第31話 ふたり時間

進もうとしては躊躇って、その度に勇気を振り絞るものの、どうしても動けずに時計の針は12時を越えた。


離れた場所から聞こえて来たのは、溜め息だ。


わかってるわよ、呆れてるんでしょ。


「つぐみー」


「なに!」


「いつまでそうしてるつもりー?」


「いいから先に寝てよ!」


「・・それ、本気で言ってるの?」


ほら見ろ、不機嫌な声が返ってきた。


「残業続きで疲れてるんでしょ?あたしに構わずに、どうぞおやすみください」


「なにそれ。冗談だろ?笑わせたいならもうちょっと面白い事言ってよ」


「ほ、本気よ!」


恋人とふたりきりの深夜にこの可愛げゼロのやり取りは、自分でもどうかと思うけど。


それがあたしだ、文句あるか!


と開き直ってしまう。


うつ伏せでベッドに寝転んだ六車が、つぐみに向かっておいでと手招きした。


そんな事されたって行けるわけない。


「恐くないから、ほら、おいでって」


「猫の子みたいに呼ばないで!」


「だってあんたどー見たって猫だもん。犬だったらとっくに俺の側に来てるだろ」


属性でいえば猫、なのかもしれない。


でも、自分が気に入った人間には尻尾を振る習性も備わっている、はずだ。


多分。


けれど、六車と付き合い始めてからこちら、つぐみが犬属性になれた事は、残念ながら一度も無い。


「今更警戒してどーすんの?ここは俺の部屋だし、そろそろ観念したら?」


ご意見ごもっとも。


自らの意思でここに来たし、所謂お泊まりグッズも自分で準備した。


だからこそ余計に恥ずかしいし、戸惑うのだ。


恋愛経験値の低い大人女子の心の機微なんて、あんたには一生理解出来ないでしょうね。


こっちの緊張を余所に、入浴シーンの後あっさりベッドに入った六車は、すぐにつぐみもやって来ると思っていたらしい。


そんな簡単に出来たら、今のあたしはこうなってない。


さっきから感じるいつもより甘い視線とか、置き去りのままのスマホが、さらに緊張を煽る。


六車は待っているのだ、つぐみが自分の意思でベッドに入るのを。


半乾きの髪を無造作にかきあげて、六車が流し目をこちらに向けた。


だから、そういうのをやめて欲しいのよ!


咄嗟に視線を外したものの、みるみる頬は火照り出す。


「つぐみ」


僅かに掠れた低い声は、初めての夜を思い出す。


胸が焦げたように熱くなる。


「呼ばないで」


息苦しさを覚えて胸を押さえた。


こんなことで動揺するなんて、恋って本当に病だ。


填まるほど苦しくなっていく。


「なんで?ふたりきりなのに」


溺れているなんて思いたくない。


掌の上で恋するなんて絶対嫌だ。


「だから、今は・・」


いつだって自分の事は自分で決めてきた。


自分の事は自分でどうにか出来てきたのに。


こればっかりはどうしようも無い。


この熱は自分じゃ下げられない。


ベッドが軋んで、六車が床に降りた。


二歩でつぐみの前までたどり着く。


しゃがみ込んだ六車が、子供みたいに膝を抱えるつぐみの身体を抱きしめた。


「やだ」


「抱きしめた瞬間に言われると傷つくんですけど」


しょげた声が耳元でして、つぐみは咄嗟に六車の背中に腕を回した。


嫌なのは、あたしの・・


「え、あ、ごめ・・んぅ」


謝罪の途中で唇を塞がれる。


上唇を舐めた舌が、するりと隙間から忍び込んできた。


応えなきゃ、と焦るつぐみをからかうように、器用に動いた舌先が上顎をくすぐる。


ぞくりと背筋が震えた。


「っ・・ん・・っ」


耳たぶを撫でた指が顎に降りて、俯く顔を固定する。


歯列をなぞった舌が震えるつぐみの舌を捕まえた。


「は・・っん」


逃げる度追いかけてくる六車に、白旗を上げて大人しくなったつぐみの口内を好き勝手弄った後で、今度は下唇を吸ってから六車が離れた。


絡めた舌が解けて、息を吸うとその数秒後に身体が浮いた。


身体の何処にも力が入らない。


六車が、そうさせたのだ。


悲鳴を上げる暇も無かった。


がくんと揺れた身体が、すぐに柔らかいベッドに沈められる。


いつの間に六車はつぐみの扱いを覚えたんだろう。


ふぅっと息を吐いた六車が、つぐみの髪を撫でた。


揺れる視線、心も揺れる。


「最初からこうしとけばよかったんだな」


質問では無い、独り言だ。


六車がシーツの上に肘をついた。


距離が一気に詰まる。


整った顔が間近に迫って、唇がつぐみの睫毛に触れた。


「っ!」


「今から息止めてたらすぐに酸欠になると思うけど?」


「だ、って・・ん・・っ」


唇を挟まれた。


啄んだ六車が甘いリップ音と共にキスを解いた。



「いま、何考えてる?」


つぐみを見下ろした六車が尋ねた。


その瞳に宿る熱情を、今は知らないふりでいたい。


瞬きしたつぐみに覆い被さって、耳たぶを甘噛みする。


これは分かる、答えるまでやめないやつだわ。


だんまりで逃げる道を塞がれてしまった。


「か、考える・・余裕、なんか、な・・い」


六車の指が戯れに首筋を撫でて、顎を擽る。


触れた肌から熱が生まれて心を焦がす。


受けた刺激を整理して理解する前に、次の波に襲われてしまう。


前に抱かれたのはひと月近く前の事だ。


今よりもっと余裕がなくて、いっぱいいっぱいだった。


何をどうして、どうされたかなんて・・


覚えてる!!!


