第32話 primary

「あらーいらっしゃいませー」


店を入ると受付レジに立っていたすみれが笑顔で手を振ってくれた。


六車の連れだから、この気安さなのかと思うと何だか複雑な気持ちになる。


それでも笑顔を返して、今日は待ち合わせなんです、と告げると、すみれがキランと目を輝かせた。


「え、待ち合わせ?お仕事じゃないわよねー?」


「えっと・・あの、はい、プライベートで」


「そう、プライベートで!!勿論相手は、六車くんよねえ?」


「は・・はい・・」


「うふふふ、良かった、そうなの、そうなのねー!」


ひとりでうんうん頷いて、ロフト席を指差す。


「特等席へどうぞー」


「あの・・いいんですか?」


この店が、六車の設計だと知らなかった頃は、ただただ素敵な空間だと素直に感動できたけれど、彼の思い入れや意図を知ってからは、何だかこの店自体が特別な空間に思えて来る。


特にロフト席は、ほぼ六車の指定席のようになっていて、彼がいる間は、津金夫妻も他の客を上には上げない。


そんな場所だから、当たり前のように階段を上るわけにはいかない気がした。


躊躇うつぐみを見つめて、すみれが目を丸くする。


「いいってなにが?」


「あの、あたしが上がっても・・・」


恋愛経験乏しいつぐみには、世間一般の彼氏彼女がどの程度お互いの空間を共有しているのかさっぱりわからない。


ただ、理解できるのは、この場所はつぐみにとっての仕事場と同じくらい、神聖で大切な隠れ家のような場所だという事。


そんな場所に、六車は適当な人間を連れて来ないだろうという事。


同時に浮かんできた疑問は、自分はこの階段を上る価値のある人間なのかという事。


正直、あたしだったらあの職場に彼が来ると落ち着かない。


慣れていないというのも勿論だし、あそこは自分のパーソナルスペースと同じ意味を持っているので、六車含め、他の誰とも共有したくないというのが正しい。


そんな自分なので、尚更ロフト席に向かうのが躊躇われる。


迷うようにすみれを見下ろすとすみれが、にかっと満面の笑みを浮かべた。


「大丈夫だいじょうぶー!」


「え、ほんとですか!?すみれさん、勢いだけで言ってませんか?」


「あらやだ、ほんとの事よー?だってね、前に六車くんが一人でここに来た時、つぐみちゃんが来たら、上にあげてやって欲しいって言ってたもの」


「え!?」


全くの初耳だった。


思えば、付き合うようになってから初めての、仕事抜きでの待ち合わせだ。


六車が普段この店で津金夫妻とどんな風に過ごしているのかつぐみは知らない。


親しげに話す彼らの様子を見ると、六車が心を許しているのは分かる。


仕事で関わる人間とは、一定の距離感を保ち続ける彼が、気安く打ち解けて接す人間は珍しい。


彼は付き合う人間を綺麗に区別するタイプだ。


そんな六車が、つぐみをロフト席に案内するように話していた。


それは、つまり・・・


思わず頬を押さえて俯いてしまう。


「あらー告白されたみたいになっちゃったあ」


「え、ちがっ・・・」


違わない。


どんな情熱的な台詞を並べられるより、ずっと説得力がある。


六車は、自分のパーソナルスペースに、つぐみを招き入れる事を決めた。


自分の内側に、迎え入れると示したのだ。


あの人は、簡単にこの場所を明かさない。


ひとりの空間がこの上なく大切なつぐみだから、その気持ちは痛い位理解できる。


誰にも害されず、誰にも踏み込まなくてすむ世界。


同じように自分の内側を曝け出せと言われたら、つぐみは躊躇してしまう。


それが、向き合うと決めた六車相手であっても。


自信も度胸もない自分の内面を、ほんの少しでも露にしてしまう場所に、他人を迎えるなんて考えられない。


臆病と言われても、この価値観は変えられない。


「あなたなら、きっとそうなるだろうと思ってたのよ。これは女の勘だけど、主人も同じこと言ってたわ。あなたたちふたりって、違うけどどこか似てるのよね。だから、ここへ来ることの意味も、あの席に座る事の意味も、ちゃんと分かるでしょう?六車くんは、ちょっと捻くれてるけど、人を見る目は確かなの。偽物を連れてこの店には絶対に来ない。あなたは間違いなくホンモノね。六車くんが、女の子を連れてうちの店に来るなんて、想像してなかったから、すっごく嬉しいの。彼は、自分が作るものも、あなたと共有したいのね」


