第36話 起こさないでください

「うふふー待ってたのよー」


店に入るなりすみれの満面の笑みで迎えられた。


彼女がこういう顔をする時は、きまってつぐみが先に来ている時だ。


平日の午後8時。


照明が絞られた店内には心地よいジャズが流れている。


この時間にplacideにやって来るのは殆どが常連客ばかりだ。


お馴染みの近所の老夫婦に、いつもノートパソコンを傍らに置いているサラリーマン、カウンターの端っこで文庫本を広げる女性客。


話し声が殆どないのは、グループ客がいないせいだ。


ランチタイムには近所のOLやサラリーマンが複数で来店するが、平日の夜となると客層はぐんと変わる。


ゆったりと時間を過ごして欲しいという津金夫妻の希望通り、思い思いのひと時を過ごすおひとり様が随分多い。


つぐみと待ち合わせをしていない時は、六車も漏れなくそちら側に入るのだが、今日は違う。


「え、なに、すみれさん」


笑顔が怖い、と言わなかったのは行ったら倍絡まれるからだ。


「うふふふー・・すんごいいいもの見られるわよ」


「いいもの?なに、お土産?」


「違うわよーものじゃなくて、記憶?ああ、いいから早く上がってー、あ、先にオーダーして行ってね」


有無を言わさず定番のメニュー表を差し出される。


「え・・いつにも増して意味が分かんないんだけど・・今日の日替わりってなに?」


「白身魚のムニエルよー、アボガドのサラダと野菜スープ」


「あ、じゃあそれで。お願いします」


「はーい。かしこまりましたー。足音、立てない様に、そっとそーっと上がってね!絶対よ!」


つぐみを驚かせろとでもいうのか?と訝し気に思いながら、それでも素直に従って、足音を忍ばせながら階段を上る。


ロフト席が徐々に見えて来るけれど別段変わった所はない。


いたっていつも通りの・・・違った。


思わず階段の途中で立ち止まってしまう。


視線の先には、ソファ席で横になっているつぐみの姿があった。


思わずぐりんと振り返る。


こちらをニヤニヤと見守っていたすみれと、いつの間にかやって来たらしい津金の姿もあった。


唖然とする六車の顔を見て、ふたりがしてやったり、という表情を浮かべる。


慌てて3段ほど戻って、階下に向かって静かに告げる。


「15分くらい経ったら取りに降りるから・・」


「はいはーい。邪魔はしないわよー」


いってらっしゃーい。と見送られて、釈然としないままで階段を上り切る。


「つ・・ぐみ・・マジで寝てんの・・・?」


クッションを枕にして、長い脚を折り曲げて丸くなって眠る姿は猫のようだ。


掛けてある大判のブランケットはすみれか津金の仕業だろう。


「あんた何してんだよ・・・」


ズルズルとその場でしゃがみ込みながら、出て来たのは愚痴だった。


俺の部屋でもそんな安心して眠ってくれないくせに。


自分のテリトリーじゃない、と頭の何処かで理解しているのかちょっとした物音でもすぐに起きてしまう。


ぐっすり眠ってくれるのなんて、思考回路が回らなくなるまで疲れさせた時くらいのものだ。


俺がどれだけ必死に寝かしつけたと思ってんだよ・・・


つぐみを家に連れて帰るまでにかかった時間と、ベッドに引っ張り込むまでにかかった時間。


腕の中で眠ってくれるまでにかかった時間を考えると、なんだかもうやるせなくなってくる。


六車がつぐみの外壁を少しずつ引き剥がして行った努力を、この空間は一足飛びに飛び越えてしまった。


自分が作った場所に、自分が負ける事が物凄く悔しい。


つぐみはこの店を自分の空間の一部のように思っていて、会社のアトリエや、自分の家と同じ位大切にしている。


つぐみにとって創作活動に打ち込める場所は、何処だって特別な場所で、そこには余計な感情を一切持ち込まない。


悩みの種も、不安も、全部蚊帳の外にして、物を生み出す事にだけ没頭する。


その場所に、自分の部屋も加えて欲しくて、つぐみが纏っている鎧も、つぐみを取り囲んでいる外壁も全部投げ捨てて、気持ちひとつで飛び込んで行ける場所にしたくて。


でも、それがまだ叶わないから、手探りの最中だ。


なのに、当の本人は六車の悩みを知りもしないで、こうしてplacideを自分の棲みかにしてしまう。


「・・俺はあんたの境界線がほんっとにわかんねーよ・・・」


踏み込ませてくれた、と思えた。


身体がゼロ距離になったから、心理的な距離も多少は近づけたと思った。


つぐみは心を許さない相手には自分を預けない、絶対。


喜べばいいんだろうか?


ここも俺の一部なんだから、つぐみにとって居心地のよい場所である事を誇ればいいんだろうか?


