第40話 start over

中学に上がる頃には、将来設計はすでに決まっていた。


父親が先代から譲り受けた会計事務所を閉じるわけにはいかないことは、子供ながらに理解していたのだ。


同級生たちが、やれ野球選手だ、サッカー選手だ、電車の運転手だ、と騒いでいる横で、スーツを着てネクタイを締めて帳簿の付き合わせに勤しむ自分の姿をぼんやり想像してしまうのは、なんとも侘しいものがあったけれど、着地点が早々に決まっていたおかげで、無駄に悩む事も、非行に走る事もなかった。


知り合いの会計事務所で下積みを積んで、父親の事務所に戻ったのが4年前。


それまで付き合っていた女性とは、その機会に別れた。


彼女にしてみれば、やっと結婚出来る、と思っていたんだろう。


自分の抱く感情と、彼女の抱く感情の温度差が明確になって、漸く父親の仕事を引き継ぐ準備を始めたばかりの自分には、まだ庭を持つ余裕はないと正直に伝えたのが決定打になった。


別れの悲しみに浸るよりも、目の前の現実に流されないようにする事で精一杯だった当時は、ぽっかり空いた恋人との時間を全て仕事に費やす事でどうにか現実に食らいついていた。


色んな事に必死だったのだ。





次郎丸の会社には、月に2,3度顔を出す。


決算時期には週に1,2度と頻度は上がるが、それでも常勤社員程通っているわけではない。


会計事務所に次郎丸に出向いてもらう事も可能なのだが、中島は極力自分から会社に顔を出すようにしている。


理由はひとつ。


タイミングが合えば、つぐみに会えるかもしれないからだ。


デザイナーとは言っても、社内にいる事はあまりなく、店舗応援に出かけたり、アイデア収集に本屋に行ったり、工房との打ち合わせに出かける事の多いつぐみと顔を合わせるのは、ごくたまに、だった。


それなのに、やけに印象に残っているのは、新人の頃ガチガチに緊張した姿や、がむしゃらで、とにかく全力な姿勢が、当時の自分と重なって見えていたせいだろう。


次郎丸がビシバシ愛情を持って育てている新人、という印象しかなかった彼女を、いつからか目で追うようになっていた。


最初は挨拶しかしなかったつぐみが、そのうち次郎丸と一緒に外回りに出かけるようになり、そのうち彼女の作った靴が店舗の並ぶようになった時には、自分の事のように喜んだ。


保護者のような、兄のような、そんな感情を抱いていたと思っていたのに、そこに僅かに潜んでいた別の感情に気付かされたのは、彼女に興味を示した別の男が現れた時だった。



全く別の角度から切り込んで、つぐみのコンプレックスを刺激して、嫌われて当然の立場にありながら、つぐみから除外されない男。


六車壱成は、つぐみと同じ側にいる人間なのだと気付いた瞬間、同時に二人が並んで歩く未来も、見えてしまった。


踏み込んでやろう、とか、邪魔してやろう、とか、そんな気持ちは起こらなかった。


六車が悪意を持って彼女に接しているわけではないと、わかったからだ。


それは、次郎丸も同じだったようで、どれだけ辛口でつぐみが六車を突っぱねても、プロジェクトから外そうとはしなかった。


側に居て、心が満たされて、癒される。


そんな恋愛を重ねて来た自分にとって、切磋琢磨し合う恋愛というのはどうにもピンとこない。


感性を刺激し合って、アイデアを膨らませて、新しいものを生み出す。


クリエイターにしか出来ない業だ。


”俺は、つぐみちゃんが仕事で行き詰ったら、気分転換に外に連れ出して、話を聞いて、うんと甘やかしてあげることはできる”


これまでの恋人にもそうして来たし、恋愛とはそういうものだと思って来た。


だけど


”俺は、つぐみちゃんに新しい何かを見せたり、違う世界に連れ出してあげることは、出来ない”


現実を生きる手助けなら、いくらでもしてやれる。


悔しさを忘れさせてやることも、恐らくできる。


だけど


”悔しさを跳ね返せる何かと、つぐみちゃんに与えることはできない”


恐らく彼女は、抱きしめて守られる事は望まない。


蹲って泣きじゃくっても、どれだけ苦しんで、悩んでも、自分の持つイメージを、世の中に発信していく事は、生涯やめない。


そんな彼女だから、同じ立場でその感覚も感情も理解できる人間ではないと、駄目なのだ。


”俺が持ってる優しさじゃ、届かなかった”