断片的に残った記憶がつぐみの頭でリプレイを始める。


指を絡めた後、六車の唇は次に何処に落ちた?


つぐみの上げた甘い声に、とろんと笑った彼は・・・


”あー・・・今ので完全にスイッチ入った”


と後戻りしません宣言をしたのだ。


その後は、もう・・・


思い出しただけで死にそうになる。


度胸だけじゃだめだ、勢いがないと、あんなこと出来ない。


そして、今のあたしには勢いがない!!!


何度も髪を梳いた指を、つぐみの強張った掌に移動させた六車が、そっと閉じた指を開いていく。


握りしめていたせいで、じんわり汗を掻いていた。


「あのさ、頭空っぽにして、俺のことだけ見ててよ。あんたの大好きなひとりの世界に行かないで 」


「そんな・・・」


自分だけで完結できる世界は、つぐみには必要不可欠だ。


あの世界があるから、自分はクリエイターでいられる。


でも、六車と触れ合っている時に、そんな風に思った事は一度もなかった。


「ちゃんと見てるって?」


「う・・うん」


「ほんとかなぁ・・・すぐ視線逸らすくせに・・」


溜息と共に爪の先を舐められた。


びくんと肩を震わせて、つぐみが顔を背ける。


あ・・・しまった。


「ほら、ちゃんと俺の事見て、受け入れてよ」


「う、受け入れてるわよ!・・・受け入れたし・・」


自分で言って恥ずかしくなって来た。


でも事実だ。


あの夜、間違いなくつぐみは六車に抱かれて、ひとつの壁を越えた。


二人の間にあったボーダーラインが、随分薄くなったと、確かに感じられた。


痛みも、熱も、心地よさも、気が遠くなるような快感も。


壱成とだから、したいって、思ったのに。


「うん、確かに・・・あの日もこうやって・・」


「っ・・は・・んっ」


喉を擽った指が胸元に落ちる。


するりと撫でてすぐに離れてしまった掌に、若干の寂しさを覚えた自分の身体に愕然とした。


たった一度の行為で、そんな風に変化するなんて、夢にも思わなかった。


「ちゃんと・・・俺の事受け入れてくれたけど」


しっかり指を絡めた六車が、つぐみの眉間の皺を優しく撫でる。


ああ、困った顔をしているのか、と漸く気付いた。


二人きりの部屋で、静かな夜を迎えた幸せいっぱいのカップルに、眉間の皺は必要ない。


「今の方が、難しい顔してるのは何で?」


「そ、それは・・・」


一度知ってしまったから、冷静な状況で、もう一度挑むのが怖いのだ。


あれは勢いだった、ほぼ全部勢いだけで飛び込んだ。


それを六車も分かっていたから、一度も手を止めなかった。


だから、今夜もそうしてくれればいいのに。


「なんで、今日に限って待つのよ・・」


「ええ?」


「こ、この間みたいに・・してくれたら・・・あたしも」


「怖気づかないでいいのにって?」


瞼にキスを落とした六車が、溜め息を零した。


「馬鹿だね、あんたは」


「だって・・そうでもしなきゃ」


いつまで経ってもここから動けない。


今度は冷静な自分の意思で彼の腕に飛び込むのだと思うと、躊躇いの方が大きくなる。


「二度目だから、ちゃんとゆっくり確かめたいの」


耳たぶを甘噛みした六車が、そのまま唇を耳朶に這わせる。


「俺だって、それなりに期待して待ってたんだよ」


拗ねたような口調は、六車の本音が透けて見えるようだった。


「ご・・めん」


彼がベッドに入ってからかれこれ1時間以上が経過している。


悶々としていたのはつぐみだけではなかったのだ。


つるりと舌先を耳に忍び込ませた六車の吐息と水音で、つぐみの身体が大きく跳ねた。


それを抑え込んで、六車が呟く。


「緊張も、戸惑いもいいけどさ・・・そういうのは俺の腕の中でやってくれる?」


抱きしめられた腕の中は暖かくて、心地よい。


「っは、い」


びっくりする位弱弱しい返事だった。


ゆっくり呼吸すると、少しだけ気持ちが落ち着く。


つぐみの頬にキスをして、六車が窘めるように言った。


「後、もう一個。ひとりで怖気づかないでよ。


ふたりでいるんだから」

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