疑問と一緒に焼けつくような胸のざわめきが広がる。



「あれ、もう降りて来たの?ごめん、もうちょっとかかるよ」


階段を降りると、厨房の方から津金が呼びかけて来た。


「いや、急がないから・・・つぐみも起きる気配無いし」


カウンターにもたれ掛かって溜息を吐く。


「あらーやだ、自分の作った店にヤキモチ?」


「すみれさんってなんでこういう所だけ鋭いの?」


「うふふーだって、女ですもの」


「いや、全然分かんない理屈なんだけど」


「男は頭で考えるでしょう?女は気持ちで動くのよ。だから、つぐみちゃんは、うちの店の雰囲気に惹かれて、メロメロになって、油断して寝ちゃったのよ」


「その言い方なんか嫌なんだけど・・・」


「あーらどうして?ここは六車くんの店でもあるのよ?一人で眠れちゃうくらい居心地が良いってことは、六車くんといっしょに居るのが心地よいってことじゃない」


「うわー・・・いまちょっと励まされた」


「ほんとう?なら良かったわ。なによー本気でそんな事で悩んでたの?あの子、あなたといる時も同じように油断してるじゃない、ここ最近、とくに」


「え・・・?」


「やだー気付いてないのー?すっごい顕著よー。ああいう仕事一辺倒な女の子って、恋愛すると変化がもう目に見えて現れちゃうのよねー。なんか急に女っぽくなったし、フェロモンが出てる感じしたもの。ふたりで、これは進展したなって先月話してたんだからぁ」


先月といえば、確かに六車がつぐみを部屋に連れて帰った時期と一致している。


そんな事まで分かるのかと驚愕の思いですみれの顔を見返すと、にんまりと笑い返された。


「あ、当たりだー。やっぱりねー。若い二人なのに、慎重ねって話してたのよ。まあつぐみちゃんがあんな感じだから、色々難しいのかもねって」


もう何もかも図星を突いていて、二の句が継げない。


口元に手を当てて項垂れると、奥からプレートに載ったアツアツの白身魚のムニエルを持った津金がやって来た。


「やっと手に入れたと思ったら、思わぬ所で伏兵が潜んでたんだ?でも、自分がライバルじゃあどうしようもないね。彼女、うちの店にベタ惚れだしね。はい。お待たせー」


湯気の立つプレートを受け取って、六車は視線をすみれに向ける。


「ありがとう・・すみれさん、さっきのって本当?」


「え?さっきのって?」


「俺と居る時の顔って、油断してる?」


こんな事他人に訊くなんて思いもしなかった。


けれど、どこかでつぐみに関する何かを見落としていた気がする。


六車から真顔で尋ねられたすみれは、頬を赤くしてバシバシと六車の肩を遠慮なく叩いた。


「・・・やーあねえーこれだから若い子はー、もう!ちゃんとつぐみちゃんの事見てみなさいよ。今一番側にいるのは誰なのかしらー?」


「・・・ありがとう。頂きます」


「はい、ごゆっくりね。欲しいものあれば降りて来てね」


微笑む津金に見送られて、再びロフトに戻る。


と、ソファに手を突いて起き上がるつぐみと目が合った。


寝起きの気だるい雰囲気に、一瞬自分の部屋に彼女を招き入れていたような錯覚に陥る。


「起きた?」


さっきのすみれの言葉に動揺して、足音を気にしていなかったから起こしてしまったのかもしれない。


「んー・・・いつの間に寝てたんだろう・・・」


目元を指で擦ったつぐみが、アイシャドウの映った指先を見て、あ、化粧。と呟く。


それから、もう一度六車の顔を見た。


瞬きをして、ああそうかと納得したように頷いて、つぐみが唇を開く。


「・・壱成」


自分の名前が甘ったるく鼓膜を打った。


うわ・・・


すみれが言っていた事が、ストンと落ちて来た。


こういうことだ。


「あのさ、ここが何処だか分かる?」


「何言ってんの、分かるわよ、お店でしょ」


「まるで自分の家に居る時みたいによく寝てたけど」


「うん、すっごいよく寝れたわ。このブランケットは?」


「すみれさんか津金さんだろ。俺もさっき来た所だし」


「そっか・・・わー駄目だ、オーダーもしないで寝ちゃってた。申し訳ないことしたわ・・結構時間経ってるし、もう、壱成のせいよ」


「え、俺?」


「そーよ。待ってたのに」


不貞腐れるように言って、つぐみが再びソファに横になる。


ああ、これはもう完璧に油断している。


「・・待ってたんだ」


噛みしめるように呟いたら、クッションに頭を預けたつぐみが、視線を彷徨わせた。


それから消え入るような声で言う。


「違うから・・寝ぼけてんのよ・・今のは忘れて」


「なんで、忘れるわけないだろ」


「・・お腹空いたんだけど、それなに?」


「日替わりメニュー。一緒に食べるなら、隣空けてよ」


テーブルにプレートを載せると、赤い頬のままでつぐみがゆっくりと身体を起こした。

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