だけ気合を入れてやることにした。

 朱鷺はちゃぶ台の上を片づけ、食器類を流しの中に浸けて戻り、一旦腰を落ち着けた。茶をすすりながら相手の様子をうかがう。湯呑と急須を盆に載せ、膝元の畳に置く。一度深呼吸をして膝をポンッと叩くと、座ったままの体勢でいきなり跳躍した。そのままちゃぶ台の上に正座すると同時に、

「ワンッ!」

 腹の底から吠えた。

 コウスケは悲鳴を上げ、後ろ向きに一回転を決め、行儀よく正座して背筋をピンと伸ばした。互いに膝を突き合わせる。朱鷺は三つ指をついて、我が亭主に頭を下げる。向こうも、慌てた様子で同じように深々と頭を畳に擦りつけて正式な朝の挨拶を交わした。


   *


 朱鷺は店内を見渡した。

 懐かしさが込み上げて、胸が締めつけられる。店に入ると、奥の窓際のテーブルを目指した。

 コウスケと向かい合せに座り、もう一度、辺りをキョロキョロと自分を捜してみる。この席からだと店の隅々まで見渡せる。だが、自分の姿はどこにも見えない。

「ええか、しくじるんじゃねえぞ!」

 コウスケに念を押しながら、今日のことを思い出していた。

 70年前、つまり昭和50年11月10日月曜日の午後。あの日、コウスケは自分に一言も声をかけてはくれなかった。朱鷺はわざと何度もコウスケの傍を通って、アピールした。にもかかわらず、なぜかコウスケは誰もいない向かいの席を見つめたままだった。食事を終えたコウスケが席を立ち、玄関へ向かうのを見て、こっちから小走りに近づき、その背中に向かって、

「ありがとうございました」

 と慌てて声をかけた。

 店を出ようとドアに手をかけたコウスケは、振り向き様に笑顔を見せてくれたのだ。それで、コウスケも自分に気があるんだ、と疑いもしなかった。

 ──なのに、どういうことだ?

 目の前のコイツは自分になんぞ興味もないとぬかしやがる。

 ──どうして、自分への恋心を忘れてしまったのか?

 ──なにかがおかしい?

 ──どこか狂っている!

