緋色の獣


「今日か明日に事故が起こるなら、この授業って可能性もあるし…。」


 冷静になればなるほど、徐々に自信をなくしていく。そもそも本当に事故が起きるのかどうか、それすら自信をなくしていた。


 階段をのぼりきると、変わらず長い廊下が現れる。構造がどこも似通っているため、非常に迷子になりやすい。


(一番奥の講義室…だよね。)


 少し重くなった足を無理やり動かし、講義室へ向かう。


「痛っ」


 突如、左目に痛みが走る。飛行術の時にも感じたあの痛み。反射的に目を押さえ、痛みに悶える。

 痛みも休まらぬうちに、耳をつん裂くような鳴き声とばたばたと何かが動き回る音。次いで乱暴に扉が開け放たれ、鮮やかな赤い獣が飛び出してくる。


(ほ、本当にきた!)


 鮮やかな赤い体色に、大きな飾り羽根。力強さを感じさせる脚から、その獣が飛行より走ることに特化しているのだとわかった。

 話に聞いた通りのその容貌に、ミリセントは一瞬あっけにとられる。


 扉を出て壁に一度派手にぶつかった獣は、体勢を立て直しミリセントのいる方へ走り出した。ドスドスと大きな足音を立て、壁にぶつかりながらこちらに走ってくる様は、どう見ても正気を失っていた。


「何の音?」


 騒ぎに気付いたのか、他の講義室から生徒が顔を出す。すぐにそれが過去に怪我を負った生徒であると理解した。


「危ない!!!」


 杖を振り、ドアに施錠の魔法をかける。突然ドアが閉まり、反対側から小さな悲鳴が聞こえた。ミリセントが杖を振ったのとほぼ同時に、獣は口から何かを放出する。それが冷気を纏った氷の礫だと、理解するには一瞬遅かった。


 杖を振り上げた腕に、礫が容赦なく突き刺さる。痛みを感じるより先に、芯まで凍る様な寒さが全身に響く。じわりと血が滲み出し、白いシャツを赤く染め上げていく。痛みはないはずなのに、腕が思う様に上がらない。


「やっ…ば…」



「ごめんなさあああい!!」


 絶叫にも近い謝罪と共に、遅れて獣が飛び出してきたのと同じ講義室から一人の男性が飛び出してくる。おそらく、獣__使い魔の主人だろう。


 彼が杖を振ると銀色の光が杖から放たれる。光は真っ直ぐ使い魔に飛んでいき、その巨体に命中する。


 使い魔は2、3度たたらを踏み、その場に倒れ込んだ。


「大丈夫ですか?!」


「あ、ぜんぜん…。」


 男性は慌ててこちらに駆け寄ってくる。全く大丈夫ではなかったが、それよりあっさり解決してしまったことに驚いていた。


(ていうか、これなら全然怪我人出なかったんじゃ…。)


 そう思った矢先、男性に大きな影が落ちる。背後には、倒れたはずの使い魔が立っていた。その瞳はガラス玉の様で、何も映していない。冷気を纏い、凍える様な息を吐く。空気が凍るシャラシャラとした音が聞こえる。皮膚が張り裂けそうなほど痛かった。それが目の前の男性を攻撃しようとしていることはすぐに理解できた。

 わかっているのに、体は言うことを聞かない。凍りついた右腕はしんとしたままだ。


「あ…が、れ!!!!」


 両手で杖を持ち、動かない右手を無理やり持ち上げ杖を振る。ミリセントの杖先から眩い銀色の光が放たれる。理解が追いついていない青年の頬のぎりぎりを光が走り、使い魔に正面から当たる。

 今度こそ、その巨体は崩れ落ちた。


「えっ!?」


 ようやくそれに気付き、慌てた様にそちらを振り向く青年を見て、ミリセントは合点がいった。


(前の時、ここで主人も倒されて使い魔は止まらなかったんだ…。)


 安心し、気が抜けたのかその場に座り込んでしまう。今になって氷が少し溶け出し、腕に疼痛が走る。


 ミリセントがかけた施錠の魔法が解かれたのか、講義室から少しづつ生徒が出てくる。


 慌てた教師たちが集まり、慌ただしく事態が動いていく。その様子をぼんやりと眺める。

急激に音が遠くなっていき視界が狭くなった様な感覚を覚える。視界は完全に閉じ、ミリセントは意識を失った。










 最初に視界に飛び込んできたのは星が煌めく美しい夜空だった。無数に輝く星は暗い夜空を鮮やかに彩っている。遠い昔に、両親に連れられ見に行った夜空を思い出す。優しく笑いかけてくれた母と、疲れて眠ってしまった父。二人の顔は少しづつ朧げになっていた。


 ぼんやりと見つめ、次第にそれが本物ではなく天井に描かれた絵だとわかった。


(そっか…私……どうしたんだっけ…。)


