第35話 skip over

「雨あがって良かったわねー。気を付けて帰ってねーお二人さん」


ニヤニヤ顔のすみれと津金に見送られて、placideを後にする。


1時間ほど前まで降り続いていた雨は漸く止んでくれた。


折り畳み傘をカバンにしまいながらつぐみが照れ臭そうに軽く会釈する。


”もう帰る?”


”もうちょっと”


そんなやり取りを2度ほど繰り返しているうちに、閉店時間間際になっていた。


俺の部屋に来た時には”もうちょっと”なんて言った事無いくせに。


仕事が絡むとすぐこれだ。


いつものように胸に沸いた特有の嫉妬は飲み込んで、肩にカバンをかけ直したつぐみの手を先に捕まえる。


「綺麗に月が出てるよ」


六車の声につぐみがつま先に向けていた視線を空へと上げた。


雲が流れて綺麗な半月がぽっかりと浮かんでいる。


白っぽくてどこか儚げな印象を与える今夜の月は、梅雨の時期にしっくりと馴染んで映る。


ほのかに残る雨の匂いと、湿気を含んだ木々の香りを吸い込んでつぐみが深呼吸した。


「なんか色っぽい月」


視線は下げないままでつぐみがそんな風に言った。


彼女の口から出たとは思えない台詞だった。


けれど、確かに夜空を飾る幻想的な半月は、どこか艶めかしい。


「ああ、そっか・・うん、何て言うのか迷ったけど、そういう風に言うのがしっくり来るな」


「え?分かった?」


「うん、何となく分かるよ」


「・・・」


「何だよ・・複雑そうな顔になる理由が分かんないんだけど」


こういう価値観を分かち合えて嬉しいわ、とかにはならないわけ?


六車が目を眇める。


「分かって欲しいような、欲しくないような・・・」


「複雑なんだ」


「そうよ!」


ふん!と鼻息荒く一歩を踏み出したつぐみの手を軽く引いて、人通りの少ない深夜の街を並んで歩く。


最近はデートの帰り家まで送る事が当たり前になっていた。


つぐみの”大丈夫だから、慣れてる!”という言い訳も随分聞いていない。


大丈夫じゃないし、慣れてなんか欲しくない。


不規則な生活は承知のうえで、だからこそもういっそのこと一緒に暮らさない?と切り出したい処だが、言った所でつぐみが首を縦に振るわけがない。


彼女は自分の部屋を心の中同様に、とても大切にしている。


彼女が持つ不可侵領域のひとつだ。


無断で踏み込もうものなら弾かれるし、強引に入り込もうとすれば逃げられる。


だから、六車もつぐみが上がっていく?と言った時以外は部屋には行かない。


彼女の真ん中にある”ひとりの自分”という空間に、むやみに触れたらあっさりとつぐみが離れて行きそうな気がするからだ。


それでも最近は、つぐみが上がっていく?という回数が増えた。


仕事で行き詰っている時もあれば、極々たまに人恋しくなっている時もある。


そういう時に、真っ先に手を伸ばしてくれるのが嬉しい。


つぐみなりの歩み寄りなのだ。


「ああ、そういえば今日はヒール履いてるんだ」


そのせいでこうして並ぶとほぼ同じ目線になる。


指摘すればつぐみは嫌がるだろうが、唇を重ねるにはちょうど良い。


「どのタイミングで雨が降り出すか分からなかったから。ちょっと高さがあるやつじゃないと歩きにくいのよ」


足元を確かめるようにつぐみがつま先に視線を戻す。


飾りのないシンプルなパンプスは、梅雨の憂鬱な気分を跳ね返すようなビビットな赤。


残念ながら今日はくるぶしまでの細身のパンツなので、つぐみの美脚は拝めない。


すみれが店に着くなり、残念でしたー梅雨明け待ち遠しいわねぇ!と話しかけて来た時には何事かと思ったが、何のことは無い、つぐみの事だ。


梅雨入り宣言からこちら、つぐみはスカートを履いていない。


六車が履かせたがる脹脛で揺れるシフォンスカートもとんと見ていない。


雨で泥はねが気になるから、レインブーツ履くならパンツの方がいいから、と様々な理由を聞かされたが、どれも六車の納得いく答えではなかった。


すらりと伸びた白い脹脛から足首のライン。


余り肉付きが良いとは言えない太ももは、触れると驚くほどに柔らかい。


掌で辿ったのは2週間以上前の事だった。


つぐみの事だから”デートだからスカートで来て”と言っても、雨だから嫌、と言い返すに決まっている。


しかも六車が好きなスカートは泥はねの大敵の淡い色ばかりだ。


悔しさを誤魔化すように同じように夜空を見上げて、ふと隣を見たら、形の良い柔らかそうな唇が見えた。


ああ、そうだった、と自分で口にした言葉を思い出す。


一歩踏み出すと、あっさりと距離がゼロになった。


つぐみが大きく目を見開く。


俯こうとする彼女の顎を捕まえて留める。


持ち上げなくていいだけで、随分とキスがしやすい。


僅かに顔を傾けて唇を重ねる。


「っん!」


啄んだら、つぐみが短く声を漏らした。


目を閉じる余裕も無かったらしい。


「目、閉じて」


薄っすらと目を開けて促せば、愕然とした眼差しが返って来る。


此処外よ!何考えてんの!?