 だから、元へ戻さねばならない、とコウスケを説得するつもりでいる。朱鷺は必死だった。

「そうか、お春のせいだ。あいつが……」

 朱鷺は呟いて、歯を食いしばった。入れ歯がガタガタ鳴った。「オラの運命を狂わせやがった!」

「なに、独りごと言ってんだ?」

 その時、テーブルの横に誰かが立った。

 朱鷺は見上げ、そのまま放心状態で見入った。

「なにになさいますか?」

 素晴らしい美声だ。朱鷺は自分の声につくづく感心した。

「カレー」

「かしこまりました」

 朱鷺は戻って行く自分の後姿を食い入るように見つめた。

「おい、バアさん、どうした?」

「な、なんだ?」

 ゆっくりコウスケに視線を戻す。お互いの視線が衝突した。

「なににするんだ?」

「オラはええ」

 朱鷺は気もそぞろで、また自分を捜す。

「あ、そう」

「おめえ、なんだ、あの態度は!」

 朱鷺は突然コウスケを睨みつける。今のコウスケの自分(若い方の)に対するぶっきらぼうな態度が許せない。

「関係ねえよ」

 コウスケはそっぽを向く。

 その態度にも朱鷺は向かっ腹を立て、でこちんを強めにデコピンしてやった。

「イッテーし!」

「愛のむちだ」

「暴力はいけねえ!」

「ええか、あの娘はな……」

 ふと、カウンターを見た時、また自分の姿に見とれた。「あれが、オラか? オラ美人じゃねえか……」

「なにわけ分からんこと言ってんだ?」

「なんでもねえ」

 視線を移し、コウスケを見据える。「よっく聞け、オラはな、おめえを……」

 朱鷺はそこまで言うと一呼吸置いて、また自分に視線を向けた。そして口を開こうとしたら、コウスケに遮られた。

「早く言え! バアさんが、オレを、なんだ?」

「愛しとる!」

 自分に見とれたまま、朱鷺はコウスケに対する気持ちを打ち明ける。

「き、気持ち悪いこと言うな! 歳を考えろ……全く」

「愛に歳は関係ねえ!」

「妙なこと言いやがって……」

「うるせえ、男のくせに細けえことぬかすな!」

 朱鷺は腰を少しばかり浮かせ、コウスケの頭上から怒鳴った。

「大きな声出すな。頼むから」

 コウスケはこちらに顔を寄せ、囁く。

「愛しとるのよ。あの娘は、おめえを」

 朱鷺は背もたれに深く身を沈めると、腕を組んで凄んでみせる。

「フンッ、小娘じゃねえか……」

 朱鷺は笑いながら静かに立ち上がった。コウスケの隣に席を移し、座る振りをしていきなり飛び上がり拳を振り下ろした。

 コウスケは両手で頭を抱え、もがきながら涙目でこっちを見上げる。

 朱鷺は平然とゆっくり元の席に腰を下ろす。

「イ、イッテーし! もう許せねえ!」

 コウスケはテーブルに身を乗り出してきた。その後方からこちらに向かう自分の姿を認めると、すかさず胸ぐらをつかんで朱鷺は早口で捲し立てる。

「よーっく聞け、コノヤロー! あの娘もおめえを好いとる。おめえもあの娘を好いとる。相思相愛だ。分かるな?」

「分かるか! そんなわけ、ねえ! チクショウ、たんこぶが……」

 コウスケは拳が直撃した箇所を念入りにさすっている。「オレはな、バアさんよ……」

「なんだ?」

「春乃さんが……」

 朱鷺はアルミの灰皿を握って立ち上がる。と、敵が咄嗟に両手で頭を隠し防御態勢をとったので、ゆっくりと帰還した。それを見て安心したのか、敵は防御を解除し、フウーッと息をつく。今だ、と朱鷺はすかさず灰皿で軽く頭を小突いてやった。大阪名物のお見舞いだ。

「アイターッ!」

 虚を衝かれた敵は、最早戦闘意欲をなくしたらしく、無表情で患部をさするばかりだ。

「春乃だと……そんなヤツはこの世にいねえ! 二度と汚らわしい名前呼ぶんでねえ! あの性悪女め、たらし込みやがって……」

「無茶苦茶だ! 性悪? 自分のことか……」

「また、欲しいのか? もう一発どうだ?」

「い、いや、もうたくさん」

「あの女はとんでもねえ悪女だ。騙されてんだ、おめえは。お春は忘れろ、ええな?」

「そんな女には見えねえよ」

 ふてぶてしい態度だ。

「おめえ女に免疫ねえもんな。まだ知らねえし……」

 男のプライドをくすぐってみる。

「なにを?」

「女をだ!」

「い、いや、なんてことを……」

「恥ずかしがらねえでもええ、誰にでも初めてはあるもんよ」

「し、知ってるもん……」

「見栄はるな。見栄も身を滅ぼすことがある」

 朱鷺はコウスケに詰め寄った。「おめえよ……」

「なんだよ?」

「あの娘をものにしろ!」

「ナ、ナニーッ!」

「ホテルにでも誘ってやれ」

「はあーっ?」

「オラ、あの娘の気持ちならよく知ってんだ。おめえが死ぬほど好きなんだ。一途なのよ、オラは……」

「オレは、春乃さんが……」

「その先は言うな。口が裂けても言うな!」

 朱鷺はまた灰皿を手にして、渾身の力を振り絞り、腹の底からドスの利いた声を吐いた。

「は、はい……」

 相手にもこちらの気迫は伝わっているようだ。コウスケはしおらしくなり、いい返事をした。

 朱鷺は唇を緩め薄ら笑うと、大きく頷いて手にした灰皿を置き、テーブルに肘をついた。その時、誤って灰皿を床に落としてしまった。それを拾い上げようとして俯くと、前方から誰かの足がこちらに向かってくるのがチラリと見えた。俯いたまま、そちらを見上げる。自分が目の前に迫ってくる。向こうの自分はこっちの自分にまだ気づかぬようだ。朱鷺は急いで灰皿をつかみ、寸での所でぶつかるのは避けられた。

 自分と自分との距離が、朱鷺の目測で約60センチメートル。その時、吸い寄せられるような感覚に襲われ、体が浮いたと思ったら、辺りが霧に包まれたように真っ白になり、次の瞬間、目の前に大きな桃が現れた。



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