◇8 鬼婆の妖術──不浄な魔手迫る!

【2日目】1975年(昭和50年)11月9日日曜日


「バカッタレー!」

 いきなり殴られた。

 一日の仕事を終え、疲れて帰宅し、玄関のドアを開けたら、婆さんが目の前で飛び上がった。と思ったら、脳天に激痛が走り、目に火花が散った。その場にしゃがんで、頭を抱えのた打ち回る。

 婆さんの様子をうかがうと、玄関先で仁王立ちでそびえ立つ。

「な、なにしやがる、ババア!」

 怒鳴ったつもりが、自分の声で頭がズキズキしたので、声は婆さんの耳に届く間に失速した。迫力もあったもんじゃない。

「はいれ!」

 どすの利いた凄みのある声だ。

 コウスケは抵抗しようとして立ち上がり、詰め寄ってみたものの、微動だにしない婆さんの迫力には到底敵わなかった。

 ──人間じゃないのかもしれない……

 鬼婆はコウスケに視線を突き刺しながら、片側の口角を上げる。

 コウスケは咄嗟に目を瞑り、両手を顔の前にかざして防御する。自ずと背筋は凍りつき、体が硬直した。思わず唾を飲み込んだ。恐る恐る目を開け、視線を魔物に向けたら、奴は手招きしてきた。その妖術に操られるように、意志とは裏腹に部屋の中へと引き寄せられる。ちゃぶ台の前に座れ、と顎で命令されるまま、コウスケは正座した。

 鬼婆もちゃぶ台を挟んでコウスケの正面に胡坐をかいた。と、人差し指の腹が何かを押さえ、ゆっくりとちゃぶ台の上を滑ってコウスケの目前で止まった。人差し指が不機嫌にその上をトントンと叩いて、不浄な鬼の手は引っ込められた。

「なんだ……この写真がどうかしたか?」

「自分のしたこと、分かってるよな!」

「なにした?」

「とぼけるんでねえ!」

「なに、いきり立ってる?」

「こうして、証拠残しやがって!」

 いきなり目前まで不浄な手が伸び、コウスケはビクッとして畳に後ろ手をついた。鬼婆は、また写真の上を何度も激しく指で叩く。

「証拠? わけの分からねえこと言うな!」

「口ごたえしやがって!」

 鬼婆は拳を振り上げ、ちゃぶ台の上に身を乗り出す。コウスケは咄嗟に膝を崩し、尻で後ずさった。

「ああ、ビックリした! コノヤロー! オレがなにした?」

 心拍数が上がり、手足が微かに震え出す。

 鬼婆は急に穏やかな表情で手招きする。と、コウスケは身震いして再び正座した。背筋が自ずとピンと伸びる。鬼婆が笑っている。只、こっちを見据えた目は血走って。

「おめえ、浮気したな」

 目を細めながら淡々とした口調で言い放つ。

「な、なんだ?」

「悪いヤツだ」

 語気は穏やかだが、却って気味が悪い。口元にだけ微かに笑みを浮かべ、細めた目はこっちに向いてはいるものの、虚空を見るかのようにうつろで、まるで仏像のようだ。

 ──なんと言ったか……?

 ──そうだ、アルカイクスマイルとかなんとか!