「・・あ、あたし・・これって、彼女ってことですよね?」


「そうよー。お飾りじゃない、本物の恋人よー。胸張りなさいよう。あんないい男、なかなかお目に掛かれないわよーうふふ」


パシンと背中を叩かれてゆっくり階段を上る。


何度も目にしたロフト席の光景が、いつもと違って見えた。



「付き合う事になったんだね、おめでとう。すみれが物凄く喜んでたよ」


六車が到着した後で、注文を取りに来た津金が楽しそうにつぐみと六車の顔を交互に眺める。


これはおめでたいのか、そうなのか?と首を傾げたくなるが、不幸な事ではないのでそうなんだろう、と納得する。


「あ・・はい・・」


「六車くんもとうとう彼女持ちかー・・いやー感慨深いな」


「彼女・・」


改めて言われると、ずしんと重たく響く。


「なんで神妙な顔なわけ?」


訝し気な顔で、六車がベーグルサンドとオニオンポテトのセットを頼んだ。


「噛みしめてるのよ!」


さっきのすみれとの会話も相まって、何だか適当に流してはいけない気がするのだ。


真顔で返したつぐみに、六車がばつが悪そうに視線を逸らす。


「・・・あ・・そう」


素っ気ない物言いにカチンと来たけれど、言い返す前に津金が笑いを堪えた顔で口を挟んだ。


「・・・えーっと、つぐみちゃんは何にする?」


「あ、えっと・・蒸し鶏のサンドイッチとクラムチャウダーで」


「了解。なんか、邪魔しちゃって悪かったね。六車くんが仏頂面になる時は、照れてるだけだから、心配しなくていいよ」


安心させるようにつぐみに向かって笑いかけた津金が立ち上がる。


「津金さん!」


六車の剣のある声に動じる事もなく、津金は悠々と階段を下りて行った。


照れてる・・・照れてる・・?


「照れてるの?」


「そこで確認するの?俺にやり返される事承知で訊いてる?」


ソファに深く凭れていた六車が、身体を起こす。


嫌な予感がして隣の一人掛けの椅子に移ろうとしたら、先に手を掴まれた。


ソファ席のすぐ隣には、一人掛けの大きめの椅子も置かれているし、座る場所には困らない。


これから食事をするのだから、わざわざつぐみの隣に腰掛ける必要なんてないのだ。


当たり前のように六車が隣に座るから、疑問に思いもしなかったけれど。


注文を取りに来た津金が、最初からニヤニヤしていたのはこのせいだ。


ちゃっかりつぐみの隣に陣取った六車の行動がおかしかったのだ。


「ご飯食べるんだから、テーブル席の方がよくない?」


「下手くそな逃げ文句には乗ってやらないよ」


絡めた指を確かめるように、手の甲を撫でた六車が憮然と言い放つ。


自分の身長が高いせいか、普段はそう感じないのに、こうして指を掴まれると、節ばった彼の指が自分のそれとはあまりに違いすぎて驚く。


ちゃんと、男の人の手だ。


手首に向かって撫で上げる親指を見つめていたら、落ち着かない気分になった。


どうしようかと迷っていると、俯いた頬に吐息を感じた。


怯んだ瞬間に髪がかき上げられる。


掠めた唇がそのまま耳たぶまでを辿った。


息を詰めると、触れていた指先が離れる。


距離を取ろうとひじ掛けに手を突いたら、背中から回された腕が腰を引き寄せた。


さらに近づいた距離に、つぐみが身を竦ませる。


こちらの緊張を知っていながら六車は姿勢を変えない。


さっきの台詞は予告だったのだ。


「っ・・離して」


「嫌だ・・・つぐみ、こっち向いて」


「・・・それこそ嫌よ」


視線を合わせれば降って来るのは唇だと確信が持てた。


つぐみの返事に、六車が苛立ちを露にする。


「なんで?」


「なんでって・・だって、ここは」


津金の店で、六車の大切な空間だ。


そういう場所で、こんな風になるのは良くない気がする。


「俺の気に入ってる場所だから、俺の気に入ってるモノしか入れないようにしてる」


「だから、尚更」


「今のが答えだけど、まだ納得できない?」


困惑顔のつぐみの顔を除きこんだ六車が、揃えた指の背で頬を優しく撫でる。


納得は、出来たと思う。


けれど、感情は付いて行かない。


柔らかな間接照明の下で、つぐみの顔を伺う六車の視線は、どこか甘い。


頷いたらどうなるのかなんて、考えるまでもない。


開きかけた唇を引き結んで、視線を下げた。


途端、六車の掌が首筋を撫でる。


「え・・なに・・」


「分かってくれてよかった」


安堵の言葉と共に顎を掬い上げられた。


そのまま引き寄せられる。


「へ・・・っ・・・ん」


振れた唇を僅かにずらして、二度啄んだ後で緩んだ唇を解いて六車の舌が忍び込んで来た。


慎重に探るようなキスは、つぐみの反応を伺っているからだ。


柔らかくて甘やかな熱が心をじわじわと蝕んでいく。


堪えようと目を閉じるけれど、蕩けていく思考回路はもうどうしようもない。


特別な場所でする初めてのキスだと思うと、もう駄目だった。


つぐみの二の腕を宥めるように撫でて、六車が少しキスを深くした。

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