第25話 さびしんぼ
「え、研修旅行?」
六車の口から飛び出した単語をおうむ返しに投げ返して、つぐみが身を乗り出した。
第二の我が家といっても過言ではない、placideの指定席。
テーブル席で向かい合って作業に没頭していた手を止めて、六車がつぐみと久しぶりに視線を交わした。
「そう、最近話題の建築家が設計した図書館とかをめぐって来る」
さっき大型書店の写真集コーナーで吟味して選んだ、北欧建築の特集本を持ち上げる。
今日も、本屋の入り口で”じゃあ、あとで”と別れた。
ぐるりと店内を物色して最終的にどこかのコーナーでぶつかる事になる。
それぞれの戦利品を自宅かこの店で広げて見せあうのがお決まりになっていた。
「へー!いいわね、それ。楽しそう!いつから行くの?」
「来週頭から、1週間。海外だから時差あるよ。しばらく連絡出来ないかも」
建材の取引のある現地の会社のレセプションにも顔を出す予定なので、新しい刺激を得られると思うと楽しみでもある。
けれど、付き合って初めて、1週間も国外に行くとなると、少なからず気がかりは出てくる。
連絡がつかない!と、つぐみが躍起になる前に、先手を打ったのは、相手の出方が分からなかったからだ。
六車がこれまで付き合いを重ねて来た女性たちは、皆一様にマメな連絡を欲しがった。
一週間も海外に行くと告げれば、大げさな位寂しがったものだ。
つぐみの性格を考えればそこまで大げさな反応はしないだろうと予測できた。
無表情を装いながら、つぐみの様子を伺っている六車の前で、つぐみはあっさりと頷いて見せた。
「そっか、分かった。微妙な時間に連絡しても悪いから、控えるようにするね」
「・・・」
明日帰りが遅いです、あ、そう。位のノリで返された。
唖然と固まる六車をよそに、つぐみが席を立って手を伸ばす。
「壱成、さっき買った写真集見せて、どんなところ見て回るのか気になる」
手にしたままの写真集を指差されて、六車は慌てて我に返った。
淡泊な方だと思っていたし、恋愛事に慣れていないのも分かっていた。
分かっていたけれど、あまりにもあっさりしすぎではないか?
ふつふつと湧いてくる不満の芽。
あっという間胸の奥を埋め尽くす苛立ち。
「あ、ああ・・・」
差し出しかけた雑誌を引っ込めて、こちらに伸ばされたつぐみの白い手首をつかむ。
「え・・写真・・」
しっかり握られた手首を見下ろして、つぐみが怪訝な顔になる。
「いいから、こっち来て」
素っ気なく言い放って立ち上がると、そのままつぐみの腕を引っ張ってソファへと移動した。
「一緒に見るのもいいけど、あたし見るの遅いわよ?」
つぐみは建築物に描かれた緻密な模様や、優美な曲線、複雑な色使いに惹かれる。
六車は全体的な建築の美しさ、図面構成に興味を持つ。
同じものを見ていても、焦点が全く違う。
どうせなら自分のペースでじっくり見たいと思っていたつぐみは、並んで腰かけた六車の眉間に皺が寄っている事なんて知りもしない。
わざと背後に写真集を隠して、六車がつぐみの手首を解いた。
代わりに、身体を起こしてつぐみの腰に腕を回す。
ただ並んで座るよりずっと近づいた距離に、つぐみ瞬きをして表情を硬くする。
こういう雰囲気に慣れていない事も承知で、けれど今日はそんな彼女の気持ちを汲んでやれる余裕がなかった。
覗き込んだ瞳の奥で、つぐみが僅かな不安を見せる。
「俺と、一週間連絡取れなくても平気?」
「・・・だって・・海外だし・・・浮気しに行くわけじゃないでしょ?」
「俺に絶大な信頼を置いてるんだ、あんたは」
少しの不安もない位に、つぐみは信用してくれている。
それは、俺に対してのものなのか。
そこまでつぐみが俺に心を開いていない故の自信なのか。
ふいに浮かんだ疑問がゼロとは言い切れない自分に腹が立つ。
「え・・違うの!?なに、海外で女の子引っ掛けるつもり!?」
「そんなわけないだろ」
どんなに頑張ったって、今の状況では、つぐみの中の3割を占めるのが精一杯だ。
彼女の人生は、仕事と、デザイン制作と、一人の時間で綺麗に埋め尽くされている。
その隙間に無理やり自分をねじ込んで、居場所を必死に確保しようと滑稽に踊ってる現実。
一緒にいる時は完全にその3割は掴めたと思うけれど、こうしてあっさり距離を取られると不安になる。
”あんたにとって俺は、無くなってもいい存在なわけ?”
「じゃあいいじゃない。研修旅行で海外なんてすっごい贅沢だし、この機会に色々見て回ったらいいと思う。正直すっごく羨ましいわよ。出来るならあたしも行きたいし」
追いかけられることが多かったけれど、それを鼻に掛けたり自慢に思ったりした事はなかった。
むしろ煩わしささえ感じていた。
それが今はどうだ?
