第41話 見上げた彼の不遜な笑顔に私は今日も溜息を吐く

描いては消し、消した線をまた描いては塗りつぶす。


溜息は何十回目、すみれ特製カフェオレのお代わりはもう3杯目だ。


さすがに運んで来たすみれにも


「美味しいって言ってくれるのは嬉しいけど、お腹チャプチャプになっちゃわない?」


と心配された。


何かを食べる気力が湧かないのだから仕方ない。


水分だけでも絶対に摂るようにしているのは、脱水症状で倒れた事があるからだ。


あの時は、会社ですぐに次郎丸が気付いてくれたけれど、一人の部屋で倒れても誰も気づいてはくれない。


いや、今は、約一名気付いてくれる可能性のある人物がいるが、その後のお説教が恐ろしい。


クリエイターは、自己管理が重要になる。


納期は待ってくれないのだから。


「描けそうだと思ったのにな・・・」


移り行く流行のチェックと、気分転換を兼ねて、店舗応援の後は必ず大通りを歩くのがつぐみの日課だ。


時間帯に寄って通りを行き交う人のタイプは異なる。


平日の昼間なら、子供連れの母親や、学生。


夕方を過ぎると、一気にサラリーマンやOLが増える。


紺や、黒、グレーが多い足元に、ぱっと花が咲いたように鮮やかな色が飛び込んで来ると、それだけでテンションが上がる。


つぐみが人を見る時は、必ずいつも足元からだ。


雨降りの日には、防水加工のエナメルのカラフルなパンプスで出かけたくなる。


勝負の日には、シックな黒、もしくはビビットな赤のバレエシューズ。


これだ!とイメージが湧く時は一瞬なのに、そこに辿り着くまでの蛇行運転が凄まじい。


ああでもない、こうでもない、と目を閉じて浮かんだイメージを脳裏で具現化して、それを映像にして指先に下ろすまでのなんと長い事か。


唸ってみたり、瞑想してみたり、時にはクッションに向かって叫んでみたり。


一瞬きらっと光ったイメージを捕まえて、紡いだ画は、何処からか別の迷路に迷い込んでいた。


何が足りないのか分からない。


迷っているから、なのかもしれない。


ああ、全部中途半端なままだ。


買った時は物凄く気に入って、これを着てお出かけしようと思ったはずなのに、自宅の鏡の前で着てみたら、意外な程しっくりこなくて、行き場を失くしたワンピースみたい。


どっちつかずで迷子のあたし。


適当に掴んだ複数の色鉛筆をスケッチブックに立てて、ぐるぐると適当な円を描く。


終わらない螺旋は、出口のない思考と似ている。


「ううううううううー」


「生きてるの?」


ロフト席へ続く階段の中ほどで立ち止まったままの六車からのぶしつけな質問に、つぐみは我に返った。


が、いつものように迎え入れる余裕が今日はない。


テーブルにぺたんと頬を預けたたまま、視線を合わせる事もしなかった。


「生きてるけど」


「ちょっとは食べた方が良いって。俺がオニオンリングなら片手でいけない?」


「んー・・・」


「おお・・・見事な螺旋・・・」


つぐみの態度には触れずに、歩み寄って来た六車が、隣に立ってスケッチブックを覗き込む。


まるで幼稚園児のお絵かき帳のようだ。


「新作?」


「梅雨前に、新しいデザインを上げたくて・・・街に出て、良い感じのイメージはあったんだけど・・・違ったのか、間違えたのか・・・」


スケッチブックの端を押さえるつぐみの手に、自らの指を重ねて、六車が肩を竦めた。


「冷えてる」


「ホット飲んだ」


「昼飯は?」


「んー・・チョコ・・?」


「何か食べないと・・・気分じゃないだろうけど・・・」


包み込まれた掌で感じた六車のぬくもりに、逆に自分がどれ位冷え切っていたのかを思い知らされる。


手の甲を撫でた親指が、確かめるように順番に折り畳まれたままの指をなぞる。


こちらの様子を慎重に伺っている気配と、純粋に労わりを含む眼差しが降って来て、心許ない気持ちで必死に踏ん張っていた最後の砦が崩壊しそうだ。


触れて欲しくない所には触れない癖に、完全に離れてしまわない絶妙の距離感。


自分の中から生み出したアイデアやイメージで勝負する職種故か、ここからここまではあたしの陣地です!というパーソナルスペースが多いつぐみ。


他人から理解されない事も多いこの感覚は、恐らくクリエイター特有のもので、だからいつも当たり障りのない人で終わる事が多い。


踏み込ませない代わりに、こちらも踏み込みません、というスタンスは楽だ。


守るものが明確であればあるほど、その気持ちは強くなる。


理解や協調は不要だと、心のどこかで思っていた。


それなのに、六車はそういう敏感な琴線には触れないぎりぎりのラインで、つぐみの心をくるみこむ。


少しずつ力の抜けていく指先を、慎重に解いて行った六車が、出来た隙間に自分の指を嵌め込んだ。


まるでパズルのピースのように。


★★★★★★


優しいから、好き、頼りになるから、好き、楽しいから、好き。


