第33話 その瞬間を
placideのドアを開けて中に入ると、すみれではなく夫の津金が厨房から出て迎えてくれた。
人柄がにじみ出たような穏やかな笑顔は、自分の部屋に戻ったような錯覚に陥る。
こういう人間を癒し系というんだろう。
そして、つぐみはどちらかといえば、こういう穏やかで見た目から包容力を感じられる男が好みの筈だ。
不愉快になる事間違いないので恋人に確かめた事なんて無いが。
自分が癒し系だなんてこれっぽちも思っていないが、ないものねだりをするつもりは無いし、癒し系に憧れてもいない。
負け惜しみでなく。
つぐみの好きな癒し系で且つ才能あふれるクリエイターが現れたら話は別だが。
彼女がファンだと豪語してやまない悸醍巧弥が、癒し系オーラを取得したら・・・警戒するかもしれない。
が、悸醍巧弥が学生時代から惚れ込んでいる美人妻は、癒し系の男に興味はないので、奴がキャラ変更する心配はまずない。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「女子二人でも十分姦しいよねぇ。あんまり楽しそうだから水差すのあれかと思ってさ、俺は淋しく店番」
階段の上に指差して津金が目を細める。
そういえばこの男も超がつくほど愛妻家だった。
知り合ってから一度も喧嘩している所を見た事のないおしどり夫婦だ。
「淋しくって・・・四六時中一緒にいられるでしょ・・」
朝から晩まで片時も離れる事のないふたりのくせに、ものの数分奥さんが見えないだけで大袈裟な・・と六車が肩を竦めた。
「ああ、ごめんねぇ。会いたくてもそう簡単に会えないんだもんね、きみたちのほうが淋しいよね」
わざとらしい笑顔を張り付けて見せた津金を軽くねめつける。
会えたとしても、向こうが別世界に閉じこもっている事もままある。
そういう相手だから好きになったわけだし、同じ状況に陥る自分もいるわけだから、文句なんて言えるわけもない。
一心不乱に色鉛筆を動かす彼女の横顔を眺めている時間も結構気にっているのだが。
「・・・淋しいって思ってくれてるんだか・・」
何となく階段の上に視線を向けて呟いたら、聞き洩らさなかった津金が憐れむような視線を向けて来た。
「愛情が対等になる事って殆どないからねぇ・・・」
「え、そうなの・・?」
「相手の気を引きたい時ほど、相手は別の事に夢中だったりするもんだよ。勿論、その逆もね」
何食べる?とメニュー表をカウンターで広げた津金の隣に並びながら、確かに思い当たるなと思ってしまうあたりがすでに自分の方が愛情過多だ。
つぐみから縋られた事も、離れたくないと泣きつかれた事も、淋しいと訴えられた事も・・ない。
付き合って間もないから、修羅場が無いのは当然だが、それでも会えない日の方が多いのに、その事につぐみは一切触れない。
仕事一筋で生きて来た彼女らしいとは思うし、理解はしているつもりだけれど、物足りなく感じてしまうのは、過去の恋愛と比較しているせいだ。
そういう対象を持たないつぐみだからこそ、恋愛において足踏みしている可能性は大いにあるが、突っ込み方を間違えて藪から蛇を出すような真似は避けたい。
まだまだ手探りの関係なのだ。
喧嘩も相互理解の一種とはいうものの、その理論がつぐみに通用する自信が、まだない。
「そういや腹減ってるんだった・・」
「あれ、お昼抜いた?」
「いや、作業中の片手間に取っただけ」
「じゃあ満腹になって貰わないと」
設計図を引きながら、会議の合間を縫っての昼食はコンビニのサンドイッチだった。
ここらでがっつり食べておきたい。
丼ものメニューをざっと見て、一番最初に目についたものを選んだ。
「ロコモコセットで・・・目玉焼き半熟で頼める?」
「勿論、いいよー。デザートは、後でふたりで決めた方がいいよね?」
「あー・・うん」
「了解、じゃあごゆっくり」
ポンと肩を叩かれて、階段をゆっくり上る。
きゃっきゃとはしゃぐ女子二人の声が一層大きくなった。
「最初にこの店に来た時、ドア開けた瞬間に広がった景色が、もう異空間で、街中にあるカフェだとは到底思えなくて・・雰囲気とか、店内に広がる色合いとか・・全部素敵だなって思ったんです」
「わー嬉しい!あんなバタバタの来店だったのに、一目惚れしてくれたのね!」
「一目惚れ・・そうですね、うん、そうかも。好きになるなって思ったし、居座ったらやっぱり好きになった。座って見上げる天窓とか、ロフト席から見下ろした店内の様子とか・・・どこに居ても、居心地がいいんですよね・・じわーっと好きが広がるっていうか・・・」