俺の方が追いかけて、縋りついている。
けれど、不毛な質問をして、自分の立ち位置を自覚するなんてごめんだ。
どうやら俺は、いつの間にかこのどうしようもなく面倒くさい女にどっぷりハマっていたらしい。
☆☆☆
「俺から、全然連絡なくても平気?」
「だって遊びに行ってるんじゃないし・・」
簡単に本音を晒すようなタイプじゃないし、ましてここは外だ。
いくら馴染みの店とはいえ、自宅のようには出来ない。
ただ一言が欲しいだけなのに。
「仕事かどうかじゃなくて、俺が傍に居なくても、つぐみは平気なの?」
「・・・どうしたの?」
分かりやすい問いかけに、素直に答えてくれるような簡単な相手じゃないと分かっていたのに。
困惑しきったつぐみの表情のどこにも寂しさあ見えなくて、余計に気持ちが焦る。
あの夜は確かにこの腕に抱いて確かめられた温もりが、一気に遠のいた気がした。
”忙しいから連絡出来ないって、なに?”
”泊まり込みで仕事?”
”出張で電話出られないとか本気?”
不平不満を零しては、可愛らしく甘えて来た、喉がひりつくような甘い声が甦る。
ごめん、落ち着いたら連絡するから。
適当な返事で誤魔化して逃げた。
あの子たちが欲しがっていた言葉が今なら痛い位理解できる。
堪えきれなくて、腰に回した腕を力任せに引き寄せた。
傾いたつぐみの顎を掬って、唇を塞ぐ。
「・・・っん!!・・っ」
焦った彼女が閉じる直前に潜り込んだ舌先で、上顎を擽れば、つぐみはあっさりと身体の力を抜いた。
綺麗に弱点を突いてから、ゆっくりと口内を弄る。
逃げる舌先を絡めると、つぐみが苦しそうに鼻から抜ける甘い声を漏らした。
「っふ・・・ん・・・っ」
息継ぎの合間に零れる吐息が甘い。
丹念に時間をかけて蕩かせれば、少しずつつぐみもキスに応えるようになった。
彼女の困惑と、焦燥と、不安が舌先から伝わって来る。
それでも唇を解かないのは、つぐみが拙いなりにも六車にキスを返すからだ。
少なくとも、気持ちの無い相手に対してこんな風にキスを贈ったりはしない。
その事実だけは確信を持てる。
上唇をちゅっと啄んで、ゆっくり離れる。
「なぁ・・どーやったら、あんたは俺でいっぱいになるの?」
「は・・え?」
酸欠状態のつぐみが、六車の肩に頭を預けて大きく息を吐いた。
呼吸が整わない彼女の背中を優しく撫でて、六車が軽く首を振る。
「いい・・独り言だから、答えなくていい・・」
「・・・あ、の・・・壱成」
「いいから・・・黙ってて」
愚痴以外の何ものでもない本音を零してしまった。
子供みたいな自分の行動に呆れてものが言えない。
ついでにこのまま抱きしめられていてほしい。
みっともない位情けない顔をしている自覚がある。
顔を見られたくはなかった。
六車の腕に手をかけるかどうか、悩んでいたつぐみが、そっと顔を上げた。
咄嗟に視線を外した六車の両頬に、指を伸ばす。
恐る恐るという表現がぴったりな触れ方だ。
添える程度の弱い力で六車の頬を固定した指先は震えていた。
彼女の行動の理由が分からない。
「つぐみ?」
呼びかけると同時に、意を決したようにつぐみが顔を近づけた。
語尾を掬い取るように、濡れた唇が重なった。
「っ・・」
息を呑んだ六車の舌先を、つぐみが追いかけて捕まえる。
擽るように表面をなぞった舌先が、次の瞬間、電光石火の勢いで引き抜かれた。
唇を離したつぐみの目元が赤い。
「っは・・・ぁ・・・」
上がった息が、キスの余韻を含んでいて何とも言えない色気がある。
ぶつかった視線を絡めたままで、六車が問いかける。
自然と顔が綻んでいた。
「おしまい?」
「っ!!」
「ごめん、黙ってって言ったのは撤回する」
「今更っ・・・何言えっていうのよっ」
「今のキスで色々汲み取れってこと?」
「空気読んでよ!あたし今死ぬほど恥ずかしいのよ!」
「俺は今、すっげー幸せだけど」
「あっそう!」
「・・・ちょっとは寂しがってよ」
今度はちゃんと優しく伝えられた。
泣いて欲しいわけじゃないけれど。
「寂しいより、背中を押したいの、そういう女でいたいのよ、あたしは!」
「そんなカッコイイ女目指さなくていーよ」
柔らかく笑った六車が、つぐみの髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。
「ちょっとっ・・っん」
おまけ、と唇を啄んで、六車がありがとう、と囁いた。
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