恋人を選ぶ基準なんてひとそれぞれ千差万別だ。


自分にとって譲れない条件をどれだけ埋めてくれるのか。


見た目、立場、環境。


中身に比例して外見も加味されて、その上で恋人、という約束は成り立つ。


つぐみにとっての六車は”心地よい”場所を共有できる貴重なパートナーである。


あたしの陣地、全部は明け渡せないけど、それでもいいなら、並んでもいいよ。


そういって譲歩出来る相手。


こんな人には初めて出会った。


だから、大事で、尊い、居なくなったらきっとすごく困る。


自分が自分で居る為に、必要不可欠な人だ。


恋愛感情とはどこか違う場所で、冷静にそう分析する自分が居て、恋とはそういうものなのか、と漠然と考えていた。


だけど。


いま、指の隙間に重なり合うように絡められた六車の節ばった指先は、尊い、とか、大事とか、そんなんじゃなかった。


理屈もへったくれもない。


彼のこの指が、好きだと思った。


「何してんの・・・」


手を繋ぎたかっただなんて、まさか思わない。


六車の意味不明な行動は、それでも今のつぐみには、どうしようもなく響いた。


呆れた声の呟きと共に、視線だけ上を向ける。


木造りの天井と、吊るされた柔らかい照明の下で、こちらを見下ろす六車と目が合った。


随分久しぶりに顔を見た気がする。


つぐみの視線を受け止めて、六車が相好を崩した。


目元を綻ばせて、絡めた指先を軽く自分の方へ引き寄せる。


「やっとこっち見た」


勝ち誇った表情に、ああこの為だったのかと漸く合点がいく。


ふっとつぐみの身体から力が抜ける。


と同時に、持ち上げた冷えた指先に六車が唇を寄せた。


吐息が触れて、思わず声が漏れそうになる。


くすりと笑う余裕がある彼が物凄く憎らしい。


恭しく小指の付け根にキスをした六車が、口角を持ち上げる。


何気取ってんのと言ってやりたいが、気力も体力も残ってない。


ひたすら恨めし気な眼差しを向けてやる。


それでも、六車は気にした様子もなく、今度は乾いた唇を薬指に移動させた。


今後は第二関節にキスをする。


普通王子様がお姫様の手を取って、唇を寄せるシチュエーションなら、もっと甘ったるい雰囲気になる筈だ。


なのに、二人の間に漂う空気は、甘さと重たさがごちゃ混ぜになったマーブル模様。


つぐみの次の反応を伺っている六車の余裕ぶった眼差しに、こんちくしょう、絶対何も言ってやらない!と心に誓う。


ふん!と視線を外すと、小さく笑った六車が、中指の爪先に吸い付いた。


「っひゃ!」


これにはたまらずつぐみも声を上げる。


まったく油断したところをぱくりと食らいつかれた気分だ。


「あ・・んたねえ・・・空気読みなさいよ!」


思わず口走った台詞に、六車がやれやれと肩を竦める。


「空気ならさっきから読んでるだろ。必死に懐柔しようとしてる」


「っは!?どこがよっ・・・好きとか思って損したっ!」


「・・・」


六車が虚を突かれたように黙り込む。


「・・・う、嘘だから・・・」


慌てて取り繕ったがもう遅い。


なんでこんな頭回らないんだあたしの馬鹿!


言い訳がましく付け加えた一言は、六車の一言で一蹴される。


「へえ・・」


囁き声と共に、人差し指の側面を甘噛みされた。


「・・・っ!!」


目を閉じると親指の腹にキスが落ちる。


もう本当にこの男は質が悪い。


この手の恋愛事に関して、つぐみは一度として勝てたためしがない。


降参宣言しか逃げ道がないなんて情けない話だが、実際そうなのだからしょうがない。


甘いリップ音と共に親指から唇が離れて、テーブルに付いていた掌がつぐみの後ろ頭に回される。


擽る様に髪の隙間から項に潜り込んだ掌が、ぐいとつぐみの頭を押さえつけた。


文句を言う暇も無かった。


強引に重なった唇が、すぐに解けて、もう一度重なる。


引き結んだ唇が解かれるのはそのすぐ後の事で、舌先が潜り込んで来た時点でお手上げ状態だ。


回らない頭と、息苦しさで握りしめた色鉛筆を放り出す。


コロコロ転がる軽やかな音に混ざって、階下で足音が聞こえた気がしたが、確かめる余裕なんてない。


歯列を辿って舌を絡めとる六車の器用な動きに翻弄されているうちに、身体の力は綺麗に抜けていった。


10分後にすみれからの、そろそろいーい?の呼びかけが入るまで、つぐみが解放されることはなかった。


ニヤニヤ顔でオーダーを運んで来たすみれの様子に、やっぱりさっきのは!と気付いてしまったつぐみの真っ赤な顔を見ろして、六車が気分転換出来ただろ?と告げるのはその後の話だ。

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ハイヒール 宇月朋花 @tomokauduki

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