第30話 春告草

公園の横を歩くつぐみが、急に足を止めた。


怪訝な顔をする六車を他所に、目を閉じて深呼吸をする。


それから、目を開けてきょろきょろとあたりを見回して、ぱっと表情を明るくした。


その間30秒。


いったい何に気付いたというんだろう。


「いきなりなに?どうしたの?」


「え?わからない?」


嬉しそうに微笑んだつぐみの横顔が、いつになく上機嫌で、しかもその原因がどう考えても自分ではない。


なんだかあまり面白くない状況だ。


仕事帰り、いつものようにplacideで待ち合わせて、夕飯を共にした。


今抱えている仕事の報告や、店の売り上げなんかをしながら、最近浮かんだアイデアなんかも織り交ぜて、取り留めのない話をした。


新店の売り上げは順調で、もう一年様子を見て、さらに新店舗の出店も考えようと次郎丸から打診を受けたらしい。


つぐみが一から自分で始めた企画だ。


努力の成果がこうして目に見える形で表れて、それを申し分なく評価されて、つぐみの中に確実に自信が積み上がりつつある。


設計のアイデアは、インスピレーションで閃く場合もあるが、大抵は経験の積み重ねだ。


それはつぐみも同じようで、自分が描いて生み出してきた靴の歴史の中から、様々なデータをもとに、新たな一足が生まれるらしい。


培ってきたものは、必ず糧になるのだ。


体調が悪かったり、寝不足が続くと、大抵つぐみはスランプに陥る。


どんなに調子が良くなくても、必ずスケッチブックを一日一回は開けて、何かを描くという事を決めている彼女は、熱があろうと、二日酔いだろうと、ベッドの上でもページを捲り、色鉛筆を握る。