 だが、目の前の生き物に、仏の慈悲はない。

「なんだ、浮気って?」

「しらばっくれるんで……ねえ!」

 一呼吸置いた語尾に力が込められる。

「わけ分かんねえ。バアさんよ、大丈夫か、ここ?」

 コウスケは自分の頭を突っついた。「勘違いもいいとこだな」

「じゃあ、この写真はなんだ? こんな女と……ああ、汚らわしい!」

「なにが悪いんだ?」 

 写真を覗き込んで鬼婆に顔を向ける。「好きな女と一緒に写って……」

「す、好きな……オンナ……だと!」

 鬼婆は飛び跳ねるようにその場に立ち上がった。

「よ、よせ! 話せば分かる。な、落ち着け、座れって……」

 額に薄らと汗が滲んだ。

 鬼婆は舌打ちしながら腰を下ろすと、腕を組んでこっちを睨む。

「オラ、今の今まで、なんも知らんかった。おめえが、こんな性悪女と浮気しとったとは。はあーっ、情けねえ!」

「浮気だと……どうして浮気なんだ?」

「まーだ、言うか! オラというものがありながら……泣きてえぜ……」

「泣きてえのは、こっちだ! なんでオレがバアさんにみさお立てるんだ。オレはあんたの亭主か?」

「あたりめえだ」

 ──なんだこのババア。

 ──あたりめえ……って、どういう意味?

 ──オレが……亭主ってことか?

 ──やっぱ、頭は夢の中か!

「そうか、オレを亭主だと思ってんだな。かわいそうに、やっぱ、ボケてんだな」

 コウスケはそっぽを向き、決して声が漏れないように細心の注意を払いつつ口の中でもごもご呟いた。チラと鬼婆の様子をうかがうと、こちらを見据えたまま鋭い視線を外そうとはしない。

「誰が、ボケてるだと!」

「うそっ! 聞こえるはずねえのに……バアさん、すげえ地獄耳だな?」

 コウスケは感心する。

「やっぱり、そんなことぬかしたのか」

 鬼婆はニヤリとした。

「ん? きったねー、鎌かけやがったな!」

「年の功よ。ざまあみろ!」

 大口を開いて、怪しげな眼光でニヤつきながら拳に息を吹きかける仕種に、思わず両手で頭を押さえる。

「ぼ、暴力反対!」

 堪らずコウスケがシュプレヒコールを上げると、振り上げた拳はナヨナヨとおさめられ、鬼婆はうな垂れた。いっときして顔を上げる。

「なして、お春を知ってんだ? どうやって知り合った?」

 うな垂れたまま悲しげな目線だけがこちらに向けられた。

 ──ならば!

 と、コウスケはお春との馴れ初めを聞かせてやることにした。

「耳クソかっぽじって、よーっく聞きやがれ」

 ってな威勢のいいことは言えそうにないが、ここは男らしい威厳を示しておくべきだ。これでもか、といった具合に背筋をピンと伸ばし胸を張り、鬼婆を見下ろす。


   *

 

 コウスケが国道をナナハンで走行中、女がバイクを押して歩いているのを目撃する。

 一旦通りすぎたが、気になってUターンすると引き返し、女に声をかけた。わけを聞くと、

「ガス欠なの」

 と言ったあと、メットの中からくぐもった笑い声が漏れてコウスケの耳をくすぐった。

 メジロ石油の場所を教え、コウスケはナナハンを降り、この場所からは大分距離があるから、とバイクを交換してそこで待つよう指示した。

 女は遠慮して首を横に振ったが、コウスケはお構いなくバイクを取り上げた。

「腹を空かしたレディを、このまま見すごしては男が廃らあ」

 コウスケの強引さに負け、女は礼を言って指示に従った。

 コウスケが到着するや早速満腹にしてやる。バイクを引き渡すと、女は感謝して、必ず礼をする、と言って走り去った。

 後日、コウスケが労働に勤しんでいたら、背後から声をかけられ、振り返る。

「こんにちは……こないだは、ありがとう」

 目前の見知らぬ女に見とれた。

 女神、いや、観音様か、と見紛うばかりの、この世のものとは到底思われぬほどの絶世の美女が立っているではないか。その笑顔、眼差しに身動きもできなくなった。妖術で石にでも変えられてしまったかのようにコチコチに固まってしまった。体は動きを止めたが、心臓だけは破裂しそうなぐらい打つ。

 呆けた面を女に向けていたら、女は楽しそうに笑いながら、路肩に停めてあるバイクを指差した。コウスケは唾を呑んで目ん玉だけをそちらに転がし、すぐさま女の顔に焦点を合わせる。何が何やら、己が鈍感な頭では理解の範囲を遥かに超えていた。

