◇4 背後の気配──デジャヴーか?

【1日目】1975年(昭和50年)11月8日土曜日


 コウスケは再び腰を下ろし、箸をつかもうとした。目を凝らしてちゃぶ台の上を見る。

 ──なんにもない!

 ──食い物が消え失せた!!

 思わず宙をまさぐった。

 ──ん?

 背後に気配を感じた。

 ──物の怪?

 ──ンなわけ、ねえよな……まさか……

 ──なにやら妙な音が……?

 耳障りな音だ。下品に麺をすするような……。

 ──幻聴か!?

 己の耳を疑った。だが、音は鳴り止まない。確かに聞こえる。自ずとブルッと身震いした。なぜか勝手に体は反応する。背筋に悪寒が走る。その原因が何かは知る由もない。前にも同じ経験をしたことがあるような気もする。

 ──単なるデジャヴー……かも?

 ──きっとそうだ!

 ──この世に妖怪や魔物なぞいるものか!

 コウスケは己を鼓舞しつつ、恐る恐るゆっくりと、ゆう~っくりと後ろを振り向いた。

「世話になるぜ!」

「ウワアーッ!」

 恐ろしい大音量の声にコウスケは引っくり返る。

 その拍子にちゃぶ台も引っくり返った。コウスケの頭はちゃぶ台の縁に直撃し、後ろに一回転する間に手がちゃぶ台の裏を捉え、浮き上がったのだ。高校のバレー部仕込みの回転レシーブである。

 体勢を整えたコウスケは、四つん這いで玄関の方へ逃げようとした。慌てて立ち上がろうとしたら、右手を右足の爪先で踏んづけてつんのめり、今度は頭から前転を見事に決めた。這うように玄関のドアを開け、そのまま一目散に裸足で玄関を飛び出すと、路地からアパートの二階を見上げ、自分の部屋をうかがった。心臓が激しく打つ。

 しばらくして窓が開き、婆さんが顔を出した。こちらに気づいて手を振ってくる。

「おめえ、なにしてんだ? まあ、あがれや」

 考えあぐねたが、こっちがオドオドする必要はないし、まして自分の部屋だ。勇気を奮い起こして階段を駆け上った。

 ドアの前で深呼吸をして気持ちを落ち着ける。右の拳を握り閉め、左の掌を打って気合を入れる。

 ──摘まみ出してやる!

 心の中で呟いてみる。が、自信はない。鼻息だけは荒い。

 ──なんとかしなければ!

 意を決し、ドアを開けた。

「バアさんよ、オレの部屋でなにしてる!」

 既に、ちゃぶ台は元の位置におさまっていた。コウスケが座っていた場所に婆さんは陣取って背を丸め、こっちを見ている。

 コウスケはにじり寄り、婆さんの正面に立った。

「よおっ!」

 婆さんはとぼけ顔で右手を高々と掲げ、挨拶してきた。

「オレの部屋だ! どっから入った?」

「玄関からに決まっとる。おめえが開けてくれたんでねえか。他人行儀はよそうぜ」

 コウスケは呆れるやら、半分感心しながら婆さんの前に胡坐をかき、睨みを利かす。

「どういうつもりだ?」

「おう、助けてくれろや」

「なんでオレが……?」

「おめえしかいねえんだ」

「交番に連れてってやったろうが、船村さんに助けてもらえばいいじゃねえか。オレになにができる? バアさんの家、探してくれるのは警察しかねえだろう?」

「そうじゃねえんだ。オラ、なしてこんな時代に飛ばされたか知らねえけど、頼れるのはおめえしかいねえ。おめえはオラの……なんだ、アレだ、アレなのよ。だからおめえには義務があんのさ。分かっか?」

