◇2 カメレオン・ババア現る──背後で気配が!

【1日目】1975年(昭和50年)11月8日土曜日


 さっきから背後で何か気配がする。

 ──人の声だろうか?

 洗車の手を止め、後ろを振り向いた。

「おめえ、エンマさんか!」

「ウワァーッ!」

 振り向いた途端、目の前に皺くちゃ婆さんの顔が迫った。年寄りにしてはあまりの声量に思わず尻餅をついた。「ビ、ビックリするだろうが!」

「おめえ誰だ? エンマさんにしては腑抜けたつらだ……」

「バアさんよ、ここ大丈夫か?」

 婆さんをにらんで、人差し指で自分のこめかみを突っつきながら声を荒げる。「そんなとこでなにしてる!」

「ここ……どこだ?」

 婆さんは呆けたように辺りを見回している。

「やっぱ、ボケてんのか。しょうがねえなあ」

 舌打ちしながら一旦立ち上がると、中腰で婆さんの顔を覗き込む。「おい、どっからきた? 分かるか?」

 相手はこちらの質問には答えず、相変わらずキョロキョロするだけだ。何度も首を捻っている。

「ここ、見覚えあんだけど……どこだ?」

「ダメだ。おい、あっちで待ってろ。あとで交番連れてってやるからよ。いいな、分かったか?」

 ガソリンスタンドの事務所を指差すと、婆さんはその方向に一瞬目玉を動かし、すぐに視線を元に戻した。

「おめえ、どっかで会った……よな? 見覚えあんのに、思い出せねえ。おめえの面、よーく知ってんだ、オラ……」

 婆さんはゆっくりと立ち上がって、辺りを眺め回しながらテクテクと事務所へと足を運び、ドアを開け窓際の椅子に腰かけた。

 それを確認すると、ホースとブラシを手に取り洗車を再開する。

「ついてねえや、あーあ、びしょ濡れだ。パンツの中まで通ってやがる、ちくしょうめ! なんなんだ、あのババアは……」

 独りごちながらふと事務所を見た。婆さんの姿はなかった。「あれ、どこ行きやがった……?」

 辺りをくまなく見渡して婆さんを捜したが、どこにも見当たらない。しばらく通りに視線を向けたあと、また仕事に取りかかる。

「おめえ、小便ガマンできんかったんか!」

 耳元で雷鳴が轟いた。

 右の耳をかばおうとして咄嗟に右腕を振り上げた瞬間、ブラシが高々と宙に舞い上がった。と同時に左手のホースの先端からは、ポマードで固めた自慢のリーゼントめがけ容赦なく水を噴射してくる。その勢いに押され顎を突き上げた。真っ青な天高く頂点を極め静止したかに見えたブラシが、目前の黒塗り高級車のボンネットを着弾地点と定め、次第に速度を増しつつ落下を始めた。反射的に、ホースを離し、身を乗り出して、ボンネットに着地寸前のブラシの柄の端を拳でぶん殴り前方へと押し出した。ブラシは回転しながら大きく弧を描き、給油中の先輩従業員の額を直撃して、その足元に落ちた。

 彼は額をさすりながらこちらを鋭い目つきで睨む。だがすぐに笑い出した。

 所在無く頭をかきながら首をちょこんと折って侘びを入れると、ウインドーを覗き込んだ。前髪がペタッと額に張りついて、可愛らしいおかっぱ少女だ。背後に婆さんの姿も映っている。ゆっくりと後ろに向き直る。

 声の主は平然と後ろ手に手を組み、こちらを何食わぬ顔で見ている。

 濡れた前髪から滴り落ちる水滴が眉毛に留まらず、睫毛まつげに溜まって、瞼が重いし視界を遮る。額に張りついた前髪がうっとうしいが、この際それは気にすまい。腰に両手を当てると、下を向きながら一度だけ溜息を漏らす。おもてを上げ、眼前の見知らぬ婆さんの顔を見つめた。相手も見つめ返す。お互い無言でしばらく見つめ合った。