 状況を把握しようと脳を働かせるが、少しも働いてくれない。霧がかかった様に、どこか不鮮明だ。


 上体を起こし、あたりを見渡す。クリーム色のカーテンで仕切られたベッドの上で、ミリセントは眠っていた様だ。


 意識がはっきりしてくると、右腕に激痛が走る。思わず呻き声を上げ、腕に視線を落とす。ぐるぐると大袈裟なほど包帯が巻かれ、どうなっているかはわからない。それが余計に恐怖心が増した。


 左手でカーテンを開け、外の様子を確認しようとする。思ったより外は至って普通で、特に騒ぎが起きた様子はなかった。

 あたりを見渡していると、デスクに向かっていた女性と目が合う。ミリセントに気がつくと、すぐに彼女はこちらへ来た。優しげな顔よりも、豊かな胸元につい目を奪われてしまう。


「おはよう、気分はどうかしら?」


「おはようございます…だいぶいい…と思います。」


「そう、良かった。魔法で怪我は治っているけど、体力をかなり使っているから、今日一日は安静にしててね。」


以前も何度かお世話になったことがある、とようやくミリセントは思い出した。

 マーニャ・クランドール。エストレル学園の保健医だ。金と黒が入り混じった髪に、明るい金色の瞳。慈しみに溢れた母、そんな印象を持っていた。


「随分と無理したらしいじゃない。後で先生たちが話を聞きにくると思うから、できる範囲でお話ししてくれるかしら?」


 なにやら戸棚に向かって杖を振り、かちゃかちゃとティーセットの準備をしはじめた。


「はい…あの、あれからどれくらい経ったんですか?」


「今日の授業は全部終わったわ。そろそろ夕食の時間よ。」


「そんなに寝てたんですか!?!」


 驚き声を荒げると、クランドールはしぃー、と指を口元に当てる。


「傷に響くわよ、大変だったんだから…。酷い切り傷に凍傷までして。さっきまで熱も出てたのよぉ?」


「そ、そうなんですか…。」


「ほらほら、温かい紅茶でも飲みなさい。」


 クランドールは銀色のトレーに小花柄の可愛らしいティーセットと茶菓子を乗せて、ミリセントのサイドテーブルまで運んできた。甘い香りが、ミリセントの不安を和らげてくれた。


「上級生の使い魔を止めようとしたんですって?」


 小さな回転椅子をベッドの横にからからと運び、すぐそばに座る。その口ぶりは責めるというよりは諭すものに近かった。

 ミリセントは口元に運んでいたティーカップを止めた。


「…はい…。怪我人が出ると、思ったので…。」


「危険なことをしたと、あなたのことを責める人もいるかもしれないけれど…私はあなたが良いことをしたと思うわ。偉いじゃない。」


 クランドールは大抵の出来事を肯定してくれる。その点を含め、ミリセントは彼女が好きだ。

 食べて食べて、とクッキーが乗った皿を差し出す。一つ摘むと、サクサクとした食感にほんのり甘みを感じた。


「いろいろ聞きたいけど、それは他の先生たちに任せることにするわ…。そうだ、お友達がお見舞いに来てたわよ。」


「えっ、ほんとですか!?」


ティーカップを急にソーサーに置いたため、カチャンと音が鳴る。弾みで少し紅茶がこぼれてしまった。


「ウェンダーさん、ご存じかしら?」


「シャルルですか?う、うれしい…。」


 心配をかけてしまったという申し訳なさより、心配してくれたという嬉しさが大きかった。小さくガッツポーズをし、喜びを噛み締める。

 ふふ、とクランドールは笑う。


「授業間の10分休み、毎回来ていたのよ?お昼の時もずっと…。あいにく、あなたは起きなかったけれど。」


「そんなに!?悪いことしちゃったなぁ…。」


「それとブランシュトさんも。とても心配していたわよ。」


「ルーク!」


 脳裏に彼の姿がぱっと浮かぶ。

 はやく無事であることを知らせなければ、と焦りに駆られていた。


「まあ、そろそろ夕食の時間だしまだ来ないと思うけど…。」


 そう言った瞬間、こんこんとドアがノックされる。控えめにドアが開けられ、おずおずと翡翠の髪の少女が顔を覗かせる。シャルルだ。

 シャルルはミリセントに気がつくと、ぱっと顔を明るくし小走りで近づく。


「ミリセント!!!」


「ぎゃああああ痛い!シャルル!!痛あぁい!!」


「わっ、ごめん!」


ぎゅっと力強く抱きしめられ、ミシミシと骨が嫌な音を立てる。ぱっとシャルルは一度離れ、もう一度ミリセントを抱きしめた。クランドールはにこにこと見守っていた。


「心配したんだからぁ…。」


 気丈に振る舞っていたが、その声は涙ぐんでいた。動かせる左手で、シャルルを優しく撫でる。


「…心配かけてごめん。」

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