「分かるか! 義務だと? なんで赤の他人のオレがバアさんの面倒みる……」

「赤の他人……」

 婆さんはすかざずコウスケの言葉を遮った。「……というわけでもねえんだけどよ」

「バアさん、親戚か?」

「ま、そんなもんだろうな。おめえとは血のつながりはねえけんどよ」

「どっちの……親父か、お袋か?」

「そ、そうだな……おめえの親父はしがねえ銀行員よ。戦争で右足を負傷したが命は助かって、定年まで勤め上げたよな。出世はせんかったが、真面目なええ人じゃった。皆から慕われてな。ええ人は早よう逝ってしまうんかのお、惜しい人じゃった。イボ痔に悩まされてたなあ、鴻吉こうきちさんは……」

 婆さんはコウスケの父の思い出を語った。しかも、家族しか知り得ないことまで。イボ痔は公言してない。「他言無用!」の一言で固く口止めされていたのに。コウスケはすっかり婆さんを信用して心を許した。そして、婆さんに対する態度を少しだけ変えた。優しい口調になった。

「どうして、この町に?」

「オラの思い出の場所だからな。懐かしいんだ」

「ふーん。なんでボケてる振りしたんだ?」

「そりゃ……そのお……恥ずかしくてよ。おめえに会うの久しぶりだもの」

「オレのこと知ってんの?」

「ああ、よーく知ってるとも、昔から」

「オレは覚えてねえよ、バアさんのこと……」

「だろうな……昔だもの」

「ふーん、行くとこねえの?」

「そ、そうなんだ。オラ、着の身着のまま飛んできたんだ……」

「仕方ねえなあ……」

 コウスケは腕を組んでうな垂れると、また婆さんの方を見る。「泊まってけ!」

「そうか、あんがとよ」

「でもな、今日だけだぞ、いいか?」

「ああ、もちろんよ、長居はしねえつもりだ」

「ま、いいか、一晩ぐらい……」

 コウスケは観念した。

「さて、今日は疲れたな」

 婆さんは立ち上がると押入を開けた。

「なにやってんだ?」

 コウスケの声が届かなかったのか、故意に無視したのかは定かではないが、婆さんは黙々と作業に取りかかり始めた。

 勝手に客用の布団を引っ張り出して敷くと、滑るように床へ潜り込んだ。触手が伸び、今まで婆さんの尻に敷かれていた座布団をつかんで二つ折りにした。

 ──なるほど、枕代わりか……

 座布団はそのまま餌食になり布団の中へと吸い込まれた。コウスケは婆さんの行動を観察し続けた。と、突然、目覚まし時計が鳴った。また、手が伸びて、ちゃぶ台の下を探っている。ついに目覚まし時計を捕らえ、スイッチを切った。婆さんはうつ伏せになって時計をいじり始めた。

「いけねえ、11時か。5時に合わせねえと……」

 婆さんは手を止め、こっちを向いた。「おめえ、あしたなん時だ?」

 不意に声をかけられ、コウスケの身体が反射的にビクッと痙攣した。なぜか婆さんの声に身体は感度抜群である。

「7時だけど……」

「ほんじゃ、オラが起こしてやっから、安心して寝な」

「はーい」

 コウスケは気のない返事を送る。

「おやすみ。ああ、ごくらくごくらく……」

 婆さんは呪文を唱えた。「おめえも早く寝なよ。夜更かしは体に毒だ」

 婆さんはすぐに寝息を立て始めた。

 コウスケも婆さんのすやすやと静かな寝息を聞いているうちに自然と欠伸が出た。腹の虫も鳴く。丼を探した。が、どこにもない。流しの鍋の蓋を開けてみる。丼は鍋の中にあった。丼の底に麺がくねくねと一本だけ張りついていた。仕方なく蓋を閉め、ちゃぶ台の前に座る。その上にはパン屑が点々と散らばっているだけだ。

「あれっ、カレーは?」

 コウスケの記憶だと、カレーはちゃぶ台の上のはずだった。たぶん引っくり返った拍子に、どこかに跳んだのだ。慌てて部屋中を探したが、狭い部屋のどこにも見つからなかった。首を傾げ、もう一度部屋を見回してみる。やはりどこにもない。ラーメンとカレーの幻が脳裏に浮かぶ。また腹の虫がけたたましく鳴き始めた。が、婆さんのいびきにかき消されてしまった。今まで静かだったのに、突然の変貌を遂げた婆さんの顔を恨めしく覗く。

 ──猫を被ってやがったな! 