「雰囲気はね、とにかく重要視して作って貰ったのよ。おひとり様もカップルも、グループも集える、憩いの場にして貰おうと思って」
つぐみがこの店を居心地の良い店だと感じてる事は知っていた。
知ってはいたけれど、直接彼女の口から聞いたことは無いし、具体的にどんな風に思っているのかは分からなかった。
”好き”という感情を持っていてくれているだけでも十分すぎる程なのに、こんな風に言葉を連ねられるとどうして良いか分からなくなる。
中途半端に階段を上った所で立ち止まってしまった六車は、その場から動けない。
本人を目の前にして愛を告白されるよりも、数十倍愛情を感じて、照れ臭い。
感情の起伏が激しい方ではないと自覚しているのに、驚く位鼓動が早くなっている。
完全に頬は緩み切っているはずだ。
そんな六車の気持ちを知りもしないつぐみは、定位置のロフト席で楽しそうに会話を続けている。
「分かります!入ってみようかな、って思わせる雰囲気づくりはすっごく大切ですよね!実は、おひとり様あんまり得意じゃなくて・・カフェでもなかなか長居できないタイプなんですよ。でも、ここはどっしり腰を据えて寛げるんです。そこかしこに人の気配は感じられるのに、近すぎないんですよね。一人の空間もきちんと維持しつつ、ふっと気持ちを緩められる。微妙に視界が遮断される複雑な設計のせいかな・・・?なのに、狭くはなくって・・このロフト席も、斜め天井なのに窮屈じゃないし・・むしろ、この場所に物凄く特別な印象を受けるというか・・」
「ここは、後から追加で提案されたものでね。空き空間に遊び心を詰め込んだ、大人の隠れ家みたいな感じなの」
”大人の隠れ家”は、設計図を見せた時に津金が真っ先に口にした言葉だ。
その感覚に共感を覚えた。
「ああ!それ、まさにぴったりの表現ですね!」
「そうなの!だから、そういうの全部うまく纏めて形にしてくれた設計士さんには本当に感謝してるのよー」
うっとりと言ったすみれの言葉が言い終わる前に、覚悟を決めて階段を上る。
「それはどうも」
相変わらずの素っ気なさになったのは性分だからどうしようもない。
「え?」
六車の言葉に、つぐみが目を白黒させてすみれと六車を交互に見やる。
すみれはというと、さっきの津金そっくりのニヤニヤ顔を向けて来た。
夫婦が似て来るというのは本当らしい。
「あらー。設計士様、いらっしゃいませー」
「下で旦那さんが淋しがってましたよ」
「うふふー話し込んじゃったぁ。ごめんねーじゃあ、ごゆっくりー」
踊るように階段を下りいくすみれの背中に向かって、つぐみが困惑顔で手を伸ばす。
「え、ちょっと、すみれさ・・」
その手を掴んで隣にどかりと腰を下ろした。
あっさりすみれを引き留めようとするつぐみの心情に、少なからず苛立ちを覚えた。
どっちが邪魔者だと言いたくなる。
「すみれさんに縋ってどうすんだよ、正解はこっちじゃない?」
「・・・あ」
「お褒めにあずかり光栄です」
握った指先を口元に引き寄せる。
爪の先を唇で啄むと、びくんとつぐみが震えた。
こういう反応も相変わらずだ。
彼女にとっては馴染みのないものだから、その表情も納得は出来る。
嬉しいか嬉しくないかは別として。
「そんなにこの店気に入ってくれてたんだ」
顔を覗き込んだら、つぐみがこくんと頷いた。
もっと渋るかと思ったのに、さっきとは打って変わった素直すぎる反応に少し戸惑う。
「うん・・だって、あんたすっごい愛情詰め込んだでしょう?楽しくて穏やかな気持ち、全部ここに置いてくるつもりだったんだよね?」
「・・・」
今度は六車が黙り込む番だった。
天井を見上げて目を細めたつぐみが口元を綻ばせる。
「息苦しさがね、ここに来ると無くなる。深呼吸を思い出す。あたしはここが好き、すっごい、好き」
噛みしめるように、大切な事を伝えるように、区切りながら言ったつぐみの言葉が、じんわりと胸に沁みた。
「・・・ありがとう」
小さく返した六車を見つめ返して、つぐみが照れ臭そうに笑う。
「やだ、あんたも照れるのね」
「煩いよ」
これ以上無駄口を叩かせない為に、身を乗り出してつぐみの唇を塞ぎにかかる。
驚いて身を捩るつぐみを抱きしめながら、理屈は抜きにして、ただただ彼女の事を好きだと思った。
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