「そんなに見つめたら恥ずかしいでねえの……」

 胸辺りをポンと軽く叩かれた。婆さんは顔を両手で覆い、身をよじって恥らう。よく見ると、顔と耳までもが紅潮している。その不気味な様相に身震いして咄嗟に一歩右足を引き、婆さんから少しだけ逃げる。

「な、なに赤面してやがる、なんか用か?」

「おめえ、おケツ、びしょ濡れでねえか」

 婆さんは上目遣いにしばし呆然としたあと、こちらの頭のてっぺんから爪先まで、め回すように視線を這わせると、突然笑い出した。「ワザとか? ワザとだな。それなら誰にも気づかれねえな。水浴びとは、考えたなあ……」

「なに言ってんだ?」

「とぼけやがって。ここよ、ここ」

 無防備な股間を、婆さんは右手の甲で二度触れてきた。思わず「オウッ!」と小さく叫びながら咄嗟に腰を引いて目を引ん剥いた。

「おい、ババア、なにしやがる! 人の大事なとこを……」

「おめえ、その歳でお漏らしとはなあ……」

 婆さんは手で口を覆い、小馬鹿にして笑いながら肩を竦めた。

「ち、ちがう……バアさんが驚かすから、尻餅ついたんじゃねえかよ!」

 慌てて言いわけを繕う。

「締まりのねえホース持ってんだなあ……」

「ちがうって! これは……」

「ほれ、ホース止めろや」

「だから、これは水だ、水。ただの水! 分かるか?」

「そうだよ、水だよ、早く止めろや、もったいねえ!」

 婆さんはホースの先端から噴き出る水を指差した。

「あっ!」

 婆さんの指先の方向を確認して小走りに水源の栓を閉めて戻ると、ゆっくりと婆さんの傍まで歩み寄り、前に立った。婆さんはまだホースの先端を見つめたままじっとしている。

「やっと止まったな……」

 完全に止まるのを確認してから顔をこちらに向けてきた。

「バアさんよ、おとなしく待ってろ」

 高い所から見下ろして言い放つ。

「おめえも止まったか? 今度はガマンしねえで、さっさと便所に走るんだぞ」

「ちがう!」

 睨みつけてやった。

「まあ、誰にもあることよ。恥ずかしがらねえでもええよ。オラ、黙っててやるよ。安心しな」

 婆さんは真顔で口に人差し指を当てながら片目をつむった。

 ──ウインクのつもりか?

 どう見ても顔をしかめたとしか見えなかった。深い皺の上に皺が重なっただけだ。

 ──皺の上塗り!

 ──いや、恥の上塗りか?

 婆さんの表情を見るにつけ、皺も恥も同じものに思えてくる。

「なん度言えば分かるんだ……」

 つい呟いてしまった。が、もう何も言うまいと決めた。言っても無駄だ。相手はボケているのだ。「もう昼だな。ちょっと待ってな」

 婆さんに踵を返し、事務所へと駆け出す。

「早く行け。ガマンするこたねえ。たんと出してこい」

 背後から婆さんの声が追いかけてきたが、聞き流す。賢いやり方だ。これが大人というもんだ、と渋々自分を納得させた。

 事務所へ行き、社長に事情を説明して、早めの昼休みを許してもらうと、急いで予備の青いツナギに着替え、白いタオルで濡れた髪を拭きながら婆さんの元へ戻った。

「さあ、行くぞ。交番連れてってやるからよ。自分で説明するんだぞ、分かったな?」

 ガソリンスタンドの右はす向かいの交番を指差してやる。と、婆さんは、さっきからこちらの顔を不思議そうに見つめていたが、素早く首を縦に折って頷いた。

 婆さんの先に立ち、手招きして促す。スタンドを出て右に折れ、交番の真向かいの藤野商店をすぎ、二十メーターほど先の横断歩道を目指す。手を引いて目前の通りを横切ってもよかったが、交通量の盛んな折、もし事故にでも遭わせたとあっては男がすたる。とは建前で、逆恨みされ化けて出られた日にゃ、恐ろしゅうて寝つきも悪くなる、というのが本音だが。まあ、年寄りに対するせめてもの思いやりからわざわざ遠回りしてやることにした。

 婆さんは相変わらずこっちの顔から視線を逸らさない。

 ──俺の顔に何かついてんのか、ババア!