「まだ思い出せない? 腹を空かしたレディよ……」

 今、女が放った言葉を頭の中でしばらく復唱してみる。ようやく脳細胞の神経回路がつながった。

「ああ! あの、あの……あのときの……」

 女は「フフフ」と笑いながら、いきなりコウスケの右腕に自らの両腕を絡ませてきた。コウスケはその行為にドギマギしながら、一層直立不動で背骨を頭蓋に突き立てた。

「小鴨春乃……って言うの。あなたは?」

「カッ、カッ、カッ 、カゴ……カゴノ」

 コウスケは固唾を呑む。「……コウスケ」

「コウスケさんね、今度デートしましょう?」

 コウスケは頷いた。それは無意識のうちに首が勝手に縦に折れただけだった。只の反射にすぎなかったのだ。

 春乃はコウスケとの絆を解くと、手を振ってバイクで去って行った。

 コウスケはしばらく放心状態で立ち尽くした。無論デートの誘いを受けたことも覚えてはいなかった。何一つ理解不能であったのだ。

 てな具合で二人はちょくちょく会うようになる。決まって誘うのはお春からだった。コウスケはお春が自分にゾッコンだなんてこれっぽっちも思っていなかった。そんなことなど夢のまた夢にすぎぬから……。


   *


「おめえ、この女が好きなのか?」

 弱々しい口調だ。

「ああ、一目惚れだ!」

 鬼の首を取ったように言い放ってやった。鬼婆はがっくりとこうべを垂れる。

 ──首と胴体が千切れたか?