 仕方なく押入からもう一組の布団を出して敷く。年代物の二股ソケットの電球を緩めて消灯すると、布団に潜り込んだ。

 いっときして、何か忘れたと感じた。

 ──気のせいだ。

 自分に言い聞かせ、眠ろうとする。

 どこからかブクブクと異様な音が木霊する。布団の上に身を起こし、耳をそばだてる。静かに立ち、音の方へ近づいてみる。どうやら風呂場から音は漏れているらしい。風呂場の板戸をそっと滑らせた。中には濃霧が立ち込めていた。やっと思い出した。風呂を沸かしていたのだ。湯気を手でかき分けながらガス釜の火を落とした。湯気を外に逃がそうと窓を開ける。ヒノキではない木の風呂桶に、手の甲が触れ、思わず手を引っ込める。

「アッチョウー!」

 石川五右衛門に同情した。

 今夜はラーメンもカレーも風呂も諦めて、また布団に潜った。自然と溜息が漏れる。

 ──むなしい。

 ──今夜は変だ?

 ──まだしっくりこねえ?

 やはり何か忘れたような気がしてならない。仕方なく上体を起こして俯いた。リーゼントを整えながら考えてみる。

 ──そうだ!

 ようやく気づく。

 立ち上がって、黒のベルトを外し、コール天(コーデュロイ)のこげ茶色のパンタロンを脱いで枕元に置いた。その上に皮ジャンも脱いで置く。これでやっとリラックスできる。布団の上に座って、ニットの白いボタンダウンシャツを体から剥ぎ取り、部屋の隅っこに放り投げると、ランニングシャツとトランクス一丁で掛け布団を頭まで被って膝を曲げ横向きに寝た。

 長い一日だった。

 ──こんな日はもう二度とありませんように!

 布団の中で手を合わせると、頭を出して婆さんの方をそっとうかがった。

 婆さんは、大の字になって片足を布団の外に投げ出し、大口を開け、高いびきをかいていた。コウスケは耳を塞ごうとした。そしたら腹の虫が餌を催促してきてうるさいので、思わず腹に手を当てる。隣では婆さんの高いびき、布団の中では虫の声に悩まされる秋の夜長。

 腕時計を街灯の薄明かりにかざしてみた。目を凝らすと、もうじき午前零時だ。

 ──もうどうにでもなれ!

 やけになり、婆さんとは反対の方を向いて目を瞑った。

 やはり疲労のせいだろう。婆さんのいびきも空腹も、気にならないくらい瞼が重くなってきて、じきに眠りに落ちていった。

 寝入りばなだった。

「コラーッ! コノヤロー! 出てけー!」

 何かの叫び声に飛び起きた。コウスケは寝ぼけて布団の上を這いつくばった。だが、すぐに正気に戻って婆さんを覗く。何食わぬ顔でいびきをかいている。

 ──やれやれ、とんだお荷物を預かってしまったものだ……

 いささか後悔しつつ溜息を洩らすと、欠伸をしながら布団に潜ろうとした。

「おめえ、エンマさんかー!」

 突然、ビクッとして、コウスケの目に閃光が走った。暗闇の中、大きな音に驚いたせいだ。婆さんの寝言だった。婆さんを見る。相変わらず大の字を崩していない。

「夜中ぐらい静かにするもんだ!」

 コウスケは四つん這いでケダモノに詰め寄り、小声で吠えるように説教をした。

 四つん這いで己のねぐらに戻ると、ケダモノの雄叫びに怯えつつ、疲れた体を静かに布団に横たえるのだった。

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