 寸でのところで言葉を飲み込んだ。言ったところでむなしいだけだ。

 こちらが歩を速めると、婆さんも歩調を合わせピタリと横に張りついてくる。やはり、こっちの顔を見つめたままで。その視線にいささか息苦しくなってきた。

 横断歩道に差しかかる。赤信号で立ち止まって、婆さんを見た。腕組みをしてうつむいている。かと思えば、キョロキョロと四方八方に目玉を転がしては、いちいち首を傾げる。

 ──おめえはカメレオンか!

 思わず口をいて出そうになる。

 婆さんの観察を続ける。

 ──このカメレオン・ババアはどんな習性の生き物なのか?

 得体の知れぬ婆さんの行動に、

 ──もし自分の女房になる女が、こんな婆さんに変身したら?

 ふと想像してみると、背筋に悪寒おかんが走り、身震いした。

 ──自分には絶対にあり得ないことだ!

 ──こんな婆さんと所帯を持つ羽目になった爺さんの顔を一度拝みたいものだ……

 会ったこともない爺さんに深く同情する。

 信号が青に変わった。ここを渡り切れば交番まで一直線だ。斜めに横断して左に折れる。はやる気持ちが、また一層歩を速める。

 ようやく交番の前まで辿り着いた。

 婆さんに声をかけようとしたが、傍にあの生き物の姿はない。ふと、今歩いてきた方向を振り返ると、信号を渡り切った場所で遠くを見つめていた。一度天を仰ぎ舌打ちをして、仕方なく婆さんの元へ駆け寄った。

 何やら独りごちている。そっと顔を覗き込んでみると、こちらの目が婆さんのそれを捉えた。

「ここ……どこだ? オラ、なしてこんなとこにいるんだ?」

「ボケてんだから仕方ねえよ……」

 そっぽを向いて呟いた。

「オラ、ボケてなんかねえよ」

「さあ、早くきな」

 すかさず婆さんの手を取って歩き出すと、婆さんは、またこっちの顔をうかがってきた。

「おめえ、オラのこと知らねえか?」

「知らねえ!」

 きっぱりと言ってやった。

「オラ、おめえのこと、よーっく知ってんだ……」

「じゃあ、オレは誰だ?」

「分からねえ。それが分からねえから不思議なのよ」

「分かったから、早く歩け。交番で聞いてみろ」

「交番で聞いたら、分かっかなあ?」

「そうよ、交番で聞くのが一番よ。さあ行こうぜ」

「ああ……」

 婆さんの手をグイッと引っ張って急いだ。

 ──もうすぐだ。

 ──これでこの婆さんとは、永遠におさらばだ。

 ──もう二度とお目にかかることはなかろう。

 交番が近づいてくる。

「オレにババアの世話をする義務はねえ」

 婆さんから顔を背けてつぶやく。

「なんか言ったか? おめえとは、長えつき合いになっからよ、よろしく頼んだぜ」

 一瞬ギクリとした。

 ──そんなわけねえだろう、バカなこと言うなクソババア!