どれだけ捻くれてねじ曲がって見えても、六車壱成が差し出す優しさは、つぐみにちゃんと届くのだ。


きっと、ああいう相手を、運命の相手、というんだろう。


胸の奥で未だにくすぶり続ける炎には知らん顔を続けながら、中島は今日も穏やかな笑みを浮かべ続ける。


何も伝えられなくても、せめて、彼女が望んだ未来を手に入れる瞬間までは、見届けてやりたいと思うから。



取引先に出向いて、事務所に戻ろうとしたら午後2時前だった。


朝から数字とにらめっこが続いていて、空腹すら忘れていた腹が思い出したように暴れ始めて、事務所に戻る前に、お馴染みの定食屋に立ち寄る事にした。


外観も店内も女子受け度は0に程近い、古びた定食屋だ。


店主夫婦が切り盛りする店は、中島の父親の代から続いているのでかれこれ40年近くになるだろう。


愛想なしの店主と、下町のおかみといった風情の妻が二人三脚で経営する店は、安い、早い、美味い、が売りだ。


とんかつ定食、焼き魚定食、豚の生姜焼き定食が、昼メニューの定番で、近場のサラリーマンでお昼時はかなりの盛況ぶりになる。


さすがにこの時間なら空いているかと暖簾をくぐると、数組の客が居た。


手近なカウンターの椅子を引いて、隣の空席にカバンを置くと同時に、グラスに入った水とおしぼりが出された。


「いらっしゃい、今日は遅いのねぇ。何にする?あ、焼き魚切れちゃったわ」


「じゃあ、豚の生姜焼きで」


「はいよ、すぐ作るわねぇ」


皺の刻まれた馴染みのある笑顔に笑みを返して、スマホを取り出す。


届いていたメールをチェックして3分ほどでアツアツの豚の生姜焼き定食が届いた。


いつ来ても本当に待ち時間が無いのが有難い。


かき込むように食べて事務所に戻るのが常だが、この後のアポはないので、少し位ゆっくりしても良いだろうと、届いたメールに返信を打ちつつ箸を進める。


と、少し離れた席から聞き慣れた声が聞こえて来た。


「だから、熱はないんだってば、はい、そこで怪しまないで、測んなくていいし・・って」


聞き間違えるはずがない、つぐみの声だ。


思わず振り返りかけた矢先に、呆れたような男の声が続いた。


「怪しんでない、疑ってるだけ。あ、やっぱりちょっと熱いな」


「いや、微熱だから。ちょっと怠いなって思っただけ」


ここは次郎丸の会社の徒歩圏内でもあるから、つぐみが来るのは珍しい事ではない。


この店を教えたのは次郎丸と中島だ。


まさか、ここに男連れで来るようになるなんてね・・・


どう見ても綺麗とは言い難い古い定食屋だ。


余程気を許した相手でないと来ないだろう、つまり、二人の関係は、そういう事だ。


振り返らなかった自分を褒め称えつつ、顔合わせないようにタイミングを伺いながら豚の生姜焼きを口に運ぶ。


「来週打ち合わせ重なってるとか言ってなかった?」


「あーうん、だから尚更風邪ひいてる場合じゃない。から、風邪じゃない」


「そうやって過信してると週末寝込むよ。まあ、予定ないからいいけど」


「ええ、晴れたら国立美術館行きたかったのに」


「具合悪い時に人込み行くとかありえないだろ。自宅待機だよ。熱出そうなら金曜の夜から家来たら?その方が安心だし」


「・・熱上がるかな・・?」


「薬飲んで大人しくしてれば大丈夫だろ。でも、あんたの場合布団の中にまでスケブ持ち込むからなぁ」


「さすがに具合悪い時はしないよ!微熱の時だけでしょ!」


「どうだか・・まあ、どっちにしてもこっち帰って来てよ。休みの朝に呼び出されるの面倒だし」


「・・もうちょっと別の言い方ないかな?」


「何て言って欲しいの?」


「・・もういいですー」


拗ねたように言い返したつぐみの声が、いつもより子供っぽい。


完全にリラックスしている様子が伺えて、知らずに苦笑いが零れた。


「薬あるの?」


「ん、机にあるから平気。あ、やばい、そろそろ戻らなきゃ。壱成、このあと別のクライアントの所でしょ?時間大丈夫?」


慌ただしく椅子を引く音がして、つぐみの足音が近づいて来る。


中島の真後ろを通って、レジに向かうも、急いでいるせいかまったくこちらには気付かない。


その事に少しの安堵と、淋しさを覚える。


レジ前でのどっちが払うかの短い押し問答は六車の勝利で決着がついた。


「ごちそうさまでした。俺の方はまだ時間あるから」


「そう、よかった。ごちそうさまでした!じゃあ、また連絡するから」


暖簾を潜って駆け出そうとしたつぐみに、六車が声を上げる。


「は?じゃあ、じゃないから。ちょっと待って、やり直し」


「え?何が?」


「さっきの熱のやり取りもう忘れた?」


「あ、うん。それは覚えてる、けど薬あるから」


「そうじゃなくて、俺の心配もちょっとは察してよ・・ほんとに」


「あー・・えっと、ごめんなさい・・会社まで、送ってくれる?」


「・・・ん。正解」


ため息交じりの六車の声と共に、ゆっくりと引き戸が閉まる。


半分程残っている豚の生姜焼きを見下ろして、中島は置きっぱなしのスマホを引き寄せる。


憎からず思っている相手が大切にされている事実を知るのは嬉しくて、同時に、物凄く、しんどい。


それでも彼女の幸せを願わずにはいられない。


ゆっくりと深呼吸を一つして、中島は天井を仰いだ。

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