「ざまあみやがれ」

 と心で呟く。

「つき合ってんのか?」

 元気を削がれた声だ。

「まだ……正式には……」

 胸を張って、

「あたぼうよ!」

 と叫びたかったが、こちらも声のトーンは尻すぼみに落ちてゆく。

「そうか、間に合った!」

 急に首と胴体が再びつながって頭のテッペンと肛門が一直線上に結ばれたのか、鬼婆は元気づき、指を鳴らした。が、鳴らなかった。こっちに顔を向ける。満面の笑みである。

「なに言ってんの?」

「おめえ、あのに声かけたか?」

「あの娘……誰?」

「オラだ!」

「バ、バアさんに?」

「いんや、レストランの娘だ」

「誰のことだ?」

「今日は、11月9日だから……」

 鬼婆は一度天井に視線を向け、すぐにこちらに戻す。「昨日会ってるはずだ。可愛い娘いただろうが……」

 コウスケは首を捻りながら考えてみた。が、トンと見当もつかない。

「そんな娘、いたか?」

「よーく思い出せ。あの店で、いんや、この町で一番の器量良しだ。絶世の美女がいるでねえか、な?」

「分からねえ。そんな娘……あの店にはいねえ」

 不覚だった。コウスケの頭に拳固が当たった。「イッテーし! なにしやがる! 人の頭、なんだと思ってんだ……」

「おめえの頭? 使わねえと只のウニだ。脳ミソ食ってやる」

「なんでこんな目に……日曜出勤だぞ。なんのバチが当たったんだ?」

 コウスケは頭をさすりながら己の運命を呪った。

「それがどうした? 仕事があってよかったでねえか」

「人が休んでる時に働いてんだぞ」

「はーん? バチ当たりなことぬかすな。働き口があるだけで有り難えと思え! つべこべぬかすとこうだ!」

 鬼婆は拳固を握り締めた。

「わ、分かった。それ止めようや」

「情けねえ声出すな。それより、おめえ、昨日の昼、どうしてた?」

「昨日の昼……? バアさんと会っただろうが、忘れたか? ビックリさせやがって」

「そのあとだ」

「そのあとは……バアさんを交番に連れてって、昼飯食って、それから……」

「どこで食った?」

「なにを?」

「昼飯に決まってんだろうが、バカヤロー」

「サンクチュアリ」

「それで?」

「カレー食って……」

「それで?」

「仕事に戻った」

「バカッタレ!」

 また拳固をチラつかせる。

「ごめんなさい!」

 コウスケはつい謝った。よく考えると、謝る必要はないような気もするが。

「誰に注文した?」

「ウエイトレス」

「そうだな、それで?」

「カレー食った」

「そんなこた、聞いてねえ!」

「昼、なにしてたって聞かれたから、昼食ったって、答えてるだろうが……」

「その娘になんか言ったか?」

「その娘って、ウエイトレス?」

 鬼婆は必死の形相で頷く。

「なんて言った?」

「さあ……なんだっけか?」

 コウスケは天井を仰ぎながら思い出そうとした。

「思い出せ!」

「えっとー……あっ、そうだ」

「あの娘に言ったように、オラに喋ってみろ」

「えっと、『君、可愛いね。いくつ? 頑張ってね』それだけ」

「よーし、それでええ!」

「それが、なんだ?」

 鬼婆はちゃぶ台に身を乗り出して両肘をつき、手を組んでお祈りの姿勢だ。コウスケの眼前に鬼婆の顔がデカデカと迫る。

「おめえ、明日な……口説け!」

「誰を?」

「オラだ!」

 鬼婆の声の波動に押され、思わず後方へのけ反った。片尻を浮かせたまま一瞬固まる。

「バ、バアさん口説いてどうすんだ!」

「ややっこしいなあ……ええいっ、あの娘をだ!」

「なんで?」

「おめえが、あの娘を好きだからだ」

「はあーん、オレが? 冗談じゃねえ!」

「なんで自分の気持ち分からねえんだ? おかしなヤツだな、おめえは」

「オレが好きなのは、この人だ」

 コウスケは写真を指差す。「春乃さんだ」

「な、なんだと……汚らわしい! そんな名前、呼ぶんでねえ!」

 コウスケはいきなり胸ぐらをつかまれ、引き寄せられた。

「く、苦しい……は、離せ!」

 執拗に首を締めつけられ、息ができない。「す、好きでも、ねえ、女を……口説けるか!」

「まーだ、心にもねえことを言うか!」

 幾ら抵抗しても逃れられない。

 ──なんという怪力だ!

 自分にはこの不浄な手はとても解けそうにない。コウスケはグイッと持ち上げられ、ちゃぶ台に両手をつく。

「は、離せ!」

「おめえが結ばれるのは、オラだ!」

「い、いやだ……バアさんとは、結ばれねえ」

「ええいっ! めんどくせえ! あの娘だ。おめえはあの娘と結ばれる。分かったか!」

「わ、分かるか!」

「あの娘の気持ちを踏みにじりやがったら……殺してやる!」

「あの娘の……気持ち……」

「そうだ」

「ど、どんな気持ち……だ?」

「おめえを、好いとるのよ」

「ま、まさか……昨日、会った……ばっかだ」

「一目惚れよ。恋に時間はいらねえ。女心を見抜けねえとは、情けねえ、このトンマ!」

「そ、そんなこと……どうでも、いいだろう……は、離せ!」

「オラが女の見抜き方教えてやる!」

「け、けっこう……です」

 鬼婆に頚動脈をギュッと締め上げられ、意識が遠退いてゆく。

「オラの言うこと聞くか? 聞くよな。聞け、コノヤロー!」

 ヤツはまたあのアルカイクスマイルで妖術をかけてくる。うつろな妖しい眼光でコウスケを虜にする。

「は、はい」

 コウスケはどういうわけか逆らえず頷いた。

 ──不思議だ?

 と思いながら首を傾げる。

 次第に意識が薄れ、恍惚にも似た気分に襲われた。フワフワと浮遊しているような心地よさに変わってゆく。最早苦痛は感じなくなった。薄れゆく意識の中で、コウスケは眼前の大きな顔の仏像に祈った。

 ──早く、ここから、出て行ってくれ……

 ──ナームー!

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