 と、心の中でののしる。

「おい、なんで長えつき合いになるんだ、オレ達?」

「さあ、なしてかなあ? そんな気がするだけだ。おめえが気にするこたねえよ」

 どういうわけか、心に一抹の不安がよぎった。ほんの一瞬だったが。

 やっと交番の前に到着した。不安を振り払うように、婆さんの背に手を添えて交番の中に促した。顔見知りの巡査に目配せする。

「いいか、ちゃんと説明して、家に帰るんだぞ、分かったな?」

 婆さんが交番の中へ入るのを確認すると、全速力でその場を離れた。


   *


 昼飯のありかまで駆けて息が切れた。しばらくその場で息を整えて、後ろを振り返ってみる。誰もいない。安心してレストラン“サンクチュアリ”のドアを押して中へ入る。

 入り口から右へ折れ、いつもの窓際のテーブルに着くと、すぐに新顔のウエイトレスが寄ってきて、水の入ったコップとおしぼりを置きながら注文を聞いた。

「カレーライス」

 一言だけ告げて笑顔を送る。

「かしこまりました」

 彼女もはにかんだ微笑を返してくれた。一礼して戻って行く。

 ぼんやりとその後姿を見送っていると、婆さんの渋皮つきの栗を煮込んだような顔が頭に浮かんだ。激しくかぶりを振り、婆さんの面影を頭の中からはじき飛ばす。

 ほどなくしてさっきのウエイトレスが注文を運んできた。

「君、かわいいね。いくつ?」

「十七です」

「頑張ってね」

 婆さんの顔を思い浮かべまいと彼女の横顔を見つめた。彼女はこちらをチラッと何度もうかがっている。よく見ると、耳まで赤くなっている。

 ──どこかで見た光景だ……?

 彼女が一礼して顔を上げ、微笑みかけた時、婆さんの顔がだぶった。目をこすり、もう一度彼女を見る。やはり、彼女は彼女だった。こちらも笑みを送り、「ありがとう」

 と言うとウエイトレスは跳ねるように去って行った。

 どういうわけか知らぬが婆さんの顔が目の前にチラついてしようがない。一刻も早く、婆さんの面影を脳裏から追い払わねばと思った。支配されたのでは飯もまずくなるというものだ。こんな時は、仕事で気をまぎらすのが最良の方法だろう。

 あっという間にカレーライスを平らげると、水で喉を潤し、深く椅子に身を沈め、しばらくくつろいだ。

 例のウエイトレスが横を通った時、

「もうよろしいですか」

 と声をかけた。

 浅く座り直し、姿勢を正しながら軽く頷く。

 彼女はカレー皿を銀盆に載せる。彼女の顔から目を逸らさずじっと見つめ続けていたら、突然彼女の顔が目の前に迫った。と、彼女はニコッと歯を見せて笑った。

 尻が椅子から跳ね上がり、そのまま床へと滑り落ちて尻餅をついてしまった。

 今、婆さんが歯を引ん剥いて笑ったのだ。

 目を瞬かせ、よくウエイトレスを確認する。フウッと一度溜息をつき、照れ隠しに頭をかきかき座り直した。

 彼女は笑いながら、テーブルを離れた。

 気まずい思いで立ち上がり、店内を見回すと、幸い昼前とみえて客も少ない。今の自分の失態に気づいた者は誰もいなかった。恥の上塗りは避けられたようだ。一応は胸を撫で下ろす。

 ──それにしても?

 と首を捻る。背筋にまた悪寒が走る。化け物にでも取り憑かれた気分だ。もちろんそんな経験はないが、こんなものだと直感が教えている。一刻も早く今日という日を終わらせねば、自分に幸福は訪れないような気がした。

 さっさとテーブルを離れ、急いで精算を済ませて店を飛び出すと、駆け出した。行動を機敏にしたところで時間が短くなるものではないが、己の思考回路では精一杯の解答だった。