翻訳するならこんな所だろう。


だってしょうがない。


こっちは色々と身の内に降り積もる感情があるのだ。


愛情とか欲情とか。


平気な振りをしてやり過ごそうとした矢先に美味しそうな唇があったら噛り付きたくなるのは男の性だ。


「・・・つぐみ」


促すように呼びかけたら、思った以上に切羽詰まった声になった。


六車は迷うつぐみの頬を撫でて、もう一度キスをした。


上唇を2度、3度と啄んで、宥めるように顎を擽る。


「・・ふ・・・ぁ」


小さく漏らしたつぐみがゆっくりと唇を開いた。


緊張が解けて、強張りも解けたのだろう。


引き結ばれていた唇の僅かな隙間に侵入する。


熱い口内を弄って上顎を擽ったら、つぐみがぶるりと震えた。


後ろ足を引いて距離を取ろうとする腰を引き寄せる。


六車の掌が腰に回ると同時に、つぐみの舌がゆっくりと応えた。


「・・ん・・・っ」


熟した果実のように甘ったるい舌先を絡めとる。


苦しそうに息を漏らすつぐみの舌先を何度もなぞって確かめる。


六車の腕を掴むつぐみの指先にじわじわと力が加わった。


交わす吐息の熱が鼓動を見る間に早くしていく。


「んぅ・・・っん!」


ぬるりと舌裏を掠めた拍子につぐみが顎を逸らして、そのはずみで唇が解けた。


冷静でいたつもりだったが、つもりでしかなかったらしい。


息を吐く六車の目の前で、つぐみが今度こそ後ろ足を引いた。


ぱしゃん!!


コンマ数秒の後響いた水音に、つぐみが慌てて片足を上げる。


「っ!?」


六車の肩に手を突いて片足立ちのまま背後を振り返った。


「み・・水たまり・・」


「ああ、ごめん。気付かなかった。濡れてない?」


至近距離での問いかけに、つぐみがぱっと視線を逸らす。


「・・・うん・・防水加工だから・・」


六車から離れたつぐみが、背後にあった水たまりの中にそろそろと爪先を落とした。


「え・・・つぐみ?」


防水加工済みのパンプスとはいえ、靴に良いとは思えない。


困惑気味の六車を横目に、水面をついと爪先で辿りながら、つぐみが先ほどとは打って変わって冷静な表情になった。


「水たまりって、挑戦、なのよね」


「・・は?」


「この高さなら足が濡れないかな?とか、この角度なら靴に水が入らないかな?とか・・・だから、トウにもちょっと高さがあった方が、こういう時安心なの。うん・・・これは大丈夫・・・」


急に誇らしげな表情になったつぐみの横顔は、さっきの艶っぽい表情とはまるで違う。


けれど、今の彼女もやっぱり物凄く綺麗だと思った。


頬に残る赤みだけが、さっきのキスの証。


馬鹿みたいに夢中になった自分だけ、置いてけぼりにされたような気がしないでもないが、仕方ない。


仕掛けたのは自分だ。


しっぺ返しは堪えるよりほかにない。


パシャパシャと水面を辿っていた爪先をアスファルトに戻して、つぐみが六車に向き直る。


「ヒール履いてくれると、こういう利点があるんだけど」


「それは利点じゃないでしょう!?馬鹿じゃないの!?」


遠慮なしの力加減で六車の腕を叩いて、つぐみがさっきよりも足早に歩き始める。


流された自覚があるので、これ以上強くは出られないのだろう。


この間までの八月一日つぐみは、こんな所でキスされて、素直に応えてしまえるほど、従順でも、柔軟でも無かった筈だ。


彼女の中に着実に息づいている自分の影響が垣間見えて、六車が暗がりの中でほくそ笑んだ。


つぐみもその事を分かっていて、だから、余計何も言えないのだ。


カツカツとヒールを鳴らして路地裏を駅に向かうつぐみが、電柱の下で立ち止まった。


「壱成!」


振り向きざまに強い声で呼ばれる。


「なに?」


「・・・送って!」


placideを出て、つぐみの使っている駅に向かって歩いている今、敢えて口に出す必要はない筈だ。


でも、彼女は”送って”と言った。


明かりの弱い電柱の光の下で、つぐみが必死にこちらを睨み付けている。


そうしないと自分を保てない事は、誰よりつぐみ自身が分かっているのだ。


「・・いいよ。部屋寄っていい?」


「お、お茶飲むだけならね」


「さあ、それはどうだろう?つぐみ次第じゃない?」


「!?」


ぎょっとなったつぐみの手をもう一度捕まえて、六車は勝ち誇った笑みを浮かべた。


「ほら、帰るよ。電車無くなる」

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