デタラメな落書きを乱暴に塗りつぶした絵や、独り言のような短い文章が並ぶ時もある。


スケッチブックはつぐみのもう一つの心だ。


彼女の心情をありのまま表してくれる。


走り書きの単語に、つぐみを紐解くヒントが隠れていたりして、彼女が夢中に描いている横で、それを時々盗み見するのが、六車の楽しみでもある。


きっと今、つぐみにスケッチブックと色鉛筆を渡せば、あっという間にひとりの世界に閉じこもってしまうだろう。


急に図面を引きたくなる時が六車にもある。


頭の中に緻密な画が浮かんで、それをなぞるようにすらすらと手が動くのだ。


まるで魔法のように。


たぶん、ああいう状態なんだろう。


つぐみの目は六車を見ているけれど、見ていない。


六車の向こうにある別の何かを見つめている。


そしてそれは、六車には決して見えない。


少し遠い場所にあるつぐみの世界に、どうしたって入ってはいけないし、そこは、つぐみだけの場所だ。


これから先、どれだけ長い時間ふたりで過ごしたとしても、永遠に辿り着けない秘密の空間。


そういう場所はきっと誰の中にもあって、つぐみのそれが、人より大きくて、彼女の中で占める割合が多いだけの事だ。


デート中も、こうしてどこかにトリップしてしまうつぐみの扱いにも慣れて来た。


何かを生み出すという事は、物凄くエネルギーが要るし、集中力も必要になるから、つぐみが黙りこむと、六車はそれ以上話しかけない。


つぐみ程ではないけれど、六車も同じように黙り込むことがあるからだ。


そっと静観して、つぐみがこちらに戻って来るのを大人しく待つ。


ここではない世界に思いを馳せている時のつぐみの横顔は、誰の視線も気にしない、凛とした強さを秘めている。


彼女の中で目まぐるしく動いている発想のかけらが、少しずつ結びついて、形になって、つぐみの指先から生まれていく。


紙が手元にない時は、黙り込む時間が長くなる。


記憶に留めておくために、きっと何度も反復しているんだろう。


そして、そういう時のつぐみは大抵早足になる。


今日のつぐみはどうなんだろう?と六車が視線を向けていると、つぐみが公園の中を指差した。


「梅の花、匂いするでしょ?」


「え?」


「ほら、ほのかに甘くて、酸っぱい・・」


言われてみれば、夜の風に紛れて微かに花の匂いがするような気がする。


けれど、これが梅の花かなんてわからない。


つぐみは絶対の自信を持っているようで、さくさくと公園の中に入って行ってしまう。


当然、さっきまで繋いでいた手はほどかれてしまった。


こうなった時のつぐみは強い。


六車が居ても居なくても、彼女の行動は変わらない。


離れたくなければ、ついて行くほかない。


午後10時前の公園は、当然の事ながら無人だった。


酔っ払いや、浮浪者がいたら面倒だなと思ったが、杞憂に終わって、六車はホッとした。


「ほら、あった!」


目当ての梅の花を見つけたつぐみが、はしゃいだ声を上げる。


ほのかに色づいた淡い花びらが月明りに照らされていた。


「よく気付いたね、梅好きなの?」


「花の種類を調べていた時期があったのよ。やっぱり桜の方が華やかだし、人気もあるから、梅はお蔵入りしちゃったんだけど・・・匂いが強いのは野梅性だって、本で読んだわ。控えめだけど、実も食べられるし、香りもいいし、相対的に見たら、全然桜に引けを取らないんじゃないかって、最近は思ってるの。だってね、春を告げる花だから!梅が咲いて、桃が咲いて、桜が咲くのよ。始まりの花って思ったら、凄く好きになったの。最初の一歩って、不安だし、怖いでしょ?でも、肌寒い季節の中で、小さくてもしっかり花開いて新しい季節を呼ぶんだなあって・・・華やかに女性を彩るコンセプトでアメリアを推してきたけど、違うアプローチもアリかもしれない。目立たなくても、しっかりそこに存在を示す、静かな女性、ちょっと上の年齢層をターゲットにしたらいいのかな・・・色味は押さえて・・ベーシックラインで・・」


梅を見上げて語るつぐみの言葉は、ほぼ全てが胸の内にある仕事モードの自分への問いかけだ。


サクヤラインは、桜をイメージして展開したブランドだ。


コノハナノサクヤヒメは、日本神話の女神で、桜の花のように美しく咲き誇る女性に向けた商品展開だと聞いている。


つぐみが饒舌に語るのは、やはり仕事の事が多い。


自分がデザインした靴のコンセプトや、そのデザインを起こすまでのアイデアの羅列、参考にしたアイテムや景色など。


自分の中にあるものに関しては、いくらでも語れる彼女だが、いざ自分自身の事になると、面白い位に言葉数が減る。


話したくないのではなく、話せないのだ。


自分の何について話せば、相手が喜ぶか分からなくて、だからいつも黙り込む。


六車はつぐみの内側に秘めている柔らかい独特の世界が好きだし、愛している。


彼女を構成する最重要器官だとも思っている。


自分というフィルターを通して、感じたり見たりしたもので、新しい何かを生み出す事に彼女は人生の大半を注いで生きている、稀有な存在だ。


だから夢中になると他の事が手に付かなくなるし、他人の機微を測る事が面倒になって、距離を置く。


つぐみにとってひとりの世界は、たぶん一番安全で、安心なんだろう。


誰もつぐみを傷つけないし、誰の事も不快にしない。


その世界から、一歩踏み出した場所に、六車との世界がある。


今、つぐみがそらで描いている世界には触れないし、六車はかけらも存在しない。


けれど、こうして隣に居て、多少面白くは無くても、彼女の横顔を眺めている事に、幸せを感じられる自分がいる。


それは、俺も、きっと同じ種類の人間だからだ。


つぐみはひとりの世界に閉じこもるけれど、扉を閉ざしてはいない。


そう確信が持てるから、黙って梅の花を見上げていられる。


次はどんなデザインを目覚めさせるんだろう、どんな女の子を幸せにするんだろう。


彼女の描く靴は、間違いなくあまたの女性を幸せにしている。


「ラメじゃなくて、パール、ツィード、艶消し・・・ストラップ・・・カッティングは浅めで、でも歩きやすくて・・・春だから、新しい、始まりの・・・んー・・・」


黙り込んだつぐみが、視線を足元に下ろした。


そして、隣を見て、あ、と声を上げる。


漸く六車の存在を思い出したらしい。


「ねえ、壱成!」


急に呼びかけられて、梅の花からつぐみへと視線を戻す。


ああ、良かった、今度はちゃんと俺のこと見てる。


視線がきちんと絡み合う。


希望と、期待に満ちた、強い眼差し。


これは完全にスイッチが入った表情だ。


「なに?」


「ペールピンク!」


いきなり飛び出した色の名前に、六車は吹きだした。


ああ、そこで俺の存在を思い出すところがあんたらしいっていうか、なんていうか。


「可愛い感じの色だよね、梅の色彩をイメージするなら、淡いのは、シャンパンピンクとかどう?」


「マリアンヌピンク」


つぐみが目を閉じて息を吸う。


今頃彼女の頭の中で、ペールピンクと、シャンパンピンクが混ざり合っている筈だ。


「うん、じゃあ、紅梅はカメリア」


「あ、その色好きよ、パキっとした色味で、肌馴染みもいいし。ストロベリーソーダ」


「スパニッシュローズ」


だんだんしりとりみたいになってきた。


つぐみがクスクス幸せそうに笑う。


「フィエスタローズ」


こういう時間は、きっと他の誰とも分かち合えない。


繋いだ色の数だけ、つぐみと六車の距離は近くなる。


混ざり合ったピンクは、春を呼ぶ鮮やかな色。


「楽しい?」


静かに尋ねた六車に、つぐみが極上の笑みを返した。

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