   *


 サンクチュアリを出て交番の前までくると、そっと中を覗いてみた。

 船村巡査の姿しかなかった。

「船村さん。ちょっといいかな?」

「ああ、君か、どうした?」

「さっきの、バアさんだけど……」

「まさか、君の親戚か!」

 いきなり怒鳴られた。船村の顔色が変わった。

「い、いえ、あんなババア……帰った?」

「ああ、帰った。あいたーっ!」

 船村は帽子の上から頭を押さえている。

「どうかしたんですか?」

「い、いや、別に、どうも……」

「どこに帰るか言ってましたか?」

「それは言わなかったけど」

「でも、帰ったんですよね?」

「そうだけど、あの年寄りとどんな関係?」

「今日、初めて会っただけ。変なバアさんなんだ」

「ごもっとも!」

 船村の目がこっちを睨んだ。その凄みに思わずたじろいでしまった。

「か、帰ったならいいんだ。それじゃ……」

 か細い声で暇乞いとまごいをすると、さっさと交番を出た。

 船村の顔から、いつもの柔和な印象が消えていた。何があったか見当もつかないが、初めて見る表情だ。船村も人の子なんだと今更ながら感心する。

 それにしても、金輪際こんりんざいあのババアの顔を拝まなくていいのならめでたいことだ。と、ホッとして交番前の通りを突っ切って職場へ戻った。


   *


 仕事を終え、帰途に就いた時には、どっと疲れが出た。今日はあの婆さんのせいで神経をすり減らした。またいつ何時、ヌウッと顔を出すか気が気じゃなかった。だが、何事もなく一日の仕事を全うできた。今日は角打ちも屋台での一杯も諦めよう。寄り道などせず真っすぐ帰ろうと思った。

 ロッカールームで私服に着替え、表通りに出ると、辺りは真っ暗だった。交番の赤色灯が不気味な明かりを地面に落としている。藤野商店横の街灯の裸電球が虫の息で点滅を繰り返す。ガソリンスタンドを右に折れ、疲労困憊こんぱいの重たい足を引きずるように強引に前へと踏み出す。

 ──こんな日はもう二度とあるまい。

 既に記憶からは婆さんは消え失せていた。一日分の最後の力を振り絞って、徒歩で家路へと辿った。

 コウスケのアパートは勤務先の『メジロ石油』から徒歩三十分ほどの静かな路地裏にある。巣籠もり線を南に二十分、三つ目の信号を左へ折れ、二つ目の区画を右に曲がり、直進すると右手に美術大学のグラウンドが見える。その手前の路地を左へ入ると、アパートと下宿屋が軒を連ねている。角にはタバコ屋があり、タバコ屋から三軒目の古びた木造二階建てがコウスケの孤高の城『すずめ荘』である。二階の三部屋並んだ中央にコウスケは住む。六畳一間、流し、汲み取り便所付き、しかも風呂付きである。難があるとすれば、雨漏りぐらいだろう。梅雨時季は困る。非常に住みにくい。それを除けば、まあまあの住み心地だ。満足はしている。家賃はそれなり。

 薄暗いアパートの鉄製の階段を、重い足取りで上って部屋に入ると、まず風呂の水を確認する。夏は頻繁に入れ替えるのだが、今は秋、もう三日沸かし直している。

 ──まあいいか。

 ガス釜に火を点ける。

 風呂が沸く間、鍋に水を入れ火にかける。

 部屋を物色すると、運よくインスタントラーメンとレトルトカレーが一つずつ小型冷蔵庫の中にあった。両天秤にかけ、すぐにカレーは諦める。米がない。フランスパンがちゃぶ台の上に半分だけ干からびている。カレーはやっぱり米だ。好物のカレーは明日の晩飯に回し、ちゃぶ台の上に放った。

 ラーメンの封を切ってお湯が沸くのを待った。

 鍋から湯気が立ち上り始めると、麺と粉末スープを同時にぶち込み、箸でほぐしながら、ちゃぶ台に手を精一杯伸ばしてフランスパンを引っつかみ、かじってみる。片手では食い千切るのは無理だ。両手で握ってかぶりつくと、顎の力と引っ張る力とで強引に噛み千切った。口いっぱいに頬張り、軟らかくなるまで噛み砕く。段々顎がだるくなり、二口目をかじろうとして躊躇ためらい、中身だけをほじくって口に放り込み、フランスパンをちゃぶ台に転がす。

 ラーメンもいよいよ食べ頃になった。が、もうしばらくほったらかし、その間に、ちゃぶ台にどんぶりを用意する。

 麺に汁が染み込んで太くなってきた。火を止め、鍋からどんぶりにラーメンを移す。鍋を流しに放り込むと、数日分のたまった洗い物が崩れ、瀬戸物のぶつかり合う音がした。鍋はその上に辛うじてバランスを保っている。調理器具といえば、この部屋にはこのアルミの大鍋しかない。大は小を兼ねる。コウスケの信念に揺るぎはない。一人暮らしのコウスケにとっては、ちょっと大きすぎて不便な面の方が多いのが玉にきずだが。

 コウスケはちゃぶ台の前に、路地に面した中連窓を背にして胡坐あぐらをかいた。

 ラーメンに箸をつけ、まさに口に運ぼうとした瞬間、誰かが玄関のドアを叩いた。

 大口を開いて箸を宙に浮かせたまま一瞬悩んだが、しばしラーメンを諦め、渋々玄関先へ急いだ。

「珍しいな、こんな時間に……まさか、セールスか? 追い返してやる!」

 腕時計を見ると、十時を少し回っている。

 ドアを開けた。が、誰もいない。しばらく外を確認する。人っ子一人いない。気配もない。ドアを閉める。

 またちゃぶ台の前に胡坐をかいてさっきのラーメンの続きを再開する。箸で麺を高々と掲げ、フーフーして口に運ぶ。

 ドアを叩く音が響く。

 口を閉じ、ヨダレだけを啜って箸を置き、両の拳を握り締めながら玄関へ向かい、ドアを開ける。

 前には誰もいない。首を出し右を見る。隣室の下駄箱が置いてあるだけだ。首を伸ばし、ドア越しに左側を確認してみる。やはり人の気配はない。コウスケは首を傾げながら、ドアを閉めようとした。だが、何かに引っかかって閉まらない。仕方なく、外に出てドアを点検してみる。蝶番ちょうつがいを念入りに調べたが、ネジも緩んではいなかった。どこも何も異常はない。もう一度外から閉めてみる。今度はピタリと閉まった。再度ドアを開け閉めして点検し、ふと下を向いたら、薄い木片を見つけた。それを摘まんでアパートの外へ力いっぱい投げ捨てた。

 アパートの裏手には、電電公社の社宅の敷地が、一跨ひとまたぎの小川を挟んで隣接する。四階建ての鉄筋コンクリート造の建物が二棟、ベランダ側を南西に向けて縦に並んでいる。まるでこのアパートにそっぽを向いているように思える。視線を落とすと、その敷地内にブランコと砂場が申しわけなさそうに寄り添って設けられ、社宅の子供達の訪れを寂しげに待ち侘びていた。

 木片は回転しながら遠くまで飛んだ。最初大きくカーブしたあと、右へ方向を換えると急に失速しひらひらと風に吹き戻され、結局辛うじて小川を越えた辺りに落下した。

 コウスケは右肩を回しながら振り返り、

 ──今度は絶対に出ないぞ!

 と決心してドアを開けた。不振人物でもいやしないか、と注意深く辺りに探りを入れ、後ろ向きに部屋に入った。下を向き、足袋たびの横にスニーカーを並べて脱いだ。足袋の横に。コウスケは首を捻った。

 ──何か妙だ……?

 そう感じながらも気のせいか、と気にも留めず、早速夕食にありつける喜びに、表情も自然と綻んでしまう。

 気が急いて、ちゃぶ台に目がいった。

 ──また、妙な気分だ?

 ──おかしい……なんだろう?

 何かは分からない。それを探ろうとも思わない。好奇心よりも腹の虫の方が我がままだ。頭は食うこと以外、機能を停止した。

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